三十五の炎
三十五の炎
エバと快炎鬼の二人は「京都市立六道総合医療センター」の門の近くで立ち止まり、晴天の空の下で壮大に構えている病院を見上げていた。
「京都市立六道総合医療センター」は9階建ての大病院で、外観は白亜に塗装され、斬新で最高に洗練されたデザインの瀟洒な設計の病院になっていた。
正面玄関前に植えられている低木常緑樹の中に、大きな置き石が横たわるようにして置かれていて、「京都市立六道総合医療センター」の文字が深く刻み込まれていた。
「……ここが『生の六道』の跡地だったのか?」
「恥ずかしいが、京都で暮らしていながら、何も知らなかったぜ」
「知らなくて当然よ。福正寺が廃寺になってしまったのは明治の頃だし、それから幾つもの時代も地主も変わって、土地開発などがあったからこそ、こんな大きな病院を建てることができたのだと思うわ」
「何はともあれ、置き石と建物の外壁に『京都市立六道総合医療センター』の提示が無かったら、高級ホテルか高級リゾートマンションに間違われそうな大病院だ。覆面パトでの巡回中は、病院の外観すら気にせずに前を通過していたが、今日は改めてその広さを知ることになった。随分と大きな敷地を持った病院だ。どのくらいの規模なんだろうな?」
「これだけ大きい敷地だと、京都市の条例から推測しても、建物は地上9階、地下3階の一般病棟と中央病棟から成っていて、建物の形は俯瞰で見ると、おそらくコの字型か鍵カッコになっているか、もしくは大きな空間を持った憩いやリハビリ用のための中庭になっているハズで、一般病棟は150から200の病床。ナースも200から300名くらいで、医師も常勤と非常勤を含めると30から40名くらいはいそうな規模の病院だわね?」
快炎鬼はエバの推測に驚いた。
「な、何でそこまで分かるんだよ?」
「そうね。簡単に言ってしまえば病院の玄関口と言うか、門と門の間隔の大きさよね。横幅が大きければ大きいほど、患者もそこで働く医療関係者も多く、その病院の規模が分かるってことなの」
「へぇ~」
「敷地面積と建物を一見しただけで、病院の規模と仕事に携わっている人数を一瞬にして読み取ってしまうとは、これは恐れ入り谷の鬼子母神だ」
「あんた、軽く鬼子母神と言ってくれるけど、鬼子母神ってどんな神様なのか知ってて言ってるの?」
快炎鬼は自信なさそうな顔で聞き返した。
「恐れ入るほどに恐い神様だと思ってたけど……」
「違ってるのか?」
エバはゆっくりとした口調で、快炎鬼を諭すようにして説明した。
「怖いと言えば怖いわね。鬼子母神は今では出産や育児の神様と呼ばれているけど、以前は五百人もの子供がいた鬼女だったからね」
「彼女はその子たちを育てるために、次々と幼児を屠っては人肉を食い漁り、人々を恐怖の坩堝に落とし入れてたのよ」
「マジかよ?」
「ウソだろ?」
「ちょっとうるさいわよ。黙って聞きなさいよ」
「は、はい」
「……で、そのことを知ったお釈迦様はね。彼女がもっとも可愛がっていた一番下の子供を隠してしまったの」
快炎鬼は身を乗り出すようにして聞いた。
「そ、それで?」
「彼女はお釈迦様に子供を返してくれと必死で頼んだんだけど……」
「お釈迦様は『五百人もの子供がいるのだから一人くらい良いではないか』と言うと、彼女は『とんでもない。早く私の可愛い子供を返してくれ』と引きさがらなかったの」「お釈迦様はそんな彼女に『なぜ、他人の子を奪うのか。子供を失った親の気持ちがわからぬでもないのに……』と言って子供を返してやったのよ」
「彼女は改心してね。以後、子供を守る神様の鬼子母神になったってワケなの」
快炎鬼はエバの説明に納得した。
「なるほどねぇ」
「神様も以前が人食いの鬼女だったら、これはホントに恐れ入り谷の鬼子母神だ」
エバは苦笑しながら言った。
「魔火丸とは真逆の立場になってしまったわね」
「片方は鬼子母神と言う名の神様になり、もう片方は以前には『神犬サラマー』だと崇められ、時には畏怖の念さえ抱かれるほどの神犬だった犬が、今では魔餓鬼とともに行動するほどの駄犬、凶犬に成り下がってしまったじゃないの」
