四十の炎
四十の炎
東病棟9階の廊下を警備員の高橋と若い佐々木が、905号室に向かって走っていた。
病室近くまで全力で走ってきた2人の態勢がピタリと止まり、マネキン人形のように固まった。
―――
905号の室内に魔餓鬼が立っていた。
激しく降り注いでいたスプリンクラーの水を払い除けて、傘の下のように空間を作り、濡れた白衣の上に立っていた魔餓鬼は、手にしていたサインペンを暫く無言で見つめていた。
『潰れた入り口のドア。天井には焦げ跡が残るスプリンクラー。床には白衣と聴診器とペン。ベッドには人型の黒いシミと、吹っ飛ばされた窓ガラス……』
『残されていた数個のピースだけでジグソーパズルの全体の風景を想像することは出来ませんが、先に何種類かの風景画を想像すれば、残されていたピースは、どの風景画にピタリと当て嵌まるのかが分かってきそうです』
『もし、私の想像した風景画が正しければ……』
魔餓鬼の思案は短く、直ぐにニヤリと不敵な笑いを浮かべた。
『……なるほど』
『そう言うことですか』と納得したように頷いた。
魔餓鬼は短期間ですべてを察したようだった。
―――
時空が止まり、905号室の近くで固まっていた警備員の2人は、再び勢いよく廊下を走りだした。
先を走っていた高橋が室内に入った途端に、足を止めて目を丸めた。
「な、なんじゃ、こりゃあ?」
室内の天井では一個のスプリンクラーだけが作動していて、床に向かって激しく水が降り注ぎ、その向こうには、一片としてガラス片が残っていない窓枠だけが覗き見えた。
「どないなっとんねん? この部屋は……」
続いて入ってきた佐々木が驚きの声を上げた。
「マ、マジかよ?」
佐々木は怪訝な顔で高橋に聞いた。
「カーテンも引き裂かれたように吹っ飛んでいます。まるでテロが起こったようです。どうしたらこうなるのでしょうか?」
高橋は怒ったような顔で若い佐々木に答えた。
「ワシの方が聞きたいわい!」
「そ、そうですよね?」
高橋は制服の襟元に装着していた交信用マイクのスイッチを押し、襟に口を近づけて防犯センターに報告した。
「こちら、高橋」
「現在、905号室に到着。中庭に面した窓ガラスはすべてが吹っ飛び無くなっています。ガスや爆薬などの爆発でないことだけは分かりますが、何が爆発したのかは不明です。スプリンクラーが破損したようで、一個だけが作動していて水を出しています。非常ベルの音は誤作動ではなく、火災報知器が感知したものと思われます。以上」
―――
報告を受けた菊池は、手元近くに置いてあった電話のプッシュボタンを押し、高橋からの連絡を絶った。
菊池はパソコン画面に見入っている6名の警備員たちに大きな声で指示を出した。「警報解除だッ!」
6名が一斉に向きを変え、菊池の方を見た。
「安東さんは営繕課に連絡してくれ。東病棟905号室のスプリンクラーが一個破損してしまっているようだ。スプリンクラー配管の元栓バルブを一時的に閉め、大至急で交換するように伝えてくれ」
「分かりました」
「亀井さんは安全のアナウンスを流してくれ」
「了解しました」
―――
警報を知らせる非常ベルの音が、館内にいつまでも鳴り響いていた。
移動式の点滴セットを持った患者や、手足にギブスをした患者だけでなく、リハビリ中の患者や、比較的症状の軽い患者たちなどが、心配と怒りの表情を浮かべながら外科のナースセンターに押し寄せ、ナースセンターは騒然としていた。
患者たちはナースたちに対し、それぞれの思いを自分勝手に叫んでいた。
「どうなってんだよ!」
「いつまで鳴ってんだ!」
「只今、警備の方に問い合わせ中です」
「直ぐに連絡が入ってくるものと思われます。もう暫くお待ち下さい」
「誤作動じゃないんだろうな?」
「それは何んとも言えません」
「安物のマンションじゃないんだ!こんな大きな病院が誤作動なんか起こしてたら困るんだよ!」
若いナースたちは必死になって患者たちに言い聞かせていた。
「緊急避難命令が出ていません」
「只今、点検中です。もう暫くお待ち下さい」
とその時、けたたましく館内に鳴り響いていた非常ベルの音がピタリと止まり、続いてアナウンスが流れた。
【お知らせします】
騒然としていたナースセンターは、急に物静かになり、全員が次の放送を持っていた。
