四十一の炎
四十一の炎
誰もいない豪華な院長室は広々としていて、部屋の正面には高級な黒革張りの椅子と調和の取れた立派なデスクが置いてあった。
デスクの上にはノートパソコンが置かれていて、パソコンの右側には多くの書類が積まれ、書類の前には座った高さが12、3㌢ほどで両足を前に投げ出し、赤いリボンをつけた小さなテディベアの縫いぐるみが置かれていた。
デスクの前には「院長 浜田義弘」と書かれたクリスタル製のネームプレートが置かれ、プレートの左右には異なった形のガラスの花瓶が並べられ、種類の違った小さな花が活けられていた。
院長室にスッと姿を現した魔餓鬼は、院長の椅子にどっかと腰をかけた。
縫いぐるみを掴み取った魔餓鬼は、訝し気に縫いぐるみを見つめた。
「場違いな縫いぐるみですねぇ?」
「患者か孫にでもプレゼントされたのでしょうか?」
縫いぐるみをパソコン近くに置いた魔餓鬼は、机の右の一番上の引き出しを引いた。引き出しの中には爪切りや乾電池など、雑多用品の他に文房具が所狭しと乱雑に仕
舞い込まれていた。
その中からチューブ入りの接着剤を取り出した魔餓鬼は、まじまじと見つめていた。「……速乾性ですか?」
「強力とも書かれていますねぇ?」
接着剤のキャップを外した魔餓鬼は、パソコンの上に一滴垂らすと、引き出しから真新しい先の尖った一本の鉛筆を取り出し、鉛筆の底をパソコンに落とした接着剤の上に置いた。
魔餓鬼が手を離しても鉛筆は倒れずに立っていた。
魔餓鬼は905号室で、濡れた白衣の上に落ちていたサインペンを手にしたのを思い出して呟いた。
「目には、目を。文房具には、文房具で……」
「……でしょうねぇ?」
魔餓鬼は再び縫いぐるみを持ち上げると、立てていた鉛筆の先に向けて尻から一気にブスリと突き差すと、芯の折れた鉛筆の先は、縫いぐるみの頭部を貫通して、2、3㌢ほどの長さを見せた。
「テスト、オッケーです」
「……思っていた以上に強力でしたねぇ」
とその時、火事を知らせる非常ベルの音が、けたたましく院長室に鳴り響いた。
「……火事ですか?」
「早く来るようにと、ベルが私を急かせているように聞こえます」
「では、お招きに与り、そろそろ出向くと致しましょうか」
魔餓鬼は接着剤をポケットの中に入れると、ゆっくりと院長の椅子から腰を上げた。―――
警備室にいた全員が言葉を失い、凍り付いたようにして目の前に設置されているモニター画面を眺めていた。
病院の外壁の各箇所には監視用のカメラがあり、病院の前で起こった多重追突事故で爆発炎上している車両が鮮明に映し出されていた。
警備員たちは心の中で呟いた。
『マ、マジかよ?』
『大事故になっているじゃないか?』
呆然とモニター画面を見ていた警備員の安東は、我に返って騒然となった。
「た、大変だッ!」
「何台も車が爆発炎上しているぞッ!」
責任者の菊池が安東に聞いた。
「ケガ人は、どうだ?」
「見ての通り、大事故です!」
「きっと重傷者が多数いると思われます。それに、燃えている車の中には、まだ閉じ込められている人がいるかも判りません!」
菊池の表情が曇った。
「おい、おい、おい。冗談はよしてくれ」
「これじゃ患者を救出しても救急車が入れないってことじゃないか?」
安東が別のモニター画面を指差しながら大声で叫んだ。
「うわああ―――ッ!」
「ど、どうした?」
「み、見て下さい!」
「裏門の方も事故です!」
裏門の道路はTの字になっていた。
裏門前に横付けされていた、空車と思われるデイサービス用の大型マイクロバスの前部が、白のライトバンに激突されていて、2台の車両は狭い裏門を栓で蓋をするかのように完全に塞いでいた。
菊池は怒鳴りつけるようにして安東に命令した。
「通報だッ!」
「警察と消防に通報しろッ!」
「は、はいッ!」
非常を知らせるベルの音は警備室でも鳴り響いていた。
非常ベルの音はそれほど大きくはなく、警備員たちが普通に会話ができるほどの音量であった。
モニター画面に見入っていた安東が驚きの声を上げた。
「た、大変だッ!」
安東は振り返って、背後に立って正面のモニター画面全体を見ていた菊池に言った。「大変です!」
「北病棟カンファレンスセンター前の通路に設置されている消火栓ボックスの非常ボタンが押されて作動しています!」
「な、なんだって?」
モニター画面の上部に設置されていた計器盤の小さな赤い警報ランプが一斉に点灯した。
亀井も安東と同様に、青ざめた表情で振り返った。
「大変です!」
「今度はどこだ?」
「南病棟の会議室近くの2ヶ所からも、同時に誰かが消火栓ボックスの非常ボタンを押したようです!」
「ってことは、同じ時刻に3ヶ所でベルが鳴ったってことか?」
菊池は念を押すようにして聞いた。
「誤作動じゃないのか?」
亀井は即座に否定した。
「違います!」
「他の計器類は正常に作動しています!もし電気系統のトラブルでしたら、すべての計器に異常が見られなければおかしいです!」
「悪質なイタズラだ」
「火事騒ぎのどさくさに紛れて、患者が非常ボタンを押したとしか考えられない。監視カメラで確認を取ってくれ。北病棟の廊下の方も頼む!」
