第4章:市ヶ谷のコネクション、あるいは六本木シラミ駆除作戦
一、 銃火器奉納と、エルメスの偽装網
「畑中、あんた今日これから予定ある?」
地下駐車場からクリニックのロビーへと戻るエレベーターの中で、高峰麗華院長は隣の畑中愛看護主任に声をかけた。
「……特にないですよ。今日の分の外来もオペも、これで全部閉めてしまいますし」
畑中は、先ほど大宮徹三兵長を殴った右手の甲をさすりながらそっけなく答えた。
「じゃあ決まりね。私の家で美味しい物でも食べながら、このイーヨーの処遇についての作戦会議よ」
「え、院長のタワマンですか? いいんですか?」
畑中がようやく少しだけ口元を緩めて笑った。そんな二人の現代的な会話を、大宮兵長は三八式歩兵銃を抱え、軍袴の尻から灰色のロバの尻尾を不安そうにパタパタとのぞかせながら、直立不動で見つめていた。
麗華は『iPhone』を取り出すと、画面を滑らせてどこかへ電話をかけた。数分間、一般人にはおよそ理解できない「医療界と政界の闇のパイプ」を思わせる業界用語を並べて密談を終えると、彼女は冷徹な目で大宮を見据えた。
「大宮兵長、安心しなさい。アンタの持ってるその危なっかしい銃火器は、今から全部没収よ」
「な……っ!? 軍医殿、俺を丸腰にするつもりか! 銃を手放せば、大日本帝国陸軍軍人としての本分が――」
大宮は唖然とし、鹵獲したマンドリンを握り締めて一歩下がったが、麗華は冷たく鼻で笑った。
「今の時代はね、『銃刀法違反』っていう一発でブタ箱行きの厳しい法律があるのよ。でも安心しなさい。私の美容整形の顧客である『市ヶ谷(防衛省・陸上自衛隊)』の高官に話をつけておいたわ。アンタのその天皇陛下からの授かり物とロシアの鉄砲は、裏から手を回して『靖国神社』に厳重に奉納させてあげる。それなら文句ないでしょ?」
その言葉を聞いた瞬間、大宮の目にじわりと涙が滲んだ。祖国が敗戦した令和の世において、自分の魂とも言える三八式歩兵銃が、英霊たちの集う靖国に奉納される。それは、古参兵にとってこれ以上ない救いだった。
「……軍医殿。過分なる御配慮、深く感謝いたしますであります……」
数分後、クリニックの地下通用口に、秘密裏に手配された陸上自衛隊のオリーブドラブ色のトラックが静かに滑り込んできた。大宮の三八式歩兵銃、弾帯、三十年式実包、そして鹵獲したPPSh-41短機関銃は、自衛官の手によって丁寧に回収され、運ばれていった。
「さあ、丸腰になったら移動よ」
三人でパールホワイトのレクサス・LSに乗り込み、六本木の中心部にそびえ立つ最高級タワーマンションへと向かった。車窓から流れる、ガラス張りの高層ビル群、眩いばかりのネオン、見たこともない色彩の衣服を纏った群衆の波。
「これが……今の六本木か。麻布の第三連隊があった頃とは、まるで天と地ほどの違いだ……」
大宮は車内から都内の街並みに完全に目を見張っていた。だが、彼の頭上では灰色のロバの耳がピクピクと動き、軍袴の尻からは尻尾が座席の高級レザーをべちべちと叩いている。
「ちょっと大宮さん、アンタ外だとめちゃくちゃ目立つから。ほら、その不気味な尻尾はズボンの中に強引にねじ込んで。頭の耳は、これで上手く隠しなさい」
麗華がバーキンから取り出して投げつけたのは、鮮やかな色彩が施された数百万円相当の『エルメス』の最高級シルクスカーフだった。大宮は「ははっ、これは見事な偽装網でありますな」と大真面目に感心しながら、エルメスでロバの耳をぐるぐる巻きにして隠した。
二、 高級タワマンの侵入と、シラミの急襲
レクサスを地下駐車場に停め、大理石の豪華なエントランスを歩く三人。大宮が歩を進めるたびに、泥まみれの軍靴(鉄鋲付き)が「カチィン! カチィン!」と高級マンションの静寂に目立つ音を響かせ、麗華をハラハラさせた。
「言っておくけど、私の部屋、今ちょっと散らかっているからね」
麗華がそう言い訳をしながらキーをかざし、最上階のペントハウスへと直行する高速エレベーターに乗り込んだ。
到着した麗華の部屋は、東京の壮大な夜景が一望できる、壁一面がガラス張りの広大な空間だった。カッシーナの高級ソファや大理石のテーブルが並び、その隙間にホストクラブの高級シャンパンの空き瓶や、ブランド品の紙袋が散乱している。
「大宮兵長、アンタさっきから異常に臭いし、泥と油で汚すぎるから。とりあえず、そこで歯磨きして、お風呂に入ってきなさい!」
「おぉ、入浴でありますか! 満州の最前線では泥水を浴びるのが関の山でした。五右衛門風呂でも何でも、喜んで入らせていただきます!」
