第2章:不潔区域の不時着、あるいはモダンガールとの対峙
一、 レクサスの紫煙と、異形の落下
土曜日の午前中だけという、変則的な外来診察のスケジュールがようやく幕を閉じた。
高峰美容整形クリニックの院長、高峰麗華は、ヒアルロン酸注入や二重整形(埋没法)のカウンセリングで擦り切れた神経を癒やすように、仕立てのいい真っ白な白衣を翻して地下駐車場へと降りていった。愛車であるパールホワイトの『レクサス・LS』に乗り込み、電子キーを押して静粛性の高いV6ツインターボエンジンを始動させる。
パワーウィンドウを滑らかに下げると、助手席に放り出したエルメスの高級バッグ『バーキン』のクロコ革の隙間から、細身の『ヴァージニア・スリム』の箱と、18Kゴールドが鈍く光る『カルティエ』のガスライターを取り出した。
シュカッ、と小気味よい金属音と共に放たれた炎がタバコの先端を赤く染める。麗華が細い唇からふうっと吐き出した紫煙が、レクサスの車内に漂った。同時に、ダッシュボードに組み込まれた最新式空気清浄機のLEDランプが、汚れた空気を検知して即座に禍々しい赤色から不穏な青色へと明滅を始める。
「はぁ……。やっと今週の労働が終わったわ。今夜は歌舞伎町に繰り出して、あの担当ホストにシャンパンタワーでも入れて、思いっきり現実逃避しちゃおうかしら」
麗華がそんな贅沢な欲望を頭の中で転がしていた、まさにその瞬間だった。
――ドサッ!!!
高級車の防音性を突き破り、コンクリートの地下駐車場に、およそ不釣り合いな肉厚の不条理な衝撃音が響き渡った。まるで、泥まみれのジャガイモの袋を高いところから地面に叩きつけたかのような、鈍く重い金属混じりの音。
「な、何よ今の音……っ!?」
麗華はカルティエのライターをバーキンに放り込み、ウィンドウに押し付けたヴァージニア・スリムの灰を揉み消して車外へと飛び出した。
レクサスのすぐ隣、油一つ浮いていない平滑なアスファルトの上に、泥と硝煙にまみれた茶褐色の――いや、帝国陸軍の制式仕様である「国防色」の九八式軍衣を纏った男が、不恰好にうずくまっていた。
「ちょっと……大丈夫ですか!?」
麗華は思わず声をかけたが、その直後、男の全身を構成する凄まじい「戦場の記号」を前にして、言葉を失い、呆然と立ち尽くすしかなかった。
男の頭部、日除けの垂れ布が付いた布製の略帽の上には、内側に麻紐を巡らせた四五口径(11.5ミリ)の銃弾すら弾くという重厚な九〇式鉄帽が、ズレた状態で深く被せられていた。背中には、過酷な満州の泥土を掘り進むための、折りたたみ式のシャベル――円匙が括り付けられたガチガチの背嚢が背負われている。
そして足元には、ふくらはぎを執念深く締め上げる布製の帯――ゲートル(巻脚絆)が何重にも巻き付けられ、その先には、奉天の赤土と人間の乾いた返り血が何層にもこびりついた、鉄鋲付きの重厚な軍靴がアスファルトを汚していた。
さらに最悪なことに、男の背嚢の脇には、長大な木製銃床を持つ帝国陸軍の誇る三八式歩兵銃が負い紐で斜め掛けにされており、その手には、ドラムマガジンが鈍く光るソ連軍の鹵獲品、通称『マンドリン』ことPPSh-41短機関銃がしっかりと握られていた。猟銃などという生ぬるいものではない。本物の、人を殺戮するための軍用ライフルが二挺、そこに転がっているのだ。
「……サバゲーの不審者? いや、それにしては……」
麗華は鼻を突く凄まじい悪臭に、思わず顔を顰めた。
サバイバルゲームの愛好家が流すような爽やかな汗の匂いではない。それは、何週間も風呂に入らずに放置された人間の垢と煤の臭い、衣服に染み込んだ硝煙のツンとする焦げ臭さ、そして大宮兵長が先ほど民家で暴いた、戦場の生々しい血と欲望の混ざり合った「獣の臭気」そのものだった。
だが、麗華が何よりも驚愕したのは、男の頭部から飛び出していた「それ」だった。
略帽の左右の隙間を突き破るようにして、天に向かってピンと伸びているのは、ザラザラとした灰色の粗い毛並みを持つ、どう見ても本物のロバの長い両耳だった。さらに、軍袴の尻の裂け目からは、灰色のウマ科特有の細長い尾が、アスファルトの上で恐怖と混乱にパタパタとのたうち回っていたのだ。
二、 官姓名の絶望と、看護主任の不機嫌
麗華の視線に気づいたのか、大宮徹三兵長は、狂いそうなほどの偏頭痛に耐えながら、泥まみれの顔を跳ね上げた。
彼の目が、目の前に立つ白い衣(白衣)を纏った、モデルのように背の高い絶世の美女を捉える。大宮の頭の中で、四年間の在営生活で叩き込まれた「階級と規律」の回路が、バチンと音を立てて火花を散らした。
(白い着衣……! 奉天の地獄の戦場に、このような清潔な外套を着て立てる人間は、ただ一人しかいねえ!)
