三十七の炎
三十七の炎
明治の初期に廃寺となった「生の六道」の福正寺の跡地近くで、近代的な医療施設を完備した病院として建築された「京都市立六道医療総合センター」のセンター室では、数名のナースたちがいつもと変わらぬ様子で、それぞれの持ち場で職務に就いていた。
インテリっぽいメガネを着用した私服の中年女性が、センター室に不満顔で入ってくると、甲高い声でナースたちに言った。
「ちょっと!」
「あんたたち、私の白衣、知らない?」
年長のチーフらしきナースが、中年女性に怪訝顔で問い返した。
「白衣がどうかしたのですか? 川口先生……」
「私の部屋の壁のフックに掛けてあった白衣と聴診器が一緒に無くなっているのよ。おトイレから戻ってくると……」
「清掃の人が間違っクリーニングに出してしまったんじゃないですか?」
「そんなこと、今までに一度も無かったわ。それに、聴診器の方はどう説明するのよ?」
「私、清掃の担当者に連絡して確認してみます」
「お願いするわ。こんな恰好じゃ仕事にならないですからね」
と、その時、若いナースが血相を変えてセンター室に飛び込んできた。
「た、大変ですッ!」
チーフは落ち着いた態度で若いナースに聞いた。
「どうしたのよ? そんなに慌ててノックもせずに……」
「502号室の諸岡さんに点滴するために注射針を腕に近づけたら、パッと一瞬に点滴のスタンドとチューブと針がマジックのように消えたんです!」
同僚のナースが少し怒ったような顔で言った。
「何言ってんのよ」
「そんなこと、あるワケないじゃないの」
追い打ちをかけるようにして、同僚の若いナースが言った。
「あんた、夜勤明けで疲れてんじゃないの?」
若いナースはムッとした表情で答えた。
「疲れてなんかないです!」
「同室の患者さんの後藤さんも鎌倉さんも、そして幸本さんもビックリしていました。不思議なことが起こるものだと……」
「ホントなンです」
「信じて下さい!」
女医の川口は、若いナースの言葉を否定しなかった。
「どうなってんの? 今日の病院は……」
「白衣と聴診器は煙のように消えているし、点滴セットだってマジックのように消えたと言っているじゃないの」
女医の川口は命令口調で、チーフに依頼した。
「気味が悪いですからね!病院内で変な噂が立たないように徹底的に原因を究明して下さい! 大大至急でお願いしますよ!」
「わ、分かりました。直ぐに調べます」
―――
秋麗の穏やかな日差しが、カーテン越しに院内の個室に差し込んでいた。
掛け布団の無い白いシーツが敷かれたままのベッドの上で、気絶したアララが仰向けになって寝かされていた。
気を取り戻したアララは、薄目を開けたが意識はまだ朦朧としていて、自分が今どのような状況下に置かれているかを直ぐに把握できなかった。
アララは左手に違和感を感じた。
焦点の定まらぬ半開きのトロンとした目でゆっくりと左手を見ると、左手首の上部に静脈注射の留置針が挿されていて、半透明のテーブで針が固定されていた。
針の先は2本のチューブに接続されていて、薬液が充填された二つの点滴パックがチューブに繋がれていた。
白衣姿の女の姿がぼんやりとして見えた。
首に聴診器を引っ掛けた白衣姿の女は、独り言を言いながら、点滴装置のチャンバー(点滴の途中で太くなっている箇所)のローラークレンメで注入の速度を微調整しているところだった。
「片付けるだけだったら、簡単なんだけどねぇ」
「こんなものでいいのかしら? 弄びながら始末する時は……」
トロンとした目で天井を見ながら、アララは呟くようにして言った。
「……ここは、どこなの?」
ローラークレンメを調整中の手を止め、ベリーが応えた。
「ここは『京都市立六道総合医療センター』の個室ですよ」
「……いつの間に、私は病院へ?」
「気絶している間でしょうね」
点滴セットを押し退けたベリーはアララの枕元に近づき、笑顔で見下しながら言った。
「ついでに教えてあげるわね」
「私、女医じゃないの」
「えッ?」
ゆっくりと顔を動かし、朧気ながらアララが見上げた女医の胸のポケットには、多くの種類のペンが入っていた。
