第3章:八十年の孤絶、あるいは敗戦の涕泣
一、 鉄塊の矜持と、人目を忍ぶ移動
「……院長、今日の精神科の夜間・休日当番病院ってどこでしたっけ? 今すぐ救急搬送の連絡入れた方がいいですよ、これ」
畑中看護主任は、ビンタした右手のひらを不機嫌そうにさすりながら、冷徹な声で麗華に告げた。その視線の先では、泥まみれのロバの耳を真っ赤に怒らせた大宮兵長が、いまだに憤怒の形相で息を荒げている。
「貴様ッ、失礼極まるぞ! 軍医殿ッ、自分は気など触れておりません! 奉天の第一線陣地から、転進(移動)の最中であります!」
大宮は、九〇式鉄帽をガシャリと直しながら、直立不動のまま麗華に向かって必死に弁明した。その直情的な叫びは、コンクリートの地下駐車場に虚しく響くだけだった。
麗華はレクサスのドアに寄りかかり、ヴァージニア・スリムの煙を吐き出しながら、チラリと駐車場の監視カメラと、地上の通りへ続くスロープを見上げた。
「はいはい、分かったから。大宮兵長、だったかしら? ここは人目につくの。そんな薄汚れた軍服で、本物かどうかも分からない鉄砲を二挺も抱えた化け物がウロウロしてたら、一発で通報されて私の今月の歌舞伎町通いが破滅するわ。とりあえず中に入りましょう」
麗華がルブタンのヒールを鳴らしてクリニックの通用口へ歩き出すと、大宮は肩の三八式歩兵銃の位置を直し、ソ連軍のマンドリン(PPSh-41)をしっかりとホールドしたまま、警戒を怠らずにその後を追った。
自動ドアをくぐり、大理石が敷き詰められた内装と、最新の空気調和設備が効いたホワイエに足を踏み入れた瞬間、大宮の長いロバの耳がピクリと跳ね上がった。
「……素晴らしい。これが内地の陸軍病院でありますか。内地の医療設備は、満州の陸軍病院とは比較にならんほど充実している施設でありますな」
場違いな感嘆を漏らす大宮に、鍵を片手に歩いていた麗華がふと振り返り、冷やかすような目を向けた。
「ねえ、大宮さん。さっきから大事そうに抱えてるその二つの銃、それって本物なわけ?」
その問いに、大宮は一瞬啞然とした表情を浮かべた。だがすぐに顔を引き締め、再び軍靴の鉄鋲をカチリと響かせて直立不動の姿勢をとった。
「軍医殿、一つはこのマンドリン……奉天で擱座させた露助のT-34戦車から奪い取った、敵軍の鹵獲兵器であります。……ですが、この三八式歩兵銃は……!」
大宮は肩から三八式を恭しく両手で捧げ持ち、その銃木床の先、薬室の直上に刻まれた『十六弁の菊花紋章』を麗華に指し示した。砂塵で汚れてはいるが、大宮の手入れによってその刻印ははっきりと残っている。
「これは、大日本帝国陸軍軍人として、天皇陛下から直々に賜った兵器であります! 命に代えても、露助や非国民に渡すわけにはまいりません!」
二、 新聞紙上の天変地異
「院長、これ」
廊下の先から、事務室を経由してきた畑中主任が足早に戻ってきた。その手には、先ほど配達されたばかりの朝刊(大手全国紙)が握られていた。
「何よ畑中、今それどころじゃ――」
「いいから、このイーヨーに見せてあげてください」
畑中は無表情のまま、大宮の目の前でバサリと新聞紙を広げた。
大宮は、不審そうにロバの耳を前に傾け、活字が並ぶ紙面を見つめた。
最初に彼の目に飛び込んできたのは、一面の最上段に印刷された、文字の羅列だった。
『二〇二六年(令和八年)八月十日』
「……に、二〇二六年……? れいわ……?」
大宮の脳髄を、奉天の一五二ミリ榴弾砲の直撃を受けたかのような、凄まじい衝撃が突き抜けた。
彼は何度も目をこすり、活字を凝視した。昭和二十年は、西暦で言えば一九四五年だ。計算が合わない。指を折り、脳内で数字を弾き出そうとした瞬間、彼の全身の毛穴から、滝のような大量の脂汗が噴き出した。
八十年。
自分が満州の井戸に身を投じてから、八十年という途方もない時間が経過している。
「嘘だ……そんな馬鹿なことが、あってたまるか……!」
大宮の強靭な膝頭が、見たこともないほどブルブルと激しく震え始めた。三八式歩兵銃を支える手の力が抜け、銃床が危うく大理石の床に激突しそうになる。
「軍医殿……これは、これは一体、何のタチの悪い謀略でありますか……!? 自分は、昭和二十年の八月に、確かに奉天の戦場にいたはずであります……!」
麗華は、大宮の顔から完全に血の気が引き、土気色に変わっていくのを見て言った。
「タイムスリップ……ってやつかしらね、映画とかでよくある」
麗華は鼻で笑った。最初は質の悪いコスプレ狂言かと思っていたが、この大宮という男が流している脂汗と、尋常ではない怯え方は、およそ演技で真似できるものではなかった。本物の「狂気」か、あるいは「真実」か。麗華のリアリストとしての直感が、後者だと告げていた。
「大宮さん、現実を教えてあげるわ。アンタがいた戦争は、とっくに終わったのよ。日本はね――負けたの。徹底的にね」
――負けた。