ガバッ!!!
大宮は、ロバの耳を激しく羽ばたかせながら、軍靴の鉄鋲を「カチィン!」とアスファルトに激しく激突させ、直立不動の姿勢を取った。そして、右手を鋭くこめかみへと突き上げる、完璧な挙手の礼(敬礼)を決めた。
「――軍医殿ッ!!! 独立混成第百一旅団、大宮徹三兵長ッ! 奉天撤退戦の最中、不測の事態により前線より離脱! 突然の不時着、誠に申し訳ありませんでありますッ!!!」
地下駐車場に、大宮の鼓膜を破らんばかりの絶叫が木霊した。
「ぐ、軍医……!? ちょっと、大きな声出さないでよ、響くじゃない!」
麗華は耳を塞ぎながら唖然とした。兵長? 独立なんとか旅団? この男、何を言っているの。
「貴様、官姓名(名前)は! どこの陸軍病院の所属だ!」
大宮が大真面目にロバの耳をピクピクさせながら問い詰める。
「はぁ!? 私は高峰麗華! ここ、高峰美容整形クリニックの院長よ!」
麗華が呆れ果てて名乗ると、大宮は「大変失礼致しました。タカミネ……レイカ軍医殿、ありますか!」と、勝手に脳内で軍医に昇格させて納得した。
これは、一人の手に負える変質者ではない。本物の武器を持っている以上、このまま駐車場に放置すれば、明日からのクリニックの営業停止どころか、国家規模の警察沙汰になる。
「あーもう、ヤバい匂いしかしないわね。……もしもし、畑中?」
麗華はバーキンからPHS(クリニック内の内線用子機)を引っ掴み、素早くボタンを押した。
「あ、畑中主任? ちょっと今すぐ、地下の第一駐車場まで来て。……いいから早く! 動かせるカルテより重い患者(?)が落ちてるのよ!」
数分と経たずに、ベタベタと静電気防止用のナースシューズの音を響かせて、足早にやってきたのは畑中看護主任だった。
まだ二十代半ばと若いが、男勝りのベリーショートに、常にピシッとしたスクラブの看護服を着こなす、クリニック随一のしっかり者であり、麗華の右腕だ。
「院長、一体何事ですか。これから午後のオペの器具消毒が――」
畑中は、レクサスの横で直立不動のまま、ロバの耳を不機嫌そうに震わせている大宮の姿を見て、完全に思考が停止した。
(……は? ハロウィンのコスプレ? いや、今ってまだ八月真っ盛り(夏)よね? っていうか、何あの耳、ディズニーのくまのプーさんに出てくる、あのネガティブなロバのキャラクター『イーヨー』のコスプレのつもり? にしては、服がリアルに汚すぎるし、あの抱えてる鉄砲、不穏すぎるんだけど……)
三、 内務班の悪習と、痛烈なる一撃
畑中主任が内心で激しいツッコミを入れながら大宮を睨みつけていると、大宮兵長の目が、彼女の短い髪と、スクラブの胸元へと向けられた。
四年間の軍隊生活、男しかいないむさ苦しい内務班の規律に脳を冒されている大宮にとって、畑中のベリーショートは、軍人としての「ある致命的な違反」にしか見えなかった。
「おい!!! そこにいる衛生兵(看護師)ッ!!!」
大宮は、ロバの尻尾を激しく怒りで床に叩きつけながら、畑中を指差して大声で怒鳴り散らした。
