二十三の炎
二十三の炎
黒い大海原で半身を浮かせながら、遠ざかって行く小舟を丈二は無言で見送っていた。
「‥‥‥‥‥」
小舟の上で緒方は笑顔で丈二に手を振っていた。
「刑事さ~ん! 必ず彼女を見つけ出して、閻魔さんに会って下さいよ~ッ!」
「奮闘努力を祈ってまっせ―ッ! 頑張ってやーッ!」
静寂な奈落の底で、自動で動く櫓の軋む音だけが空しく響いた。
ギィ~~、ギィ~~。
米粒のように小さくなってゆく小舟を見送りながら、丈二は心の中で誓った。
『見つけて出してやるとも』
『いつか必ず、真央を……』
緒方を見送る丈二の背後で声がした。
「いやあ、恐れ入りましたねえ。私にはとてもじゃないが、あのようなマネは出来ません。素晴らしい。実にできたお方だ」
「ン?」
丈二はパッと振り返って、声の主を捜した。
声はすれども見渡す範囲に人影は無く、空は渦巻く鉛色の暗雲が覆いつくし、空の下は黒い水が漂うだけの大海原だった。
『気の所為ではない』
『確かに人の声がした』
丈二は声がした方角に向かって大声を上げた。
「誰だッ!」
「姿を現せーッ!」
水面に浮かんでいたマイク兼用の櫓杭(櫓の握り手の突出部分・長さ15㌢程)から声がした。
「すでに姿を現してますよ」
「私に気付かないのは、アータの方ですよ」
丈二の前には、櫓杭しか浮かんでいなかった。
「ま、まさか?……」
櫓杭はバシャーンと水音を立てて高く飛び跳ねると、空中でクルッと一回転して、鳥獣戯画に登場してくる殿様カエルの姿で、黒い水面の上でペタンと胡坐を組んで座った。
「はい」
「そのまさかが……。この私です」
送受信機を兼ねていた櫓杭と入れ替わるようにして、丈二の目の前に現れたカエルの大きさは、乳幼児ほどもある巨大な殿様カエルであった。
「マ、マジかよ?」
丈二は我が目を疑った。
「ウソだろ?」
「アータ、何をそんなに驚いてるのですか?」
「しゃ、喋った」
「そりゃあ、喋りますよ。地獄では死者もカエルも大蛇だって……」
「な、なぜカエルが地獄にいるんだ?」
「ここは地獄にして、地獄に非ず……です」
「分かりません。あなたの言っている意味が……」
「では詳しく説明致しましょう。ここは地獄と現世との空間に存在している幽冥界なのです。ですから、ここには怖い獄卒もいれば、畜生道のカエルも白蛇もいる世界だということです」
「……幽冥界?」
「はい。そうですよ」
「では、ここで一句。『人間知れず 無名であっても 幽冥界』
「上手い!」
「と言いたいところですが、残念ながらボツです」
「アータ、何を言っているのですか。とてもいい句じゃないですか。面白い句じゃないですか。立派な句じゃないですか?」
「おっしゃるように確かに面白い句だと思います。でも、季語が入っていません」
「アータ、何を言っているのですか。ここは地獄ですよ。ですから、季語なんてものは要らないのです。死語さえ入っていれば、それでいいんです」
「ついでながらこの句を深~く解説させて頂きますとね。幽冥界とは死して肉体が朽ち果てても成仏することができず、さりとて六道輪廻することも叶わず、霊魂である幽体となって、無限に彷徨い続けなければならない終わり無きエンドレスの世界のことを言っているのです」
「幽冥界にいる蛙たちの存在を、アータにご理解頂くために話を元に戻しますが、国家平安や五穀豊穣を願ってカエルを生贄に供える蛙狩神事を催す神社もあれば、日本神話に登場して日本の各地に所在している猿田彦神の大神や神社の使者たちはカエルなのです」
「ですから、地獄の使者であるカエルが幽冥界で神様や仏様のお使いをすることは、別に不思議なことでも何でもないと言うことなんですよ」
「……なるほど」
「だから地獄にカエルがいても、おかしくないと?」
遠ざかって行く舟を、カエルは悲し気な表情で見送っていた。
「水先案内役のこの私を失ってしまえば、極楽浄土に直ぐには往くことはできず、誰よりも困ってしまうのはあの人自身なのに……」