亀井は困惑顔で応えた。
「それが……」
「巻き戻しで確認しても、ビデオにはボタンを押した人物が映ってないんです」
「バカな。有り得ない話だ」
「見間違いじゃないのか? キミの……」
亀井は不服そうに、口を尖らせながら答えた。
「ち、違いますよ」
別の警備員の武田が振り返った。
「た、大変です!」
「今度は東病棟か?」
「はい!」
モニター画面の上部に設置されていた計器盤の小さな赤い警報ランプの全てが点灯した。
菊池は青ざめた。
『な、なんてことだ!』
『呪われているのか、今日の病院は?……』
『病院の表と裏門では、同時に多重事故が起こって封鎖されてしまった状態だ。不思議なのはそれだけじゃない。原因も分らずに窓ガラスは吹っ飛んでるし、スプリンクラーは一個だけが作動した。その次は三つの病棟で同時に出火を知らせる非常ベルの音と警報ランプの点灯だ』
『……これは大火事になるかもしれないし、テロの可能性だって残されている』
『大パニックになるその前に、速やかに患者を避難させることが管理者としての責務……』
菊池は自分自身を納得させるために、小さく頷いた。
『よし。備えあれば患い無しだ』
『何事も無ければそれで善し。何かあれば、私が責任を取れば済むことだ』
決断した菊池は大きな声で言った。
「警戒レベルマックス5だッ! 全員を避難させろッ!」
全員が驚きの表情を見せた。
菊池は全員を見渡し、強い口調で言った。
「人命を救出することが一番だ!患者さんたちを無事に避難させることが最優先だ!全責任はこの私が取る!」
「分かったかッ!」
全員が応えた。
「はいッ!」
菊池は大塚に聞いた。
「今日のオペは何件だ?」
手元近くに置いてあったタブレットをサッと手にした大塚は、パネルをタッチしながら報告をした。
「3件です」
「今、2件目の手術中で胃の全摘出です。整形外科の方は珍しく今日のオペはゼロ件になっています。ICUには6名が入っています」
「よし、分かった」
「院長と副院長には私から連絡する」
警備室に設置されている全ての電話機が一斉に鳴り出した。
「問い合わせの電話には応じるな!」
「各重要な部署にはマニュアル通りにこちらから携帯で連絡しろ!」
「道路は表も裏も完全に封鎖されている状態だ! 避難場所は南側の大駐車場だ!」
菊池は亀井に命令した。
「キミは緊急避難命令のアナウンスを流せ!」
「は、はい!」
菊池は怒鳴りつけるようにして、全員を急き立てた。
「急げ!急ぐんだッ!」
菊池の迫力に圧倒され、全員が一斉に大きな声で返事をした。
「はいッ!」
―――
ナースセンターは各科ごとに設けられているのだが、内科のナースセンターの婦長やナースたちは、警戒の非常ベルが鳴り続けているにも関わらず、通路のカウンターに肘を置きながら悠長に構えていた。
若いナースが僅かに心配そうな顔を見せて婦長に聞いた。
「……今度もまた誤作動でしょうか?」
「器具の誤作動だったらいいけど、私たちがミスをすれば直ぐに命取りになってしまいますからね」
「そうですよね」
「そんなに心配は要らないと思うわ。どうせまた、今度も直ぐに取り消しのアナウンスが流れるはずよ」
「なんてったってこの病院のスプリンクラーは、全館に完全に完備されているし、仮に出火だったとしても消防隊員が来て『はい。ボヤでした』で終わりなの」
カウンターから身を離し、婦長は身を正すようにして言った。
「……でもね」
「もし、本当に大きな火事だったら大変だから、いつもの避難訓練通りに行動だけはしっかりとしておきましょうか?」
「そうですね」
廊下を早足で近づいてきた若い男性医師が婦長たちの近くで立ち止まった。
「婦長!大変ですよ!」
「……火事なんでしょ?」
「事故です!」
「えッ?」
「患者さんと一緒に、私も病室から目撃しました!」
「病院の前で何台もの車が追突事故を起こして爆発炎上しています!」
「警備室に問い合わせても全く応答してくれません!爆発炎上した車の火が建物に飛び火したのかもしれません!私が現場に行って調べてきます!」と言い残すと、若い男性医師は直ぐにその場から走り去った。
婦長は血相を変えた。
「た、大変だわ!」
「急いで直ぐに避難しないと!」
とその時、全館に火事を知らせるアナウンスが流れた。
【こちら、警備室です! 火災が発生しました!】
【直ぐに建物から逃げて下さい! エレベーターは使えません! 階段を使って下さい! 危ないです! 急いで逃げて下さい!】
ナースたちはビックリした。。
「ええーッ!」
「そんなに大きな火事なの?」
【こちら、警備室です! 火災が発生しました!患者さんたちは職員の指示に従って行動して下さい!】
【煙を吸わないようにして下さい! 身体を低くして逃げて下さい! ハンカチやタオルがあれば口と鼻に当てて下さい!】
婦長はナース全員を急き立てた。
「は、早く患者さんを避難させなさい!」
「パ、パニクってはダメよ! 落ち着いて急ぐのよ!」
「さあ、早く!」
ナースセンターは騒然となった。
慌てふためいたナースたちは、取る物も取りあえず、各自が担当を受け持っている病室に向かって足早に走り去った。