「貴様ッ、その頭髪の乱れは何事だ! 軍人髪(丸刈り)にもなっておらんではないか! 週番下士官の検閲があれば、一発で往復ビンタだぞ! 早く内務班に戻って、バリカンで坊主頭にしてこいッ!!」
突然、泥まみれのロバ耳男から「坊主頭にしろ」と理不尽な怒号を浴びせられ、畑中のこめかみに青筋がピキリと浮かび上がった。
「はあ!? 何言ってるのよこの変質者。私は衛生兵じゃなくて、ここの『看護師』です! 髪型なんて私の自由でしょ!」
畑中が鋭く言い返すと、大宮は一瞬、頭のロバの耳をきょとんと垂れ下げ、驚いたように瞬きをした。
「……すまん、失礼した。なんだ、男の衛生兵ではなく、従軍看護婦(日本赤十字社の救護看護婦)だったのか」
大宮は、自分の勘違いに気づくと、ハハハと古参兵特有の品性のない下品な笑い声を漏らした。そして、畑中のスクラブの胸元の膨らみを、ねっとりとした戦場帰りの目で凝視しながら、下卑た調子で言い放った。
「なるほど、よく見ると、服の上からでも『おっぱい』がしっかり出ているもんなあ! 道理で女の匂いがするわけだ、ガハハハ!」
戦時中の内務班や、慰安所で日常的に交わされていた、女性を「性欲の対象」としか見ない下劣な軍隊ユーモア。だが、ここは令和のハラスメントに最も厳しい最新の美容クリニックである。
――パギィィィィンッッッ!!!
地下駐車場に、大宮の怒鳴り声をも凌駕する、凄まじい破裂音が炸裂した。
畑中看護主任の、日々の業務(重いカルテや医療機器の搬送)で鍛え上げられた渾身の右ストレート気味のビンタが、大宮の泥まみれの左頬へ完璧にクリーンヒットしたのだ。大宮の九〇式鉄帽がガシャンと音を立ててズレ、口内から奉天の砂混じりの血が飛び散る。
「な……ッ!? 貴様ッ!!!」
大宮は殴られた頬を押さえながら、信じられないものを見る目で畑中を睨みつけ、激昂して泡を飛ばした。数年間の軍隊生活、二等兵から兵長に這い上がるまで、数え切れないほどの鉄拳制裁を受けてきた大宮だったが、階級の低い「看護婦の分際」から殴られるなど、彼の帝国陸軍軍人としてのプライドが絶対に許さなかった。
「貴様あぁぁッ! 看護婦の分際で、大日本帝国陸軍兵長であるこの俺をよくも殴りおったなッ!! 軍紀違反だ! 完全に上官(上級者)への反逆、軍法会議ものだぞッ!!! おい、軍医殿! すぐに憲兵隊を呼んでください! この生意気な女狐を、今すぐ陸軍刑務所へ叩き込んでやるッ!!!」
駐車場中に響き渡る大宮兵長の狂ったような喚き散らし。
しかし、目の前で大声を上げて憤慨している大宮を、麗華院長と畑中主任の二人は、ただただ冷たい、ゴミを見るかのような呆れ果てた目で見つめるしかなかった。
「……院長。やっぱりこれ、ハロウィンじゃなくて、ただの頭の狂ったガチの不審者です。警察呼びましょう」
「待ちなさい畑中、警察はダメよ。……でも、この男の脳内、令和の常識が1ミリも通じないことだけは分かったわ……」
泥と返り血にまみれ、ロバの耳を真っ赤にして怒り狂う最悪の古参兵・大宮徹三。彼と、現代の欲望と現実を生きる二人の女性との「絶対に噛み合わない令和の内務班生活」は、こうして最悪のビンタと共に、本格的な幕を上げるのだった。
(第3章へつづく)