大宮は久しぶりの入浴の機会に、ロバの耳をエルメスの下でピコピコと動かして喜んだ。
「畑中、悪いけどちょっと手伝ってあげて」
「了解です。ほら、イーヨー、こっち来て」
畑中主任が大宮を促し、最新の高級ジャグジー付きバスルームへと向かう。大宮が九八式軍衣を脱ぎ、軍袴を脱ぎ捨て、丸裸になったその瞬間――。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!!!!」
バスルームの密閉空間から、畑中愛看護主任の、鼓膜を突き破らんばかりの凄まじい悲鳴がタワマン中に鳴り響いた。
「ちょっと何事!? 畑中!?」
麗華が慌ててリビングから駆けつけると、畑中は脱衣所の床にへたり込み、顔を真っ青にして大宮の衣服を指差していた。
「院長! キモい! キモすぎます! このイーヨーの頭部、衣服、身体中……至るところに、信じられない数のシラミ(虱)が湧いてます!!!」
「ぎゃぁぁぁぁぁっ!? 嘘でしょ、キモい! ありえないわ!!」
麗華も、大宮の脱ぎ捨てた九八式軍衣の裏地や、大宮の不潔なデリケートゾーンの毛並みでワラワラと蠢く無数の吸血昆虫の姿を目撃し、女性二人の悲鳴がバスルームに木霊した。昭和二十年の敗走戦の最前線、衛生環境が最悪の満州の内務班を生き抜いてきた古参兵の肉体は、現代の清潔区域においては歩く生物兵器そのものだった。
「早く! 早くそのシャワーの最高温度で全身を洗い流しなさい!! 畑中、その汚物みたいな衣服は、今すぐキッチンの特大鍋で『煮沸消毒』よ! 一匹残らず茹で殺すのよ!!」
麗華が狂ったように指示を飛ばす中、大宮兵長は股間を隠すこともなく、軍人らしい堂々とした丸裸の姿勢のまま、ロバの耳を垂らして困惑した。
「……軍医殿、すまんが、この最新式の湯殿の使い方がさっぱり分からんであります。湯はどこから沸かすのですか?」
三、 墨汁の湯船と、本日二度目の炸裂
「あーもう、これだから昭和の化け物は!!」
畑中主任がキレながらタッチパネルの「自動お風呂沸かし」のボタンを押し、大宮を高級バスタブの中へと強引に押し込んだ。
だが、大宮の身体が湯船に浸かった、そのわずか数秒後のことだった。
「いやぁぁぁっ! 嫌ァァァーッ!!! キモすぎる!!!」
本日何度目か分からない畑中の悲鳴が再び轟いた。
最新のジャグジーから溢れ出るはずの透明な湯が、大宮の全身から溶け出した数ヶ月分の垢、満州の赤土、銃器の鯨油、そして人間の返り血の凝固した汚れによって、みるみるうちに「墨汁」のごとく真っ黒に変色していったのだ。湯面にはシラミの死骸と不穏な油膜がプカプカと浮かんでいる。
「ちょっとアンタ、何日お風呂入ってないわけ(風呂キャンしたわけ)!? 衛生観念どうなってんのよ!!」
畑中が吐き気を堪えながら怒鳴ると、大宮は湯船の中でロバの耳をバシャバシャと濡らしながら、図太く答えた。
「……覚えてねぇよ。昭和二十年の5月に、熱河省の戦線で川に入って以来だったか……」
「一年以上風呂入ってないじゃないのよ!!」
麗華は脱衣所のドアの隙間からその墨汁の湯船を見て、頭を抱えた。
「畑中……本当に悪いんだけど、そのイーヨーの『入浴介助』、あんたが徹底的にやってあげて。医療現場のつもりで、特殊清掃並みのガチ洗いでお願い!」
「ええっ!? 院長、正気ですか!? 私がこのロバ男の体を!?」
畑中は唖然として白目を剥いたが、麗華は「エルメスのスカーフ代、アンタの給料から引くわよ」と冷酷に言い残してリビングへ避難していった。
残された畑中主任は、覚悟を決めて業務用の防水エプロンを羽織り、強力な殺菌シャンプーを手に大宮の背後に回った。
大宮兵長は、現代のシャンプーの豊かな泡立ちと香りに「ほう、これは心地よい……」と満足げに目を細めていた。
大宮は、丸裸のまま湯船からぬっと立ち上がると、ニヤニヤとした古参兵特有の下卑た笑みを浮かべ、畑中のベリーショートの顔面に己の股間を近づけて言い放った。
「――愛ちゃん、すまんがな。褌を取ったら、どうもこの『股間』が猛烈に痒いんだ。古参兵の特権として、ちょっとそこも念入りに洗ってくれないか?」
ハラスメントなどという言葉が影も形もない時代からの、最悪のセクハラ発言。
――パギィィィィィィンッッッッッ!!!!!!!
本日二度目となる、畑中愛看護主任の渾身の、そしてさっきの二倍の威力を込めた右ストレート・ビンタが、大宮の濡れた左頬へと完璧に炸裂した。
「ぶはっ!!!」
大宮の身体は、高級バスタブの墨汁のような黒いお湯の中へと、派手な水飛沫を上げて真っ逆さまに沈んでいくのだった。
(第5章へつづく)




