二十四の炎
二十四の炎
波の音一つ無く、静寂で穏やかな黒い水の大海にプカリと浮かび、両足を大きく広げて腕組みをした丈二が、険しい表情で上を見つめながら考え込んでいた。
「どっかに打開策があるハズだ?」
幾度となく考えを巡らせど、時は無情に流れ去ってゆくばかりだった。
「悔しいが何も浮かんでこねーよ。どうしたらいいんだ?」
「せめて羅獄殿の方角だけでも分かればいいのだが……」
丈二は首を横に向けて、水平線を見た。
「極楽浄土に向かった緒方さんと『ヨミ』は、この方向に向かったのだから……」
「羅獄殿は反対側の、こっち側に存在しているってことかなぁ?」
丈二の表情が一変した。
「ン?」
パッと半身を起こして立ち泳ぎの態勢になり、遥か彼方に見える水平線を丈二は目を凝らして見つめた。
黒に近い鉛色の空と、黒い水面の境界となっている水平線に、ポツリと小さな白い点が見えた。
「何だぁ。あれは?……」
丈二は両手で目をこすり、目を丸くして前方を凝視した。
「……カモメかな?」
ゴマ粒ほどの大きさだった白い点が、次第に大きく見えてきた。
「白い鳥か、白い船のようにも見えるのだが?……」
「……だとすると、あれはヨット?」
「それともマリンジェット?」
「いや。モーターボートなのかも?……」
白波を立てながら丈二に向かって一直線上に疾走してくるのが、船体を白く塗装した船舶だと判った。
歓喜した丈二は両手を上げて水を蹴り、腰まで浮き出るほどに飛び上がった。
「船だ―――ッ!」
「何でもありかよ? 地獄ってのは」
「クルーザーじゃないか。あれは……」
船が近づくに連れ、冷静さを取り戻した丈二は不審に思った。
「なぜだ?」
「なぜ地獄で航海しているのだ? クルーザーが……」
丈二は直ぐに気を取り直して、向かってくる船を笑顔で迎えていた。
「理由は何だっていいや」
「何もできない俺にとっては、大歓迎すべき大展開ってやつだ」
近づくクルーザーに向かって、丈二は両手を大きく振って叫んだ。
「お~~い」
「来てくれ。早く―――ッ!」
大型のクルーザーは丈二に近づくと急激にスピードを落とし、スクリューを逆回転させた。
船尾の水面は激しく白く波立ち、巨大な渦巻きを作って丈二の傍で停まった。
「地獄でホトケとはこのことだ」
丈二はクロールで泳いでクルーザーに辿り着いたが、船上からは誰も姿を見せることは無かった。
丈二はクルーザーに不審を感じた。
「誰も出て来ないぞ。どうなってんだ?」
「……まさか、幽霊船じゃないだろうな?」
不審顔で船を見上げていると、徐に操舵室のドアが開いて、中から老人と老婆がゆっくりとデッキに姿を現した。
矍鑠とした老人の容姿は、純白のマリンルックに統一されていて靴までもが純白で、色調の差と言えばジャケットの肩章とキャプテンハットの鍔と紋章くらいで、一方の老婆の方はカジュアルなスポーツウエアを粋でお洒落に着こなし、年齢に似合わぬ派手な帽子を被っていた。
丈二は二人の容姿を見て驚かされた。
「幽霊でも出てくるのかと思ったら、カッコいい爺ちゃん、婆ちゃんじゃないか?」「地獄の沙汰も金次第って言うけど、クルーザーのオーナーともなると、陰気な幽冥界でもこうなってしまうのかなぁ?」
デッキに立った老人は物珍しそうな顔で、水面に浮かんでいる丈二を見下した。
「レーダーが何やら奇怪なモノを探知したので正体を確かめにきたのだが……」
老婆は老人の横に並んで、黒い海面に浮かぶ丈二を見て笑った。
「不思議なことがあるものじゃのう?」
「まさか、このような場所でこのような人間が漂流しておったとは……」
一向に乗船させようとしない二人に向かって、丈二は切実に頼んだ。
「お願いです」
「私をその船に乗せて下さい」
「断る!」
老婆は強い口調で、即座に拒んだ。
「な、なぜですか?」
「お前さんには悪いが、どこの馬の骨とは分からぬ者を、そう容易くこの船には乗せられぬということじゃ」
「分かりました」
「私の名前は氷室丈二で、職業は京都府警の刑事です」
