二十の炎
二十の炎
京都府警本部の旧庁舎は昭和の初期に完成された3階建ての鉄筋コンクリ―ト造りで外壁は全面白色のスクラッチ貼りだったのだが、タイルは変色して逆にレトロな感じの建物となって2019年まで使用されていた。しかし、25の警察署と7000人超の職員を擁する巨大組織のために狭隘な旧庁舎だけでは司令塔の役割は担い切れず、京都府庁舎と同じ敷地、新町通りと下長者町通りの交差点に面した立地の新庁舎へと移転した。
2020年の5月13日に完成した新庁舎は地上6階、地下2階建てで延べ面数は約2万7700㍍も有り旧庁舎と比べると床面積は1・5倍にもなっていて、そこに別館、京都リサーチパークなど分散していた機能を集約し、本部機能の強化を図った。
近隣の日照権に配慮して外観はフラットで軒先を大きくしているために陰影が出来て各階の段差がハッキリと判るようにデザインされている。
1階エントランスの壁面などには京都産の杉材を使っていて最大震度7の揺れも軽減できる免責構造で、非常用発電や浄水装置も備えた建物で、約1500名もの職員たちが「府民の安心安全を守る警察活動の拠点として運用していく」ために日夜仕事に励んでいる。
正面1階は全面がガラス張りになっていて正面玄関の上部には「京都府警察本部」と横に大きく書かれた看板が掛けられている。
容貌だけでなく風貌もガラリとワイルドに変貌した快炎鬼が、玄関のガラスドアから颯爽と中に入っていった。
―――
職員食堂の壁時計は午後の1時半を差していた。
職員の多くは既に食事は終えていて、数人のグループたちがところどころに見受けられる程度で空席が目立った。
政岡がガラ空きの食堂の片隅で、遅い昼食を一人だけで取っていた。
政岡が食べていたのは、その日の定食の「カツカレーとうどん」だった。
空席のテーブルの上を、消毒液の入った容器と手布巾を持って、一人で熱心に拭いていた初老に近い給食係のオバちゃんが、食事中の政岡に気付いて近づいていった。
政岡の前の席に座って、オバちゃんが言った。
「あんた、いつまで食べてんの?」
すすりかけていたうどんを口に入れたまま、政岡は呆気に取られた顔でオバちゃんを見た。
オバちゃんの白い作業着の左胸には「橋間」と書かれたネームプレートが付いていた。
政岡はすすりかけていたうどんを急いで食べてオバちゃんに言った。
「さっき席に着いたところだ」
「ダラダラと時間をかけて食べているワケじゃない」
オバちゃんは強い口調で政岡に言った。
「昼食時間は1時30分までと決まってるの。ルールを守ってちょうだいんかぁ?」政岡は口を尖らせ、不満顔で橋間のオバちゃんに言い返した。
「食べ終えるのが1時30分じゃない。ラストオーダーが1時30分のハズだ」
政岡はグルリと見渡しながらオバちゃんに言った。
「それに、ここにいるのは俺だけじゃない。多くの人たちがまだいるじゃないか!」オバちゃんはニッコリと笑って、政岡を諭すようにして言った。
「あの人たちは昼食が終わって休憩中やから……ええの」
「この時間帯に食事しているのは政岡さんだけやから、私は言うてるの」
「分かったよ。早く食べ終えるから話しかけないでくれ」
「エエのよ。今日はゆっくり食べても……」
急いで食べかけていた政岡は、箸を止めオバちゃんの顔を不満顔で見直した。
「何だよ? それ……」
「仕事熱心な政岡さんに、お似合いの娘さんがいてはるんやけどぉ……」
橋間のオバちゃんは政岡の顔を覗き込むようにして聞いた。
「……どない?」
突然、姿を現した快炎鬼が、オバちゃんの横に座って政岡に言った。
【OKしろよ】
政岡は思わず快炎鬼に言った。
「何だ、お前は?……」
快炎鬼の姿が見えず、快炎鬼の言葉が聞こえないオバちゃんは怒った。
「何だ、お前とは何よ!」
事の状態に直ぐに気付いた政岡は、慌てて訂正した。
「ち、違うんだ、オバちゃん……」
「どう違うのよ。私にはハッキリと聞こえたわよ!」
しどろもどろになりながら、政岡はオバちゃんに言った。
「い、言い間違えたんだ!」
オバちゃんは冷たい表情で政岡を見た。
「……何と言い間違えたんよ?」
「それは、つまり、その……」
言葉が詰まった政岡は、思い出したようにして言った。
