第1話:奉天、血煙の戦場と理不尽なる呪い
昭和二十年、八月。満州の空は、大日本帝国関東軍の崩壊を告げる鉄と硝煙の黒煙に覆い尽くされていた。ソ連軍の『マンチュリア特攻作戦』による電撃的な侵攻。
上空を不気味な金属音を響かせて飛び交うのは、赤い星を分厚い翼に描いたソ連軍のYak戦闘機だ。地上では、遥か後方から放たれるソ連軍の一五二ミリメートル榴弾砲が、雨霰と奉天の街へ降り注いでいる。着弾のたびに大地が激しくめくれ上がり、爆風と共に巻き上がった濃密な黒煙が太陽を遮り、戦場を暗黒の地獄へと変えていた。
かつて「精鋭」と謳われた面影はどこにもない。関東軍の電撃的な侵攻の前、大宮徹三兵長が所属する独立混成第百一旅団――通称、東山兵団は、命令系統が完全に霧散し、文字通りの壊滅状態に陥っていた。周囲の塹壕に転がっているのは、根こそぎ動員で集められたばかりの、まともな訓練も受けていない不揃いな国民兵や少年兵の死体ばかりだ。
ダダダダダダダダッ!!
黒煙の向こうから、地響きと共に迫るT-34/85戦車。その影から、ソ連兵たちが手にした『マンドリン』ことPPSh-41短機関銃を連射しながら、怒涛の勢いで攻め入ってくる。日本の婦女子や邦人たちに対する、赤軍の略奪、強姦、銃殺――目を覆いたくなるような凄惨な光景が、あちこちの路上で繰り返されていた。
「ちっ、おのれ露助め……!要領の悪い初年兵から死んでいきやがる」
大宮徹三兵長は、低く悪態をつきながら敗走していた。二十六歳。昭和十六年の開戦前から軍隊の飯を食っている筋金入りの古参兵だ。軍隊の理不尽な規律には耳にタコができるほどやかましいが、戦場でいかにして泥臭く生き延びるかという「要領の良さ」に関しては、誰よりも長けていた。
彼の身に纏う九八式軍衣は、満州の赤土と酷使された汗、銃器の油が染み込んで赤茶け、襟元の「兵長」の階級章は擦り切れている。手にした三八式歩兵銃の照門には奉天の細かい砂塵がジャリジャリと噛んでいた。残弾は、弾帯にある三十年式実包がほんの数発だ。
その時、一人の若い日本の兵隊が、九九式破甲爆雷を背負ったままキャタピラを鳴らすT-34の車体下へと身を投じた。轟音と共に黒煙が上がり、戦車が擱座する。
「――よし、見逃さねえぞ」
大宮はその好機を逃さず、傾斜装甲へ敏捷によじ登った。外側から戦闘室の天蓋を力任せに抉じ開ける。「ウラー!」と叫び、車内から身を乗り出そうとしたソ連兵を三八式歩兵銃の銃口で脅し、奥にいたソ連の女性兵士を強引に車外へ引きずり出した。「動くな! 降りろ!」
それと同時に、腰の九九式手榴弾の頭部を装甲に叩きつけ、信管を起動させてハッチの奥へと投げ込んだ。
ドゴォォン!