ポケットの下には、透明のプラスチックのネームプレートが安全ピンで装着されていて、ネームプレートには「川口」と名前が書かれてあった。
ベリーは楽し気に歌うように、クルリとその場で一回転しながらアララに言った。
「私はドクトルZ。『私、失敗しますので』……なンちゃって」
「一度、やってみたかったのよね。こんなコスプレを……」
浮かれているベリーを見て、アララの顔色がサッと変わった。
「あッ!」
女の顔を思い出したのだ。
「お、お前は、あの時の?……」
ベリーは険しい顔で、アララを見下して言った。
「お前じゃないの。お姉さんとお呼び」
「ふざけんな!」
「よ、よくも、私を……」
怒りが燃えたぎったアララは半身を起こして殴りかかろうしたのだが、すでに起き上がる力は失せていてバタンと元の仰向けの姿に戻った。
「か、身体の力が……」
ベリーは笑みを浮かべながら言った。
「よかったわ。口だけはまだ達者なようで……」
「でも、今の内だけなのよ。そうやって元気に喋っていられるのも……」
「直ぐに話せなくなってくるわ。なぜなら、お前にとって毒は生きる糧だけど、点滴は死を招く薬だから……」
「ど、どうして、そのことを?……」
僅かに苛立ちを覚えたベリーは不満気な顔でぶっきらぼうに言った。
「これだけ言われればいい加減に気付きなさいよ! 私の正体を……」
アララは天井を見ながら言った。
「分らない」
「何者なの? お前は……」
「以前は『神犬サラマ―』って呼ばれていたこともあるわ」
「ま、まさか?……」
「そうよ。そのまさかという名の坂なの」
「気をつけなさいよ。魔坂って坂はね。どこにでもあるコワ~い坂なんだから……」
「い、犬だった魔火丸が、どうして女の姿に?……」
「うるさいわね!」
「いつまで元気に喋っているのよ!とっととクタバっていく姿を見せなさいよ!」 ベリーは点滴用のスタンドをグイと手元に引き寄せた。
チューブを圧迫して点滴の落下速度を調整出来るチャンバーのローラークレンメを一気に全開にすると、点滴液は急激な速度でアララの体内に投与されていった。
僅かに動かせていた手足の動きが鈍くなり、それに反比例するかのように息遣いだけが荒々しくなってきて、アララは額には脂汗を滲ませるほどの極限状態にまで陥ってしまった。
瀕死寸前のアララを、ベリーは冷めた表情で見下していた。
「……あんた。演技してんじゃないの?」
「この点滴が何の病気の薬なのか知んないけど、たかが点滴じゃないの。そんな急激に悪化する?」
毒娘のアララにとって、たかが点滴、、されど点滴であった。
アララは息も絶え絶えになりながら、か細い声で哀願した。
「お、おねがい……」
「何よ?」
「ペ、ペンと紙を貸して……」
「どうすんのよ?」
「だ、奪衣婆に……。さ、最後の言葉を……」
「断るわ」
「言いたいことがあったら口で話しなさいよ。伝えておいてあげるから……」
ベリーの顔を見る力も気力も失せてしまったアララは苦悶に満ちた表情だけを浮かべながら、熱に魘されるようにして依頼した。
「て、手のヒラに……」
「さよならと、ごめんなさいだけを……書くわ」
「さ、サインペンを貸して……」
「面倒臭い女だわね」
「でも、それくらいだったらいいでしょう。後で手首を切り落として奪衣婆に戦利品として見せることができるから……」
ベリーは渋々ながら承諾した。
ベリーの胸のポケットには、赤ペンやボールペンなど数種のペンが差し込まれていて、全てのペンを取り出したベリーは、その中からサインペンを選び出そうとしてアララから目を離した。
「……どれがサインペンなのよ?」
「どれもこれも、同じように見えるじゃないの?」
目を閉じたままアララは、左右の手をそっとクロスさせると、左手首に装着されていた針を取り外した。
ペンを手渡そうとして手を差し伸べてきたベリーの右の手首を、左手でガシッと掴んだアララはガバッと半身を起こすと、ベリーの左の手から零れ落ちた数本のペンの中から一本を右手で素早く拾い上げると、乱れているベリーの長髪から僅かに見えている左耳の中心を狙ってブスリと差し込んだ。