その一言が、大宮の耳の奥で爆鳴した。
「……我が大日本帝国が……敗れた……? 敵の捕虜にならぬよう、あれほど多くの若い兵隊が爆雷を背負って散っていったというのに……満州の関東軍が、無敵の皇軍が、露助やアメ公に屈したというのですか……っ!」
「そうよ。国は一度、完全に滅びかけたわ」
麗華は冷酷に事実を告げ、しかし少しだけ声音を和らげた。
「でもね、安心しなさい。アンタがさっき言ってた天皇制は、形を変えて今でもちゃんと続いているわよ。今の日本は、戦争もなくて、お金とブランド品にあふれた、最高の平和な国よ」
「ああ…………、あああああッ!!!」
その瞬間、大宮徹三という古参兵の精神を満たしていた「大日本帝国」という名の最後の支柱が、完全に叩き折られた。
大宮は床に両膝を突き、その場に崩れ落ちた。肩にかけた三八式歩兵銃が悲鳴のような金属音を立てて床を転がる。
彼は両手で顔を覆ったが、指の隙間から、濁った涙と鼻水がとめどなく溢れ出し、泥まみれの九八式軍衣をさらに汚していった。
「うおぉぉぉぉんッ! ああぁぁぁぁっ……!」
それは、大人の男のものとは思えない、子供のような、そして獣のような、魂の底からの慟哭だった。数年間の軍隊生活の理不尽、奉天での強姦や略奪の狂気、それらすべてを「お国のため」「聖戦のため」と言い聞かせて麻痺させてきた大宮にとって、日本の敗戦は、己の犯してきたすべての業(罪)が、何の意味もないただの「犬死にと暴挙」に終わったことを意味していた。
あまりにも無惨で、あまりにも憐れなその嗚咽に、さきほど彼を激しく殴り飛ばした畑中主任も、ブランド品しか興味のない麗華も、思わず声を失い、気の毒そうにその背中を見つめるしかなかった。
三、 冷徹なる渇きと、癒着した不条理
ひとしきり泣き叫び、喉を詰まらせてゼーゼーと喘ぐ大宮の前に、スッと一本のプラスチックの筒が差し出された。
畑中主任が、クリニックの備蓄から持ってきたペットボトルのミネラルウォーターだった。彼女はあらかじめ、大宮の手が震えているのを見て、親切にプラスチックのキャップを取り外して渡してやったのだ。
「……ほら、これでも飲みなさいよ。死にかけのイーヨー」
畑中のそっけない言葉に、大宮は涙を拭うこともせず、その未知の透明な容器をひったくるようにして受け取った。そして、狂ったように口を付け、一気に中身を流し込んだ。
ゴク、ゴク、ゴク、ゴクッ!!!
冷たい。そして、異常なほどに澄み切っている。
満州の、泥とボウフラが浮いたような不潔な井戸水でも、陸軍病院の薬品臭い精製水でもない。八十年の時を超えて大宮の喉を潤したのは、純粋な令和の日本の恵みだった。
「……ぷはっ……! う、美味い……。久しぶりに、こんな美味い水を飲んだ……。ありがとう、従軍看護婦殿……」
大宮はボトルの底を見つめながら、掠れた声で呟いた。古参兵としての図太さが、冷たい水のおかげで少しだけ呼び戻されたようだった。
「さて、喉も潤ったところで、本題に戻りましょうか」
麗華は腕を組み、大宮の頭上でいまだに力なく垂れ下がっている灰色の長い耳と、軍袴の尻から力なく伸びる尻尾を指差した。
「敗戦のショックは同情してあげるけど、その頭の耳と尻尾は何なわけ? 令和の医療技術でも、そんなコスプレの癒着手術は見たことないわよ」
大宮は、自分のロバの耳をそっと手で触り、奉天の泥門での記憶を思い出して呪わしそうに顔を歪めた。
「……奉天の民家で、略奪の最中に後ろから長い木の杖を持った白い服の老人に殴られました。……その老いぼれ――奉天の『仙人』に、呪いをかけられたのであります。弱者を蹂躙した罰として、ロバになれと……」
「はぁ? 仙人の、呪い……?」
麗華と畑中主任は、再び顔を見合わせ、完全に呆然とした。
「院長、やっぱりこの人、タイムスリップの衝撃で脳のシナプスが焼き切れてますよ。仙人って何ですか、西遊記じゃあるまいし」
「いや、でも畑中、ちょっと見てみなさい」
麗華はゴム手袋をはめた手で、大宮の頭頂部、ロバの耳の付け根の皮膚を強く押し広げた。
「……信じられない。人工的な縫合痕も、接着剤の跡もないわ。人間の側頭骨と頭頂骨の縫合線(頭骨の継ぎ目)に、ロバの軟骨組織が完全に『癒着』して、毛細血管まで繋がってる。これは……外科手術で植え付けたものじゃない。本当に、細胞レベルで変異してるわ」
麗華の目が、美容外科医としての冷徹な好奇心と、マニアックな金勘定の光でギラリと細められた。
「これは……私のクリニックの最新設備で、一度徹底的に『レントゲン』と『CT』を撮るしかないわね。大宮兵長、アンタのその身体、じっくり解剖(検査)させてもらうわよ」
昭和二十年の奉天での業を背負ったまま、令和の最新医療の檻へと囚われようとしている大宮徹三。敗戦を知った古参兵の、本当の不条理な戦いが、今ここから始まるのだった。
(第4章へつづく)