「な、なんと、オーマイガーと言いたかったんだ!」
「それが『なんだ、おまえは……』になってしまって……」
橋間のオバちゃんは、疑いの眼差しで政岡を見つめた。
「……ホントに?」
「本当だ!」
「ほとんど使わない英語だから言い間違えてしまったんだ」
「怪しいわね。何だか言い訳ぽくって……」
「信じて下さいよ。ウソなんて言わないですよ」
橋間のオバちゃんは、相変わらず疑いの眼差しで政岡を見つめた。
「……どうだかね?」
快炎鬼は笑って、二人のやり取りを見ていた。
うどんの椀にぶつかるほど近くまで頭を下げて、政岡はオバちゃんに謝った。
「ごめんなさい。オバちゃん……」
オバちゃんに気付かれないように頭を斜めに下げた政岡は、快炎鬼を睨みつけながらオバちゃんに言った。
「これから言葉に気を付けて話すようにします」
橋間のオバちゃんは、ニッコリ笑って政岡を許した。
「分かったわ」
オバちゃんは立ち上がって、政岡に言った。
「頭もええし、私の若いころに似てて可愛い娘さんやし、申し分のないイチ押しの子やからね。お見合いの話進めておくからね」
政岡はオバちゃんを見上げて聞いた。
「オバちゃんに似ているのですか? その人は……」
オバちゃんはニッコリと笑って、政岡に応えた。
「そうよ。そっくりよ」
快炎鬼は笑いながら、政岡を促した。
【いい話じゃないか。OKしろよ】
政岡は「うるせーッ!」と言いかけたが「うる!」まで言って言葉を止め、作り笑顔でオバちゃんに言った。
「うる、うるしい……です」
「よかったわぁ」
「オバちゃんも嬉しいわぁ。そんなに喜んでもらえて……」とオバちゃんは笑顔で席を立ち、さっきと変わらぬ姿でテーブルの上を手布巾で拭いた。
怒りに燃える政岡は、物凄い形相で快炎鬼を睨みつけたが快炎鬼はシカトして、政岡の背後にいる人たちに向かって軽く手を振った。
政岡が振り返って後ろを見ると、数人の女性のグループの全員が、政岡を見ながらヒソヒソと話し込んでいるのが見えた。
彼女たちが快炎鬼の姿が見えてるのか見えてないのか判別することができなかったが「あの二人、もしかして親子じゃないの?」とか「政岡さん、橋間のオバちゃんに借金しているのじゃない?」とか「政岡さんはオバちゃんに何か弱みを握られているのよ」など、どうせ陸な噂をしていないように政岡には感じた。
黙々と食事を続けているように見せながら、政岡は顔を上げずに快炎鬼に聞いた。
「そんな恰好で、よく入れたな?」
「この建物のセキュリティ対策は万全で、入館するためには門衛のお巡りさんに引き止められ、目的用件を申請しなければ入館することができないハズなのに?……」
快炎鬼は答えた。
「それは以前に言っただろ?」
「俺を見ることができるのはお前だけで、氷室丈二を知る人物には氷室丈二が見えず、氷室丈二を知らない人物には氷室丈二が見えていると……」
政岡は快炎鬼の顔を見ずに、うどんを見ながら聞いた。
「橋間のオバちゃんに、なぜお前の声が聞こえなかった?」
「お前は知ってるかな?「ホーミー」ってのを……」
「知らねーよ。『フォー・ユー』って歌なら、知ってるが?……」
「モンゴルの伝承的な歌唱法に「ホーミー」ってのがある。うなり声のような低いドローン音と、非常に甲高い声のメロディー音の二つの音を同時に発声する歌唱法のことだ。さっきはそれによく似た発声法で、周波数が違っている二つの音声を同時に発したから、橋間のオバちゃんには聞こえなかったってことだ」
政岡は顔を上げず、怒った口調で言った。
「ホーミーか何だか知らないが、用があるんだったら事前に連絡くらいしろよ」
「お前には本当にすまないと、心の底から思っている。お前の都合をまったく考えず、こっちの都合で姿を見せては、こっちの都合で姿を消して……」
「お前はいつだってそうだ。他人の迷惑を顧みず後先考えずに行動しやがって……」
快炎鬼は素直に頭を下げて謝った。
「申し訳ない。許してくれ」
「今日は後先を考えて会いにきたつもりだったのだが、またいつものクセで余計なことを言ってしまったようだ」
「済んだことだ。もういいよ」
「……で、会いに来てくれた理由は何だ?」
「いいのか? ここで話しても……」
パッと顔を上げた政岡は、力強く快炎鬼に言った。
