三十六の炎
三十六の炎
京都を代表する名称と言えば何ですかと尋ねられれば、数が余りにも多過ぎて困る時がある。だがその時は五花街の「舞妓さん」が十指に入ると断言しても過言ではない。京都において「舞妓さん」とはそれほどまでに存在価値の高い位置にいるからである。
因みに五花街とは祇園甲部、先斗町、上七軒、宮川町、祇園東の花街を称して「五花街」と呼ばれているが、今日、京都には上七軒、祇園甲部、先斗町、祇園東、嶋原、宮川町の6つの花街があり、これらを総称して京都の「六花街」と呼ぶことがある。
その花街の芸舞妓さんたちは、春には「都をどり」を、そして秋には「温習会」など井上流家元の井上八千代指導による艶やかな京舞を披露するだけでなく、練習場として存在しているのが、八坂神社近くの花見小路沿いの祇園甲部歌舞練場で、歌舞練場の建物は京都市の「有形文化財」の登録を受け、今もなお、京都の歴史と伝統に培われた技芸を守り伝えながら振興に努めていて、芸能文化の殿堂にふさわしい建物である。
臈長けた美貌を誇るベリーは女性用のバッグも持たずに手ぶらで、花見小路の人混みの中をゆっくりと物見遊山的に周囲の風情を楽しみながら、ぶらついていた。
花見小路の左右には、軒の低い二階建てで格子戸や犬矢来があり、窓にはよしずの立て簾が掛かったお茶屋などが並び、通りには石畳が敷かれていて京都らしい風情を醸し出していて、花見小路は四六時中人通りが絶えることが無いほどに賑わっている。
華やかな花見小路に沿って通りをベリーが歩いていると、花見小路の通りの奥に東山区の祇園を代表する格調高き祇園甲部歌舞練場の建物が見えてきた。
本館の「弥栄会館」の正面玄関の屋根は母屋作りで、重厚な趣の千鳥破風になっていて、歌舞練場に通じる幅広い通路は花見小路と同様に石畳が歌舞練場まで続き、通路の両サイドに設置された長方形の大きな花壇には低木とともに色鮮やかな朱色に塗り込まれた高さ4尺(120㌢)の木製の『ぼんぼり』がずらりと4本ずつ並んで植え込まれており、この通路だけでも祇園の豪華さと華やかさを感じ取ることが出来る。
歌舞練場に向かって左側の奥の花壇の石の上で、一匹の茶トラ猫が陽の光を浴びながら気持ちよさそうに眠っていた。
花見小路と違い歌舞練場に通じる広い石畳の通路は人通りも少なく、ベリーは軽くステップを踏みながら奥の建物に向かった。
―――
眠っている猫の前でしゃがみ込み、ベリーは猫と同じ目の高さで人間に話しかけるようにして呼びかけた。
「おはようさん」
「よかったわ。今日はここにいてくれて……」
猫は目を開けず、そのままの状態で応えた。
【おはようじゃねーよ】
【お天道さまは西の空に傾いてるぜ】
ベリーは花見小路の方の空を見て、苦笑しながら言った。
「そうだったわね。茶トラちゃん」
【勝手に名前を付けるな】
「じゃあ、どう呼べばいいのかしら?」
【俺の名前は『ギドン』だ】
「……ギドン?」
「まるで怪獣のような名前ね?」
ギドンは初めて目を開けた。
【どこのクソ猫どもが言い始めたのかしらないが、俺は祇園街で巣くっているドン的存在の妖怪だから、祇園界隈のドンで『ギドン』と呼ばれるようになった】
ベリーは媚びるようにして言った。
「いい呼び名じゃないの。素敵だわ」
【お世辞はいい】
ギドンはゆっくりと身を起こし、ベリーを見下すようにして言った。
【言っておくが、ここはお前のような胡散臭い野郎が気安くやって来る場所じゃない】
【ここは綺麗なお姐さん方と可愛い舞妓さんたちが『都をどり』を習得に来るだけでなく、馴染みのお客さんたちに、その習得成果を観て頂く大事な場所だ】
「何言ってんのよ。胡散臭いのだったらお互い様じゃないの。そう言うあなただって、超の付いた物の怪のくせに……」
【口の減らない野郎だ】
【お前さんが魔餓鬼の腰巾着だと事前に知ってなければ、徹底的に無視しているところだ】
ベリーは苦笑しながら言った。