「……年齢は?」
「25歳です」
「なぜじゃ?」
「はぁ?」
「理由を言え!」
丈二は不満顔で応えた。
「なぜと言われても……」
「25年前に誕生したのですから、25歳でいいじゃないですか?」
老婆は年齢に似合わぬ大きな声で、高笑いをした。
「クワッ、クワッ、クワッ……」
「許せ、許せ。許して賜れ」
「なぜお前のような人間がこのような幽冥界なんぞで彷徨うておったのか、その理由を問うたつもりじゃったが、ストレートな聞き方をしてしまったこのワシが悪かった」
「好きで幽冥界を彷徨っている訳ではありませんが、閻魔さんを捜しているのです」
「なに、閻魔じゃと?」
「閻魔に何の用件があるというのじゃ?」
丈二と婆さんのやり取りを横で聞いていた老人が、老婆を窘めた。
「これ、婆さんや」
「何じゃい。爺さん?」
「そう矢継ぎ早に質問するのは止めなされ」
「なぜじゃ?」
「まずはこの若者を乗船させてから、後でゆっくりと話しを聞いてやろうではないか。どんな武勇伝を聞かせてくれるか楽しみじゃ」
老婆は笑いながらな、老人の言葉に納得した。
「オホホホ……」
「そうじゃ、そうじゃ、そうじゃった」
「許せ。氷室丈二とやら……」
「己の口から言うのもなんじゃが、このワシは地獄ではかなりの年季の入った意地悪婆さんで通っておってのう。素直にお前さんを乗せてやる気にはならなんだのじゃが、爺さんの一言で一気に気が変わってしもうたわい」
「ここで出会うたのも、一期一会の縁というモノじゃ」
老婆は笑顔で、丈二を促した。
「ささ、遠慮なく乗りなされ」
丈二は心を弾ませ、零れるような笑みを浮かべながら、船腹に設置されているステンレス製のタラップを昇っていった。
「ありがとうございます」
「地獄でホトケとはこのことです。本当に助かりました」
―――
操舵室には舵を握る老婆が一人だけで、老人と丈二の姿は無かった。
老婆は元気な声で号令をかけるとアクセルレバーを一気に入れた。
「ヨウソロー」
「全速前進・自動操船、実行!」
静まり返った黒い海原にエンジン音が響き渡り、大型のクルーザーはゆっくりとその場から離れ始めた。
―――
黒い大海原の大型クルーザーは、まるで船体にスポットライトを浴びたかのように光を反射して純白に輝き、大きく白波を切りながら快調に航海を続けていた。
後部デッキに立った丈二は老人と一緒に並び、どこまでも続いている白い航跡を感慨深げに眺めていた。
丈二は真央の笑顔を思い浮かべながら、心の中で呟いた。
『喜んでくれ。真央……』
『どこにいるのか知らないが、俺はやっと一歩、キミに近づいたようだ。今、閻魔が棲むという『羅獄殿』に向かっているよ』
丈二は一緒に並んでいる老人の横顔を見て、不思議に感じた。
『この大海原を大型クルーザーで優雅に遊覧出来るなんて……』
『何者なんだろうか? この老夫婦たちの正体は……』
老人はジロリと丈二を見返して言った。
「ワシを怪しんでおるようじゃな?」
「得体の知れぬ胡散臭い年寄りだと……」
丈二は慌てて否定した。
「と、とんでもない」
「乗船させて貰った恩人を怪しむなんて……」
「……では、何故にワシの横顔に見入っておった?」
「言ってもいいでしょうか?」
「遠慮は要らぬ。何なりと申せ」
「恰好いいお爺ちゃんだなあ。こんなお爺ちゃんが欲しいなぁと思っていたのです」
老人は怒ったようにして言った。
「嘘ならもっと上手に言え。お世辞であっても、もっと上手に言え」丈二はボリボリと頭を搔いて、苦笑しながら言った。
「嘘もお世辞も下手なので、別の質問をさせて貰ってもいいですか?」
「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥と言う。分らぬことがあれば積極的に聞けばよい」
「この大海原は真っ赤ではなく真っ黒な水面です。なのに、なぜ『血の池地獄』などと呼ばれているのでしょうか?」
「ここは血の池ではない」
「えッ?」