ベリーの身体は一瞬にして硬直し、無言のままでクワッと目を大きく見開き、物凄い形相でアララを睨みつけた。
ベリーの耳から数㌢ほど外に出ていた残りのペンを、アララは右手のヒラでバンと奥深くまで打ち込むようにして叩き込んだ。
残されていたすべての体力を出し切ったアララは、仰向けになってドッとベッドに倒れ込み、大の字になって寝た。
アララの涙は透明では無かった。漆黒の悔し涙が糸を引くようにして、閉じられていたアララの目尻からゆっくりと零れ落ちていった。
魔火丸に一矢報いはしたが、この世に出てきて魔餓鬼の顔を見ることも無く、一度として一戦を交えることが叶わなかった。
思い返せば場所が場所であっただけに、魔火丸に襲われたことは迂闊と言えば迂闊であった。近づいてくる女に対して油断せず、魔餓鬼にマインドコントロールされたかを警戒していれば、少なくとも女装していた魔火丸の一撃は防御することができていたはずだ。
「ごめんね。快炎鬼……」
「何の役にも立てなくて……」
意識は薄れて遠のき、荒々しかった呼吸もそれに伴って次第に収まり、静かに眠るような寝息となったアララはカクッとコト切れて死んだ。
アララがベリーの耳に突き差したペン先は、視床下部と海馬を壊滅させただけでなく脳幹をも突き破って、脳内に大出血を起こさせていた。
思考回路を切断されたベリーは、即死に近い状態で暫くは声も出せずに項垂れたままで身体を硬直させていたが、脳内出血は長期の記憶保持と潜在意識を司どるなど幾つもの機能を持った前頭葉までには達しておらず、ベリーは歌舞伎の連獅子のように頭髪を勢いよく後ろに振り上げ、顔を持ち上げることができた。
ムンクの「叫び」のように、両手で耳を塞いだベリーは、平衡感覚を失って僅かによろめき、アララから窓側に向きを変えて、物凄い形相となって断末魔の悲鳴を爆発させた。
犬笛のように人間の可聴音よりも高い周波数で発せられたベリーの絶叫は凄まじく、その衝撃波は驚愕すべき破壊力を持っていた。
巨大な空気の弾丸を撃ち抜かれたように、大きな窓ガラスは一瞬にして全面が割られ、ズタズタに引き裂かれたカーテンとともに中庭に向かって吹っ飛んでいった。
中庭の幅広い通路には一人で散歩中の患者だけでなく、リハビリに励む者や患者を 車イスに乗せて移動中のナースたちなど、多数の人間が中庭に居合わせていた。
年老いた男性患者を車イスに乗せ、中庭を散歩中の若いナースの側頭部に向かって凶器と化したガラス片が鋭く空気中を飛んで来た。
病室が爆発したような音に驚いたナースは、立ち止まって上空を見上げた。
すでに野球のホームベースほどの大きさのガラス片がナースに迫っていた。
ナース帽を掠めたガラス片は、路面に激しく叩きつけられると、木っ端微塵となって砕け散り、芝生と垣根作りになっている木々の葉の中に消えていった。
間一髪で難を逃れたナースが周囲を見渡すと、大きなガラス片は一片だけで、他は粉々になって噴水の水面だけでなく多くの樹々を襲ったが、患者や職員たちは樹々の枝葉に助けられ、幸いにも直撃されて大怪我を負った者は誰一人としていなかった。
上を向いて爆発音がした病室を捜していたナースが「あッ!」と声を出して驚いた。病棟の最上部の9階の窓は、まるでガスが大爆発を起こしたようにすべてのガラス
が吹っ飛ばされて無くなり、千切れ残ったカーテンの切れ端だけが歪んだカーテンレールに取り残されて、風に吹かれて壁の外側でゆらゆらとそよいでいた。
ナースは常に冷静でいなければならないのだが、この時だけはすっかり冷静さを無くしていた。
すべては携帯で警備室やナースセンターに報告すれば済むことであったが、室内にいたと思われる患者の安否を心配したナースは、大慌てで車イスを押して走り出した。
車イスに乗っていた老人は、急に走り出したその速さに驚き、大声と悲鳴を上げ、諸手を上げて他の患者や職員たちに助けを求めたが、病室の大爆発を目撃し、ホームベースほどのガラス片に直撃されそうになってパニクったナースの行動は怖い。
気が動転して、車イスに患者が乗っていることさえも忘れてしまったナースは、病棟の開閉ドアに向かって広い通路を突っ走って行った。