「私もあんたが祇園界隈を一手に束ねている『ドン猫』でなかったら、わざわざここまで足を運んで来ないわよ」
【……で、何の用で俺に会いにきた?】
「奪衣婆たちを捜してるの。知ってたら教えてくれないかしら?」
【俺の居場所を教えて貰ったように、アララの居場所も『又聞鬼』兄弟に聞け。その方が手っ取り早い】
「それもいいけどさあ。魑魅魍魎たちを裏で支配しているボス的存在のギドンさまに訊ねた方が、より正確だと思ったから訪ねてきたの」
ベリーは両手を擦り合わせて哀願した。
「ねぇ。教えて下さいよ。ギドンさま……」
【そう下手に出られたら、教えないワケにもいかないな】
【奪衣婆のことは知らないが、天邪鬼の娘のアララの噂だったら少しは知っている】
―――
彩も艶やかな簪を「割れしのぶ」の髪型に差し、振り袖姿にだらりの帯で、風呂敷包みを左の小脇に大事そうに持ち、厚底の「おこぼ」を履いた三名の舞妓さんたちが、石畳の広い通りの中央を通って歌舞練場へと向かっていた。
舞妓の一人が、奥の花壇にいる猫のギドンとベリーに気付き、二人に話しかけた。
「あら? あんなところに猫ちゃんが……」
「……飼い猫と違いますやろか?」
「ミャーミャーとないて、まるであのお姉はんとお話でもしてはるみたいに楽しそうどすねぇ。ホンマに人懐っこい猫ちゃんやわぁ」
三名の舞妓たちは、微笑まし気にベリーとギドンを見ながら、奥の歌舞練場へと向かった。
―――
ギドンから色々と話を聞かされたベリーは驚きを隠せなかった。
「な、何だって?」
「妖怪の『足取り』ってのが、アララ如きに始末されただって?」
ベリーは小首を傾げながら聞いた。
「聞いたこともない名前だわ。『妖怪・足取り』なんて?……」
【お前さんにはそうかも知れないが、この世を跋扈している妖怪には『手取り』『足取り』『揚げ足取り』『借金取り』など、その手の類の妖怪どもは呼び名こそ違っているが、星の数ほどどこにでもウジャウジャといるってことだ】
【物に躓いた記憶もないのに、突然、前にバタリと倒れた経験がある人間は、イタズラ好きの『妖怪・足取り』に足首を掴まれたってことの証拠だ】
「早く知りたくなってきたわね。アララの居場所が……」
【どうする気だ? アララを……】
【魔餓鬼さまのために動いてくれた『妖怪・足取り』がアララに消されたと知ったら、黙ってこのまま見捨てておくワケにはいかないじゃないの】
【始末する気かい?】
「当然じゃない。奪衣婆たちを相手にするなと言われたけど『お前が始末しろ』と私にはそう聞こえたわ。たとえ真意が言葉通りだったとしても、このまま看過しておくことなんて私には絶対にできない。何が何でもアララを始末してやる」
【それほどまでに言うのなら、アララの行動を教えてやってもいいが……】
ギドンは疑り深い目でベリーを見ながら聞いた。
【……見返りは何だ?】
「この祇園界隈だけでなく、京都市内の全妖怪たちを支配できるように魔餓鬼さまに頼んであげるわよ。絶対に支配できると言う約束はできないけど……」
【―――! 逆に気に入ったぜ。約束はできないと言った、その言葉が……】
にこやかな表情になったギドンは花壇から飛び降りた。
【頼み事なら『絶対に約束する』と嘘の涙まで流して誓うのが世の常だ】
ギドンは花見小路に向かってゆっくりと歩き出した。
【ついて来い】
―――
禿げ頭の老人が公園の樹の下のベンチに一人で座り、目の前に立っているアララを見上げながら言った。
「知らないねぇ」
「……奈良県の間違いじゃないのか?」
「いいえ。間違いなくこの京都にもあるのです」
老人は戸惑いの表情を見せ、困惑顔で応えた。
「京都はお寺さんが多いからねぇ。寺の名前だけを言われても……」
「だったら『生の六道』と呼ばれる寺はどうでしょうか?」
老人は笑顔で答えた。
「それなら知ってるよ。清涼寺・嵯峨釈迦堂の広い境内の奥に在る小さな寺の名前が、嵯峨薬師寺だ」