「こう見えても、これは『三途の川』なのじゃ」
「ええ―――ッ!」
大海原の黒い水面を指し、丈二は老人に言った。
「こ、これが、三途の川だと言うのですか?」
「そうじゃ」
「そ、そんなハズはない!」
「ナヌ?」
「お主、ワシの話が信じられぬと言うのか?」
「そ、そういうワケではありません。ですが……」
丈二は六道会の組長、緒方幸蔵の言葉を思い出した。
緒方はゆっくりと離れて行く小舟の上で、丈二に言った。
【受け売りですけど、ついでに教えときます。ここは大鉄囲山の西面にある、第一重海の『血の池地獄』なんやそうです】
【血の色もしてないし、サラサラの綺麗な水やのに、何でここが『血の池地獄』と呼ばれているのかワシにはその理由がサッパリ分かりまへん。そやけど、ここはそういう場所なんやそうです】
丈二は緒方から聞いた言葉を、そのまま老人に言った。
「極楽浄土に向っている人が教えてくれました。ここは大鉄囲山の西面にある、第一重海の『血の池地獄』だと……」
「間違うてはおらぬ。その通りじゃ」
「……だが、その人物は地域的なことを言うておって、正確に言えば、ここは『血の池地獄』では無うて、三途の川が正式な呼び名なのじゃ」
丈二は大海をグルリと見渡して思った。
『……どう見たって海だ』
『信じられないぜ。この大海原が三途の川だなんて……』
老人は、丈二の心の中を見透かしたようにして言った。
「正式名の三途の川にしても、以前は『そうずか』と呼ばれておったのじゃ」
「……ソウズカ?」
「麻雀牌の萬子、筒子、索子のソーズではないぞ」
「葬式の葬と、おつむの頭と、河川敷の河と書いて『葬頭河』と呼ばれておった」
「その葬頭河も最初の頃は、橋と浅瀬と深みの三途が無くて、ごくごく普通に水の流れる一般的な小川じゃった」
「一般的だった葬頭河が、なぜ三途の川と呼ばれるようになったのかを説明しよう。それは、この三途の川の水源は『死者の涙』からできておるからなのじゃ」
丈二はまたも目を丸めて驚いた。
「ええーッ!」
「し、死者の涙が集まって、この大海を創ってしまったと言うのですか?」
老人は丈二の問いに頷きながら、説明を続けた。
「万人がそうだと決めつけるワケではないが、生活苦や病気や怪我に負けた多くの弱者や敗者たちが地獄に落ちて涙を流すのじゃ」
「現世において如何なる豪胆な強者であろうとも、地獄では弱者となって本音を曝け出し……」
「そして、大きな声で泣き叫ぶ」
「帰りたい。戻してくれ……」
「戻りたい。帰してくれ……と」
「よってこの川は人間の涙で出来た『涙川』……」
「泣けば泣くほどに水嵩の増える『思い出川』なのじゃ」
老人の言葉を聞いて、丈二は発する言葉も無くして黙っていた。
「‥‥‥‥‥」
老人は委細構わずに、話を続けた。
「死者に愛と哀しみと無念が残っておる限り、三途の川は未来永劫いつまで経っても、決して枯渇することの無い川だということじゃ」
黒い大海を見ながら、丈二は心の中で呟いた。
『三途の川は……。涙川……』
『涙の川は……。思い出の川……』
老人の言葉に感銘を受けた丈二は、改めて思った。
『何ということだ』
『現世に戻りたい死者たちの悲しみの涙の一滴一雫が集結して、ついにはこうして三途の川も大海原のような大河になってしまったとは……』
丈二は老人に聞いた。
「三途の川の水は黒いです。地獄で泣けば、涙は黒く変色してしまうのでしょうか?」「空が青いと水面は青く映え渡り……」
「心の中に怨念と言う名の暗雲が生じれば、水はその暗雲を反映して真っ黒に映る。それ故に、三途の川の水の色は何時まで経っても黒い色のままと言うことじゃ」
「涙は乾くのが早く、塩分濃度も高く、そして驚くほどの浮力があったことも、大海の水が黒く見えてしまう理由も、これで納得することができました」
「多くの人が知っているので今更説明するほどのことでもないが、三途の川とは死後七日目に冥土の閻魔庁へ行く途中にある川のことであり、三途の川にはその名の如く三つの渡しがあって、死者の生前の行動によって、渡る場所が異なってくるところから、葬頭河はいつしか三途の川と呼ばれるようになったのじゃ」