病院を見上げる快炎鬼の表情が急に曇った。
「……心配だ」
「これだけの規模の大病院だ。魔餓鬼がここに現われでもしたら最悪だ」
「心配しなくても来ないわよ」
「快炎鬼だけでなく、ここが『生の六道』だったことを知ってるのは、地元の人でも数が少ないの。だから魔餓鬼がここに来る確率は低いわ」
「私のカンだけど、魔餓鬼はもうこの京都にはいないのかもしれない」
「どうしてそんなことが言えるんだ?」
「ほら、見てよ」
「空を飛んでいる鳥も、散歩中の犬も少しも騒がず、平穏そのものじゃない」
快炎鬼はドスを効かせ、凄味のある声で言った。
「……嵐の前の静けさ。とも言うぜ」
二人は「京都市立六道総合医療センター」に背を向け、その場から立ち去った。―――
―――
京都のシンボルとして市民から愛される「京都タワー」は、京都の玄関口「京都駅」の目の前にそびえ立つランドマーク的な存在のタワーで、地下3階、地上9階のビルの屋上に設置され、高度地区による建築物の高さ規制が設定されている京都市街において、世界で一番高い「無鉄骨建築」である。
外観が白い円筒の形状から蝋燭がイメージされがちだが、設計当時は町家の瓦ぶきを波に見立て、コンセプトは海の無い京都の街を照らす灯台であった。
タワーの上部は、ドーナツ状の展望室になっていて、地上100㍍の最上階の展望室は上と下の二層に分かれ、京都の市街地を360度の大パノラマで眺望することができる。
下層の展望室の壁ぎわには長イスが置かれていて、珍皇寺で魔餓鬼に拉致された殺人犯の矢沢が、肩の力が抜けた状態でポツンと一人で長イスの中央に座っていた。
矢沢の目は虚ろで焦点が定まらず、間の抜けた顔になっていた。
4,5才くらいの男の子が矢沢に近づいた。男の子は興味深そうに下から矢沢の顔
を覗き込んだが、矢沢は無反応だった。男の子は矢沢の脛を軽く2、3度蹴ったが、矢沢はそれにも反応を示すことはなかった。
男の子は矢沢の脛を力強く蹴り上げた。
矢沢は一瞬、クワッと目を大きく見開き、鋭い眼光で男の子を睨みつけた。
ビックリした男の子は、外の景色を眺めている両親の元に慌てて逃げていった。
その両親から少し離れた場所に立ち、魔餓鬼が若い長身の女性と一緒に並んで眼下に広がる京都の市街地を展望台から眺めていた。
黒髪のロングヘアの若い女性の容姿は、抜群のプロポーションで、エレガントで都会的な雰囲気を漂わせる美女だったが、その正体は炎を噴く魔犬の魔火丸だった。
北側の展望台に立って両手を後ろ手に組み、碁盤目状の市内の町並みを魔餓鬼は無言で眺めていた。
魔餓鬼と同じように東本願寺と烏丸通を前方に見ながら、魔火丸は独り言を言った。「……ワシは思うのですわ」
「京都タワーの高さは131㍍なんやそうですけど、建設当時の昭和39年の京都の市民が131万人やったそうで、このタワーの台のビルの高さが31㍍やったから、単に100㍍を足して131㍍にしただけのことやないかと」
「タワーは蝋燭の形を模して建造されたとか、海の無い京都市を照らす灯台をイメージしたとか言われてますけど、そんなに海が欲しいんやったら、ワシらの手で『火の海』にしてやっても面白いでんなぁ?」
無言だった魔餓鬼は魔火丸の容姿を見ることもなく、前方を見つめながら言った。
「五月蠅く吠える犬は、飼い主からも嫌われるそうですよ」
魔餓鬼が何を言いたいのか、魔火丸には咄嗟にその意図を理解できなかった。
「……どういう意味でっしゃろか?」
「私がここに来た目的は、今後のために市内を一望しておきたいだけであって、あなたから京都タワーについての蘊蓄を聞かせて貰うためではないのです」
魔餓鬼は魔火丸の方に身を向け、静かな口調で諭すように言った。
「あなたは、以前からの願望であった人間の若い女性に変身することができたのです。ですから、言葉使いもそれに伴った女性の話し方に変えるだけでなく、名前の方も変えてみては如何ですか?」
魔火丸はアッサリと了承した。
「変身してたのをすっかり忘れていました。今からそうします」
魔火丸は魔餓鬼のご機嫌を伺うように、オドオドとした態度で聞いた。