「薬師寺は観光寺ではないから普段は非公開になっていてね。毎年8月の24日には地蔵盆が行われ、この日に限って弘法大師が彫った御本尊の薬師如来像が一般公開されてご開帳になり、境内では盛大に送り火が焚かれるのですが……」
老人は照れ隠しのように笑いながら言った。
「ハハハ・・・」
「私も年ですねぇ。ついにボケが入ってしまったようです。大切な地元のお寺さんの名前をすっかり忘れてしまうのですから……」
「よかったわ。思い出してくれて……」
老人は立ち上がってアララに聞いた。
「案内しましょうか?」
「いいえ。結構です。清凉寺へ行く道順さえ教えて頂ければ……」
「そこの道を真っ直ぐに進むと広い通りに出る。その広い道路を北に向かって進めば、そこが清凉寺です。感心だねぇ。若いのにお寺参りとは……」
「お寺参りじゃないの。ホントのこと言っちゃうと、これから鬼を退治するの」
「えッ?」
驚いた老人は念を押すようにして聞いた。
「薬師寺で鬼退治をするのですか。桃太郎のように?……」
「はい。鬼退治で~す」と、アララは笑顔で元気よく答えた。
唖然とした老人は、アララにそれ以上、何も言おうとはしなかった。
公園を立ち去っていくアララの後姿を、老人は哀れみの目で見送った。
「ワシをからかっているようには見えん」
「かわいそうに。勿体ないねぇ。若くて可愛い娘さんだったのに……」
「ネジが一本足りないというか、頭の中の線が一本切れてしまっているようだ」
―――
清涼寺・嵯峨釈迦堂の本殿前に、広大に敷き詰められている砂利の境内を横切ったギドンとベリーは、境内の奥の嵯峨薬師寺の本堂の前までやって来た。
嵯峨薬師寺の本堂は、石の階段を数段上がった土台の上に建立されていて、本堂に向かって左側の端に高さが1㍍ほどの石碑が立っていた。
頭部が三角に尖った石碑には『生の六道』と大きな文字が刻み込まれていて、その下に小さく二列で「小野篁公 遺跡」と刻まれていた。
【見ての通り、小野篁と刻み込まれているが、正確に言えばこの薬師寺は真の『生の六道』ではない】
ベリーは怪訝な顔で、横にいるギドンを見下した。
「……どう言う意味よ?」
ギドンはパッと土台に飛び上がり、ベリーに向かって言った。
【ここから東北東に向かって約300㍍離れた場所に『生の六道』の福正寺が在った。だが、明治の初期に宅地開発が進んで、その寺は廃寺になった。今は『一休』という名のお食事処の駐車場が福正寺の跡地なのだが、廃寺の跡地近くには近代的な大きな病院が建った】
【真の「生の六道」とは廃寺になった福正寺のことだ】
【その廃寺、嵯峨六道町から清凉寺の境内の薬師寺に、小野篁像と『生の六道』と刻み込まれた石碑が移転され、小野篁を祀っているところから、今ではこの薬師寺が『生の六道』と呼ばれている。だから薬師寺は『生の六道』でありながら『生の六道』ではないのだ】
「それがホントだったら、快炎鬼は魔餓鬼さまに対し、この薬師寺じゃなくて福正寺の跡地の病院に来いと言っているのかしら?」
【さあ。それは何とも言えない】
「どうしてよ?」
【俺が言えるのは、病院も化野の入り口に当たる場所だ】
【快炎鬼が病院なのか薬師寺なのかどっちで待っているのか知らないが、魔餓鬼と出くわした場所が『生の六道』だ】
「ってことは、アララは病院に行く可能性があるってことよね?」
【それは無い】
【アララは奪衣婆と違って京都の地理には疎いはずだ。アララの姿が見えないってことは、アララはまだここに来てないか、それともすでに立ち去ったってことだ】【いつまでもお前さんと付き合っているヒマはない】
【俺はこれで引き返すが、暫くここで様子を見たらどうだ?】
【次なるアララの仲間が現われるかもしれんだろう】
ベリーは軽く飛び上がって土台の上にポンと乗ると、ギドンと共に石碑を挟んで腰を下ろし、石段から両足を伸ばして境内を眺めた。
「私、待つわ」
「アララはまだここには来ていないような気がするから……」
【俺もそう感じる。そうするがいい】
ギドンはベリーと入れ替わるようにして地に降りた。