「アータを一人で幽冥界に残すってことは、すべては鬼手仏心が為せる手段なのかもしれませんねえ?」
丈二は怪訝顔でカエルに聞いた。
「……きしゅぶっしん?」
「はい、そうですよ。仏さまのような優しい心を持ち、鬼のように思い切った行動を取ってしまうことを『鬼手仏心と』言うのです」
「あのお方には、以前にはなかった慈悲忍辱というものが心の中に生まれてしまったようですねえ?」
「緒方さんは本物の仏様に近づいたってことですか?」
「はい。地獄での一人旅は実に寂しいものです。旅は道連れと言いますが、死出の旅路でも同じことでして、仲間が多いと悲しみは薄らぎ和らいでくれます」
「それなのに、アータが娑婆に戻れるかもしれない、彼女に会えるかもしれないという一縷の希望を信じ込み、アータの幸運を願ってここに残したようです」
「なかなか出来ることじゃありませんよ。私は頭の下がる思いで一杯です」
丈二はカエルの説明で納得した。
「そうか、そうだったのか」
「だからこの俺を舟に乗せまいとして、あんなに力強く手を踏んづけたのか?」
カエルはパッと水面に立ち上がった。
「さてと、アータとはこれでお別れです」
「ま、待ってくれ!」
「アータに用はありません」
「カエルさんに用はなくても、俺にはあります」
「さて、何の御用でしょうか?」
「若い女性を見ませんでしたか?」
「はい。見ましたよ」
丈二はパッと目を輝かせ喜んだ。
『ま、真央だッ!』
カエルは当時を思い出しながら丈二に言った。
「若かったですよ。そうですねえ、歳の頃なら12、3歳で、あれは中学生でしょうか。おかっぱ頭でしたから……」
「ええ―――ッ!」
「二十歳くらいで長い髪を後ろで一つに束ねたポニーテールの女性じゃなくて?」
「違いますよ」
「私が擦れ違った小舟に乗っていたのは、おかっぱ頭のお嬢さんですよ」
丈二は泣きそうな顔で言った。
「見間違いじゃないのですか?」
「バカなことをお言いでないよ。人混みの中じゃないんだから、見間違うワケないじゃないですか」
「……ですよね」
カエルはしょげかえっている丈二に別れを告げた。
「では、私はこれで……」
「ま、待って下さい!」
「どうしてもポニーテールの女性に会いたいのです。どうすればいいでしょうか?」「死後三十五日目の審理をなさる五番目の裁判官で、本地は地蔵菩薩である閻魔さんに依頼すればいいのではないでしょうか?」
「それは判っているのですが……」
「閻魔さんと会うためにはどうすればいいのかを教えて欲しいのです」
「羅獄殿へ行けばいいと思いますよ」
「……らごくでん?」
「はい、そうです。羅獄殿とは閻魔さんと地獄の十王たちが暮らしていらっしゃる宮殿のことです」
「その羅獄殿へ行くのには、どうすればいいのでしょうか?」
「そんなこと知りませんよ。私は……」
「ええ―――ッ?」
「だって閻魔さんにはまだ一度もお目にかかったことがないですし、それに羅獄殿がいったい何処に存在するのか、その場所さえも分かりません」
「そ、そんな……」
「残念でしたねえ。お力になれなくて……」
「では、私はこれにて……」
「ま、待って下さい!」
カエルは迷惑そうに問い返した。
「まだ、何か用があるのですか?」
「最後に教えて下さい。お名前だけでも……」
「私に正式な名前なんてありません。でもね。敢えて付けるとすれば『ヨミ』でしょうかねえ?」
「……ヨミ?」
「はい」
「私はヨミという名のカエルです」
「ヨミ……カエル?」
丈二は目を輝かせて言った。
「蘇るじゃないですかッ!」
「あ、あなたは死者を蘇らせることができるのですね?」
ヨミは呆れた顔で丈二を見つめた。
「アータは単純過ぎると言えばいいのか、それともお気楽と言えばいいのか……」
「アータって人は、どうすればそのように物事をポジティブに受け取ることができるのか、私は不思議でなりませんね」