車内で鉄の爆音が籠り、ハッチから黒煙と火炎が噴き出した。天蓋から覗き込むと、車内は文字通りの地獄絵図。まだ虫の息でうめいていたソ連の戦車長に向け、大宮は冷酷に三八式歩兵銃の一発を撃ち込み、確実に息の根を止めた。
戦場において、慈悲など何の役にも立たない。あるのは報復と、己の欲望だけだ。
「おい、こっちに来い」日課の慰安所通いの欲望をぶつけるように、大宮は嫌がる女性兵士を近くの崩れかけの支那人の民家へと連れ込み、強引に蹂躙した。欲望を満たした後、彼女を全裸のまま荒野へと放り出す。「ざまあみろ、露助が」と唾を吐き、さらに家の中を物色して、金目のものや腕時計、貴重な杏露酒の瓶、食料を茶褐色の雑嚢へと詰め込んだ。そのまま、彼はその支那人の家の中を物色し始めた。戦場での要領の良さとは、こういうことだ。「ヒィィ、やめて……!」と泣き叫ぶ支那人の少女をもついでとばかりに餌食にした。「この、日本鬼子がぁッ!」と包丁を手に掴みかかってきた父親の顔面を、三八式歩兵銃の銃床で容舎なく殴り飛ばした。鼻骨が砕ける嫌な音が響き、父親が血反吐を吐いて床に転がる。
さらに、大宮は転がっているソ連兵の死体から、ドラムマガジンが装填された重いマンドリン(PPSh-41)を引っ剥がし、己の戦利品として鹵獲した。
「ふん、さて、そろそろズラかるか」
三八式歩兵銃を肩にかけ、鹵獲したマンドリンを手に、戦利品で膨らんだ雑嚢を背負って泥門を出ようとした、その瞬間だった。
バキィィンッ!!
背中に、割れるような激痛が走り、大宮はその場に派手にのめり込んだ。
「ぐあッ!? ……おのれ、誰だ!」
素早く振り返ったが、そこにいたのはソ連兵ではなかった。真っ白な衣服を纏い、不気味に節くれ立った長い木の杖を握る、まるで中華の伝承に現れる『仙人』そのものの老人が立っていた。
老人は燃え盛る怒りの目で杖を突きつける。
「天理破滅、因果応報……! 己の欲望のままに動く家畜だ。弱きを挫き、戦禍に乗じて獣の如く貪る異国の兵卒め。汝の業、万死に値する!……最も愚鈍にして健気なる『ロバ』となりて、未来永劫、その業を背負うが良い!!」
老人の杖が放った不気味な紫色の光とともに、全身の骨が組み替わるような凄まじい激痛が大宮を襲った。
「あがぁぁぁぁッ!!」
激痛が引き去ったとき、大宮は自分の身体に走った強烈な違和感に気づいた。
軍袴のケツがバリバリと裂けている。恐る恐る自分の尻に手をやると、そこから生えていたのは、人間の肌ではなく、硬くザラザラとした灰色の毛並みの、細長い『獣の尻尾』だった。大宮は血の気が引くのを感じながら、民家の割れた鏡の破片を拾い上げ、狂ったように自分の顔を映した。
「……な、なんだこれは……っ!?」
鏡の中にいたのは、自分であって自分ではない化け物だった。頭頂部の左右から、天に向かってニョキリと伸びる、ザラザラとした灰色の長い『ロバの耳』が、恐怖に小刻みに震えていた。
大宮は唖然とした。頭の中が真っ白になり、気が狂いそうだった。
大日本帝国陸軍の軍人が、家畜の化け物になるなど、日本兵としての最大の恥辱だ。敵の捕虜になって生き恥を晒すのと、何ら変わりはない。いや、それ以上の生き地獄だ。
「ふざけるな……誰に、誰にこんな姿を見せられるかッ!!」
古参兵としての凄まじいプライドと狂気が彼を突き動かした。大宮は三八式歩兵銃を肩にかけ、鹵獲したマンドリンをしっかりと両手で握り締め、略奪品の詰まった雑嚢を抱えたまま、民家の裏手にあった干からびた古井戸へと全力で走った。そして、迷うことなくその暗黒の底へと身を投じた。
ヒュゥゥゥゥゥン――。
凄まじい落下感のあと、大宮の身体はドンッ!と、妙に硬く、平らな地面へと叩きつけられた。
「……がはっ! ゲホッ!」
這いつくばった鼻を突いたのは、泥の匂いではなく、妙に薬品臭い香水の匂い。顔を上げると、そこは見渡す限りの黒いアスファルト。そして目の前には、ガラスと白壁でできた華やかな建造物――『高峰美容整形クリニック』の看板がネオンに照らされていた。
昭和二十年の奉天の黒煙から、令和の東京へ。
銃を抱え、ロバの耳と尻尾を生やした最悪の古参兵・大宮徹三は、こうして現代日本の、欲望まみれの女医のテリトリーへと不時着したのだった。