【俺の役目はここまでだ】
ベリーをその場に残したギドンは振り返ることも無く、嵯峨清凉寺の境内とは反対側の西門に向かって歩き出した。
【健闘を祈ってるぜ。じゃあ、な】
―――
藥師寺の本堂を正面に見て左手の淡い黄土色の土塀に沿ってギドンが進むと、右側に華やかさも無く、侘びと寂に満ち溢れて心惹かれる小さな日明門がそこに在った。
日明門は薬師寺の奥庫裏に通じている門で、門前の右側には高さが1㍍ほどの石碑が立っていた。
石碑には「三地蔵」と大きく刻み込まれ、その下に縦三列で「三地蔵」の名前が小さく刻み込まれ、門前の右側の柱には太くて大きな文字で「龍蟠山 薬師寺」と書かれた山号の寺札が掛けられていた。
因みに石碑に刻み込まれていた「三地蔵」とは、六道地蔵尊、瑠璃光地蔵尊、夕霧地蔵尊のことである。
日明門の前を通りがかったギドンが庫裏を見ると、奥庫裏から石畳の参道を通って日明門に向かってくるアララの姿が見えた。
【……いい光景だ】
アララを知らないギドンは独り言を言いながら西門に向かった。
【京都が断トツだろうな】
【女の一人旅が似合っている場所は……】
―――
「生の六道 小野篁公遺跡」と刻み込まれている石碑の横の石造りの土台に腰掛けていたベリーは、地面から僅かに浮かび上がらせていた両足を退屈そうに前後に交互にゆっくりと動かしていた。
ベリーは呟いた。
「……ギドンが言ってたわね?」
「ここは『生の六道』であって『生の六道』に非ず。そして、福正寺の跡地近くの病院も、化野の入り口に当たる場所なのだ……と」
ベリーは、境内の玉砂利にポンと降り立った。
「……一度、行ってみようかしら?」
「その病院とやらに……」
―――
石畳の参道を通って、奥の庫裏から日明門に向かうアララの右側では、首に赤い涎掛けをした「三地蔵」の石仏が、日明門に向かうようにして一段高い石台の上で横並びで祀られていた。
アララは呟きながら、「三地蔵」の横の参道を通って日明門に向かった。
「一応、薬師寺の下見はしておいたけど……」
「魔餓鬼は乗ってくるかな? 私たちの誘いに……」
小さな日明門を潜り抜け、アララは表の境内に出た。
「来るか来ないか、今になって心配しても仕方がないよね。残された時間から逆算して、ネットを利用して魔餓鬼を誘い出すしか方法は無かったんだから……」
アララは薬師寺の本堂の方を見た。
「後は祈るだけ」
「魔餓鬼がここに来ることを……」
アララは立ち止まって右の西門と左の清凉寺の境内を見た。
左の薬師寺の本堂の方から、若い女性が一人で日明門に向かってくる姿が見えた。
アララはこの時、魔餓鬼と行動をともにした魔犬の魔火丸が、美女に変身していることなど、推して知るべしもなかった。
アララは目撃した女性に対して何の不審感も持たずに境内の方に向かったが、一方、ベリーの方は近づいてくる女性がアララだと一瞬にして気付いた。
「あらま?」
「……アララじゃないの?」
ベリーはニンマリとほくそ笑んだ。
「運の無い女だねぇ」
「私と出会いさえしなけりゃ、助かっていたかもしれないのにねぇ」
一人旅の女性が周辺をのんびりと探訪しているような素振りを見せながら、ベリーは素知らぬ顔でアララとの間隔を詰めていった。
静寂の中、砂利を踏む二人の足音だけが境内で聞こえた。
アララの前で立ち止まり、ベリーが優し気に声をかけた。
「気をつけて下さいネ」
アララは怪訝な顔で問い返した。
「何に気をつけるのですか?」
「私に……ですよ」
不意を突いたベリーの裸拳が、アララのボディに突き刺さった。
両手で腹を抱き抱え、小さな呻き声を上げながらアララは下を向いた。下からカチ上げるようにして放ったベリーの強烈な膝蹴りが、アララの顔面に入った。
大きく仰向けになって後ろにスローで倒れていくアララを、ベリーはお姫様抱っこで抱き抱えた。
「……だから言ったでしょ」
「私に気をつけるように……って」
アララを抱き抱えたまま、ベリーはその場からスッと消えた。