「物のついでにもう少し詳しく説明すれば、三途の川には地獄の十王の配下に位置づけられる縣衣翁と奪衣婆という二人の川番人がおって……」
「三途の川の岸辺には衣領樹という大木が生えており、奪衣婆が死者の衣服を剥ぎ取り、それを受け取った縣衣翁が、衣領樹の枝に衣服をかけておった」不思議に思った丈二は、老人に怪訝顔で聞いた。
「奪衣婆と言う名前はどこかで聞いたことがあるので知っていますが、彼女たちは、なぜそのような行為をしていたのでしょうか?」
「死者は生前の罪の重さによって、衣領樹の枝の垂れ方がそれぞれに違う故、奪衣婆たちは枝の撓る様子を見ながら、緩急三つの瀬に分けて死者を渡らせておったというワケじゃ」
「……じゃが、三途の川も水嵩が増え過ぎて、流れの速さが違う三つの瀬は無くなり、渡し舟で川を渡るようになった」
「お主は渡し舟にも乗らず、幽冥界を一人で彷徨っておったので、その理由を聞くつもりでおったのだが、それは後回しにしておこう」
「先に名乗っておく」
「ワシの名前は牛頭じゃ」
「……ゴズ?」
老人は不服そうな顔で、丈二に問い返した。
「知らぬと言うのか。ワシの名を?……」
「申し訳ない。しらないです」
「ならば仕方がない。教えよう」
「ワシは祇園祭りで知られておる八坂神社の守護神。牛頭天王じゃ」
「な、なんだって!」
丈二は心配と疑惑の眼差しで、老人を見つめた。
『八坂神社の守護神がこんなところにいるワケがないだろ。とんでもないことを言いだしたぞ。このジィちゃん、大丈夫か?』
丈二は八坂神社での出来事を思い出した。
―――
八坂神社・境内の社務所には「神札・お守り授与所」と大きく書かれた看板が掛けられていて、その近くで真央が丈二に背を向けて「おみくじ」を見ていた。
パッと笑顔で振り返り、真央はおみくじを広げて丈二に見せた。
「ジャ―――ン! 私、大吉で~す!」
占いの文字が赤枠の中に書かれている「大吉」のおみくじを、真央は興奮気味に丈二に突き付けるようにして見せた。
「見て、見て~~ッ!」
「私、八坂神社のおみくじで『大吉』を引き当てたのよ!」
丈二は怪訝な顔で真央に聞いた。
「大吉を引き当てれば、どこの神社や仏閣だってラッキーじゃないのか?」
「いいえ、違うの!」
「八坂神社でお祀りしている大国主命は『福の神』『縁結び』『恋愛成就』の神様だから、私は特別に嬉しいの~ッ!」
―――
丈二は老人に言った。
「八坂神社は大国主命がお祀りされているハズです。あなたは何か記憶違いではないのですか?」
「間違うてはおらぬ」
「一般的に八坂神社の御祭神は、素戔嗚尊と櫛稲田姫命と八柱御子神だと言われておるが、因幡の白兎で有名な大国主命は、素戔嗚尊と櫛稲田姫命夫婦の八人の子供の八柱御子神の中の六代後の子孫なのじゃ」
老人は途切れることもなく、饒舌に話を続けた。
「ワシを守護神として祀っているのは祇園精舎の八坂神社だけではない。島根県出雲市には『須佐神社』、同じく島根県の松江市には『八重垣神社』、そして『熊野大社』が所在しておるわ」
「……では、京都の八坂神社を含めて、あなたは四つの神社と大社の守護神だとおっしゃるのですね?」
「それだけではな~い」
「ワシは別名でスサノオノミコトとも呼ばれ、厄除けや商売の神さまとしても親しまれておる」
「…スサノオノミコト?」
「ワシの正式な名前は建速須佐之男命と言って、ワシの実姉は天照大神であり、兄は月読命なのじゃ」
丈二は仰天した。
「ええ―――ッ!」
「お姉さんがアマテラスオオミカミだと言うのですか?」
老人は外人がする仕草のようにして、人差し指を左右に振った。
「ノウ、ノウ、ノウ」
老人は得意そうに言った。
「驚くのはまだまだ早い。まだ、はや~い」
「えッ?」
「そんなにもあるのですか?」
「これ以上に驚くことが、まだ他にも?……」