【火事を知らせるベルが鳴りましたが、現在は消火されています。ご安心下さい。エレベーターも使用することができます。ご心配をおかけしました。ご協力ありがとうございました】
ナースたちはニッコリ笑って患者たちに言った。
「ほら、言ったでしょ。心配ないって……」
「言ったかな?」
「心配ないなんて?……」
「言ったわよ」
「ほら、早く病室に戻って、ほら、早く……」
病室に戻りながら、点滴セットを持っていた老人が振り返ってナースに訊ねた。
「現在は消火されていますと放送されていたけど、ってことはどこかの病室でボヤでもあったのですか?」
「あれは事前に録音されているアナウンスなの。誤作動の時でもボヤの時でも、同じアナウンスが流れるのよ」
不満げな老人はブツクサと呟きながら、病室の方に戻っていった。
「……ホントかよ?」
「大きくて立派な病院なんだから区別してアナウンスしてくれよ。手抜きの放送なんて願い下げだ」
―――
雲一つなく晴れ渡った青空の下を、懸衣翁は北山連峰に向かって飛んでいた。
風を切って飛んでいる懸衣翁の真下は、碁盤目状になった右京区の市街地であった。
遥か前方には壮大に構えている白亜の病院「京都市立六道総合医療センター」の建物が見えてきた。
病院の前の道路は両側2車線になっていて、中央分離帯の代わりに2本の白線が狭い間隔で平行に線引きされていて、左右には幅の広い歩道が設けられていた。
病院から500㍍ほど前方の道路の中央で、一人の男が両手を広げて立ち塞がり、北に向かう車両を止めている姿が見えた。
後部の荷台に建築用の資材を積載し、グリーンのビニールシートで覆った1台のダンプカーが、男の前で急ブレーキをかけた。
運転席から半身を乗り出した運転手は、行く手を塞いだ男を大声で怒鳴りつけた。
「殺されたいのかッ!」
「このボケ―――ッ!」
懸衣翁は男の行動に呆れていた。
『バカか、こいつは?……』
左に向きを変えた懸衣翁は、大きく弧を描くようにして飛び続け、西病棟の正面玄関へと回り込んだ。
病院の上部の白壁には、黒く大きな文字で「京都市立六道総合医療センター」の看板が横に取り付けられていて、その看板近くの屋上から、両足を壁の外に投げ出し正面入り口の前の路上を見下している魔餓鬼の姿があった。
『ま、魔餓鬼だッ!』
驚くと同時に、一抹の不安が懸衣翁の脳裏を過った。
『こんな場所に魔餓鬼がいるってことは、既に終わってしまったのか? 快炎鬼たちとの一戦は……』
魔餓鬼から少し離れた所に飛び降りた懸衣翁は、不安な素振りを少しも見せずに強い口調で聞いた。
「おい! 魔餓鬼!」
「何やってンだ? こんなところで……」
魔餓鬼は懸衣翁を見ることもなく、眼下の道路を見ながら静かに言った。
「知りたければそこにいなさい。直ぐに結果が出ますから……」
「て、テメーッ!」
「何を企んでいやがるんだッ!」
病院前の道路を見下しながら、魔餓鬼は不敵な笑いを浮かべながら答えた。
「……見てのお楽しみです」
―――
30代のダンディな男が、最新モデルの白い高級セダンで南に向かって運転していると、前方の反対車線で停車しているダンプカーと、その前で立ちはだかっている一人の男の後ろ姿が見えた。
ダンプから若い運転手が激怒しながら降りてきて、謝りもせず立ち退こうともしない男を怒鳴りつけていると、男は無言で運転手の顔面に強烈な右のフックを見舞った。
醜く顔面を歪めながら運転手が横に数歩ふらつくと、男は間髪入れずに運転手のテンプルに横蹴りを入れた。
大きく吹っ飛ばされた運転手は、スピードを落としながらゆっくりと間近に迫っていた高級セダンに激突し、ボンネットをへこませると、フロントガラスには蜘蛛の巣状の模様のヒビが入り、もんどり打ったように一回転すると、ルーフの上で俯せになり身動き一つしなくなった。
目の前で起きた事件に慌てて車の外に飛び出したオーナーは、セダンの現状を知ると狂ったように絶叫した。
「うあああ―――ッ!」
「ギャアアア―――ッ!」
「中古じゃねーッ!」
「新車なんだッ! これは―――ッ!」
喚き散らしているセダンのオーナーを無視して、男はその場から離れ、運転席のドアを開けると素早くダンプに乗り込んだ。