丈二は念を押すようにして聞いた。
「本当はしっているんですよね?」
「あなたは死者を蘇らせる方法を……」
ヨミは呆れながら言った。
「それがアータの長所なのかもしれませんが、余りにも考え方が楽観的で、思い込みが激し過ぎます。後先を考え、もう少し冷静に物事をお聞きになってから、発言してはどうでしょうか?」
「俺って、そんなに間違ったことを聞いてますか?」
「間違ってはいませんが、私の名前をヨミと聞いただけで早とちりして、直ぐに蘇ることに結び付けてしまうことを私は言っているのですよ」
「でも、ヨミガエルだと言ったじゃないですか?」
「言ってません!」
「ここは黄泉の国で、私はカエルですからヨミと名乗っただけのことです」
「私の名前に対してご不満あるようなので、判り易く説明します。幽冥界というのは黄泉の国の中に存在しているのです」
丈二はヨミの言っている言葉の意味が理解することができなかった。
「余計に判りません。どういう事でしょうか?」
「ま、アータに理解できるかどうか私には分かりませんが、一応、説明だけはさせて頂きます。日本という国の中に47の都道府県が存在しているように、幽冥界も黄泉の国の中に存在しているのです。黄泉の国の中に幽冥界があるということなのです」
ヨミは丈二に訊ねた。
「余談になりますが、アータ、仏様の数は何人くらいだとお思いですか?」
丈二は小首を捻りながら応えた。
「京都で生活してましたので少しは知っているつもりですが、三十三間堂では中央に千手観音立像が一体で、左右にズラリと五百体が立ち並んで、合わせて千一体の観音立像がありますから、その他の仏様たちはその二倍から三倍だとして、凡そ六千人くらいでしょうか?」
「とんでも八分、歩いて十分。観音様だけでも過去、現在、未来の三劫に千体ずつですので、三千体にもなるのですよ」
「アータは信じられないでしょうが、仏様は星の数ほどにいらっしゃられ、浄土の数にしても仏様の数だけ存在しているのです」
「そ、そんなにあるのですか? 浄土だけでも……」
「そうですよ」
「例えば、お釈迦様の在す霊山浄土、観音様の補陀落浄土、薬師如来の浄瑠璃などは有名ですが、アータといつまでもこうして問答を繰り返しているヒマはございません。私は衆生済度のために彼が彷徨っている舟に早く戻り、阿弥陀如来様の極楽浄土まで案内しなければならないのです」
「申し訳ないですが、もう一度、お聞きします」
「……シュジョウサイドって何ですか?」
「衆生とは悩み迷える人々のことで、済度とは悩み迷える人々を救って、彼岸にお渡しすることです」
「因みに、現世側から申しますと、遥か彼方にあるあの世の岸辺を彼岸と言い、此方にあるこの世の岸辺を此岸と言います」
「……ですから、彼岸と此岸の間を往き交う小舟にとって、私のような櫓杭が無くなってしまうということは、舵とエンジンが同時に故障してしまった幽霊船と同じことでして、このままでは彼は成仏することができずに、いつまでも霊魂のままでこの幽冥界を彷徨い続けることになるのです」
「あのような人物を彷徨い続けさせておくワケにはいきません。ですから名残り惜しいですが、アータとはこれでお別れなのです」
「お話はよく分かりました」
「お手間を取らせて本当に申し訳ありませんでした。早くいってやって下さい」
「では、これにて失礼……」
丈二にクルリと背を向け、ヨミは水の上を走っていった。
足の水掻きを広げて足早にパタパタパタと走るヨミの後ろ姿は、カエルに見えず、エリマキトカゲのように見えた。
遠ざかって行くヨミを、丈二は怪訝顔で見送った。
『……なぜ、走るのかな?』
『カエル跳びで跳んだ方が、速く辿り着けると思うけど?……』
ヨミの後ろ姿がゴマ粒ほどに小さくなり、丈二は深い溜め息を付いた。
「あ~あ。また一人ぽっちだ」
「どうすりゃいいんだ? これから俺は……」