「あのう……」
「もし、ご迷惑でなければ魔餓鬼さまに名前を付けて欲しいのですが?……」
「……なぜですか?」
「あなたは自分で名前を付けることが出来ないのですか?」
「以前から名乗りたい名前が色々とあって迷っていたのです。できれば魔餓鬼さまに名付けて頂ければ光栄なのですが……」
「では、ベリーにしてはいかがでしょうか?」
「……ベリーですか?」
「お気に召しませんでしたか?」
「と、とんでもございません」
「ベリーはベリーグッドです。とてもいい名前だと思います」
「とても気に入りました。『ベリーグッド』は『とても良い』の意味ですし、ベリーナイスは『爽やか』とか『可愛い』とか『素敵』です。ベリーはどちらにも共通しています。流石は魔餓鬼さまです。とてもいい名前だと感動しています」
「私はそういう意味であなたにベリーと名付けたのではありません」
「えッ?」
ベリーは不審顔で問い返した。
「……では、どういう意味で、私にベリーと?……」
「あなたはとても「おしゃベリー」だからです」
「ええーッ?」
「……ですから、ベリーと名付けたのです」
ベリーの驚いた顔は一瞬にして吹っ飛び、花が萎れるようにガックリと項垂れてしまった。
「そういう意味だったのですか?」
「ベリーとは……」
「お気に召さなかったようですね?」
ベリーは直ぐに気を取り直して、笑顔で言った。
「と、とんでもございません」
「流石は魔餓鬼さまです。この私にピッタリのいい名前だと感謝しています」
ベリーは改まった表情で、魔餓鬼に訊ねた。
「恐れを知らない者がネットを炎上させ、魔餓鬼さまを『生の六道』へ誘き出そうとしています。ご存知でしたか?」
「私の耳は地獄耳です。聞こうと思えばどんな囁き声だって聞こえるのです」「ネットを覗くと見覚えのある顔でしたから、直ぐに男の正体が判りました。女の後を追い地獄の穴に飛び込んだ、あの時の命知らずの刑事でした」
魔餓鬼はベリーにそう答えると、長イスに一人で座っている矢沢に近づいた。
ベリーは魔餓鬼の後に付いていきながら、魔餓鬼の背に向かって言った。
「快炎鬼などとふざけた名前を名乗っています。奪衣婆などが同行しています」
「それも知っています」と言いながら、気の抜けた表情の矢沢の横に座った。
ベリーは座っている魔餓鬼の前で立ち止まって聞いた。
「では、アララのことはご存じでしょうか?」
ベリーを見上げ、魔餓鬼は怪訝顔で聞いた。
「どうかしたのですか? アララが……」
「妖怪たちの噂では太秦の映画村で、妖怪「足取り」を抹殺したようです」
「そうでしたか。それはまだ知りませんでした」
矢沢を挟むようにして横に座り、膝の上に置いた片手の拳を怒りで強く握りしめながらベリーは言った。
「許せません!。ふざけるにもホドがあります」
「同行している奪衣婆ともども、早々に始末しましょう」
「放っておきなさい」
「えッ?」
驚いたベリーは半身を前に乗り出し、覗き込むようにして魔餓鬼の横顔を見た。
魔餓鬼は前方に見える市街地の景色を見ながら、落ち着いた態度でベリーに言った。「相手にすることはありません。放っておけばいいのです」
「ええーッ?」
ベリーが心配顔で魔餓鬼に聞いた。
「それでは、魔餓鬼さまのプライドが……」
「そんなものは有りません」
「な、なんですって?」
魔餓鬼は落ち着いた態度で、前を見ながら言った。
「プライドと言うものは、自分が他の人より優れていると思う自尊心や、人に優れていることを認められ自分は凄いのだと思う気持ちのことですが、私にはそのようなプライドはまったく有りません。誹謗中傷多いに結構。好きなだけ、気の済むまで冒涜すればいいのです」
魔餓鬼はすっくと立ち上がって言った。
「……ですから、イチイチ目くじらを立てて相手にするほどのことでは有りません。私はここであなたとお別れするつもりでいますが、彼らを自由にさせておきなさい。決して相手にしてはいけません」
魔餓鬼はベリーの前に立ち、冷たい視線で見下し強く念を押して言った。
「……いいですね?」
ベリーは素早く立ち上がり、直立不動で返事をした。
「はい」