運転席の男の正体は、六道珍皇寺で魔餓鬼に拉致されて行方不明となり、女装した魔火丸とともに京都タワーに随行していた殺人犯の矢沢であった。
運転席の矢沢は、全くの無表情で能面のような顔つきであった。
暫くダンプをその場に停車させていたために、前方を走行している車両は一台も無く、北向きの道路は遠くまで見えるガラ空き状態になっていた。
矢沢はギアを入れて、アクセルを踏み込んだ。
急発進したダンプは、加速しながら走行していると「京都市立六道総合医療センター」の白亜の病院が右前方に見えてきた。
反対車線では市バスが南に向かって走行して来るのが見えた。
ダンプは猛スピードで病院に接近して行った。
矢沢は病院前の横断歩道を通過すると、急にハンドルを右に切った。
ダンプはドリフト走行のように激しく急ブレーキの音を立てながら、方向を正門に向けた。
車体は遠心力によって右側の前後の両タイヤが浮き上がって大きく左に傾き、後部荷台を覆っていたグリーンシートは炸裂して、積載してあった建築資材のバラス(砕石)が路上に勢いよく叩きつけられながら放射線状にバラ撒かれ、車体は大きな音とともに横転した。
横転したダンプは荷台の方を正門に向け、横滑りしながら突進していった。
正門の前は少し入り組んだ広場になっていて、駐車場から出てくる左の正門にダンプの運転席が激突すると、後部も正門の中央に設置されている駐車料金精算機に激突して、横滑りしていたダンプはやっと停止した。
ダンプが停止するまでにバラ撒かれ続けていたバラスは、激突した衝撃によって、荷台に積み残されていた全てのバラスが、左の正門側にもドサッと大量にバラ撒かれ、左右の正門は完全に塞がれ封鎖されてしまった。
ダンプの暴走によって、南向き車線を走行していた市バスが事故の巻き添えを食った。
路面に激しく叩きつけられ大きくバウンドしたバラスは、大粒の雹のようになってバスに向かって襲いかかり、バスのフロントガラスは一瞬にして網目模様のヒビが入っただけでなく、バスの前面はデコボコになってしまった。
市バスの運転手が慌てて急ブレーキを掛けると、後続車の乗用車だけでなく、ワンボックスカーも次々と前の車に激突して多重追突事故が起きた。
最後尾のタクシーが軽自動車に追突すると、追突された軽自動車からガソリンが路上に流れ出た。
軽自動車の男が車内で小首を傾げた。
「……何か、臭いな?」
「ガ、ガソリンの臭いだ!」
慌てて車外に飛び出た運転手は、大声でタクシーなど周囲の人間に向かって叫んだ。「ガソリンが漏れた―ッ!」
「逃げてくれッ!」
「は、早く逃げろ―ッ!」
ガソリン漏れした乗用車は、大きな爆発音とともに、真っ赤な炎が一気に巻き上がった。
爆発した軽自動車の前後の車両は、類焼を免れることができずに次々と爆発と炎上を起こし、大きな炎とともに黒煙が巻き上がった。
北向き車線でダンプの後ろを走っていた生コンのミキサー車は、路上にバラ撒かれた多量のバラスが原因でスリップしてハンドルを取られると、左側の街路樹に激突して街路樹をヘシ折った、
ミキサー車の後ろを走っていた後続の家庭ゴミ回収車も、生コンのミキサーの後部に追突して多重事故となった。
病院前の上下線の道路は、多重衝突事故によって、まるでバリケードのように完全に遮断されたしまった。
―――
眼下の多重衝突事故を見下しながら、魔餓鬼は言った。
「不満は有りますが、まあ、それでいいでしょう」
「その要領で裏門の方もやっておきなさい」
懸衣翁は怪訝そうな顔で魔餓鬼に聞いた。
「……誰に命令してんだ?」
眼下の事故現場を見下しながら、魔餓鬼は懸衣翁に言った。
「いい質問をしましたね」
懸衣翁は身を前に乗り出すようにして尋ねた。
「教えてくれるのか?」
魔餓鬼は初めて懸衣翁の方を見て言った。
「自分で調べなさい」
そう言い終わると魔餓鬼は、スッとその場から姿を消した。
「聞いた俺がバカだった」
「だが、調べるまでもねぇ。どこのクソ野郎だか知らねーが、事故を起したのは魔餓鬼にマインドコントロールされた男だってことだ」
「おっと、こうしちゃいられねぇ。早くこの事を快炎鬼たちに知らせてやらないと」
屋上から急降下した懸衣翁は、その場から飛び去った。