「ダメだ!」
「何の用かしらねぇが、ここでは落ち着いて話をすることができやしねぇ。どこでもいいから場所と時間を指定しろ。俺がそこへ出向くから……」
―――
南禅寺の境内内には、古代ローマの水道橋を思わせるアーチ型をした
赤レンガ造りの水路閣があり、その近くには蹴上インクラインがある。
インクラインとは琵琶湖疏水を利用した舟運ルートの一部の傾斜鉄道のことで、琵琶湖疏水の枝線水路は本流から蹴上で分岐し、大文字山(如意ヶ岳)の山麓に沿って南禅寺、若王子、高野、下鴨、堀川と流れ、京都に市電を走らせる水力発電、灌漑、防火などを主に目的とした用水であり、現在も水路閣には琵琶湖の水が毎秒2㌧も流れていて、琵琶湖疎水は水路閣だけでなく、哲学の道など新たな景勝地を誕生させている。
因みに、南禅寺の水路閣と呼ばれているが、水路閣は南禅寺の持ち物ではなく、南禅寺の境内に水路閣があるだけで、南禅寺は周囲を塀で囲まれていないので水路閣はいつでも無料で自由に散策でき、多くの人たちから親しまれている。
―――
水路閣の横の通りは、少し広くなっている場所があり、その通りの道路沿いに鄙びた趣を感じさせる木製のベンチが設置されている。
エバがそのベンチに一人で座り、懸衣翁がベンチの背凭れの上部に止まり、静かな東山の風景にすっかり溶け込んで風格さを感じさせる壮大な水路閣を、エバと一緒に眺めていた。
水路閣を見ながらエバが溜め息まじりに呟いた。
「ホントに私って、バカよねぇ」
エバの肩の近くでベンチの背凭に止まっていた懸衣翁が言った。
「今ごろ、気付いたのか?」
パッと立ち上がって振り返り、懸衣翁を見下しながらエバは怒った。
「何よ、その言い方は……!」
「こっちは謙遜して言ってるってのに……」
懸衣翁はエバを見上げて言った。
「謙遜するタマか?」
「よく言ってくれるわね。自分の女房に向かって……」
「何をそんなに後悔してるんだ。言ってみろ」
「全員を一つに纏める力がこの私に無いばっかりに、リュウも快炎鬼も別行動で魔餓鬼と対決しようとしてるわ。怪物・魔餓鬼が相手では私たち4人が束になって挑んでも倒せるかどうか判らないっていうのに……」
エバは困窮した顔で、再度ベンチに座り直して水路閣を仰ぎ見た。
「困ったわ。どうしたらいいのかしら?」
「リュウも快炎鬼も、今頃どこでどうしているのか、サッパリ分からないし……」
「困った時は思案することより、行動するのが一番の解決策だ」
「ここでのんべんだらりと時間を潰しているヒマはねぇ。一分一秒でも魔餓鬼を現世でのさばらせておく訳にはいかねぇ。早く全員が一致団結して立ち向かうことだ」
「それができないから、嘆いてるんじゃないの」
「心配するな。この俺に任せろ」
エバは驚いた顔で懸衣翁を見た。
「えッ?」
「クソ魔餓鬼の所為でこんなカラスの出来損ないにされちまったが、そのお陰といっては何だが、少しはお前の役に立ちそうだ」
懸衣翁はベンチから飛び上がり、近くの高枝に飛び移った。
エバは立ち上がって、懸衣翁に聞いた。
「何をしようって言うの?」
「喧嘩別れしたとか言ってたな?」
「ええ…」
「雨降って地固まるって諺がある。溢れ出た水のお陰で、以前にも増して強固な地盤に戻ったと言う意味だ」
「可愛い女房が独りで心を痛めて思い悩んでいるんだ。徒手空拳でどこまで力になってやれるか分からねぇが、この俺が一肌脱いでやるぜ」「気持ちは凄く嬉しいわ。でも、言っちゃ悪いけど、そんなカラスの恰好で、一体、何ができるっていうのよ?」
「いいから、この俺に任せろ」と言い残し、懸衣翁は高枝から飛び立った。
水路閣に沿いながら滑空するようにして飛び去っていく縣衣翁の姿を、エバは心配顔で見送った。
「任せろと言ったって……」
「どう任せればいいのよ? リュウも快炎鬼もどこでどうしているか判らないっていうのに……」
空はすっかり晴れ渡り、北山連峰の緑が豊かに見えている市街地上空を、懸衣翁が西に向かって飛んでいった。
―――
京都を代表する観光地に嵐山があり、国の史跡と名勝にも指定されていて「渡月橋」や「竹林の道」は四季を問わずに多くの観光客たちに自然の美を堪能させてくれる場所である。
京都・嵐山のシンボルとなる観光スポットの「渡月橋」は、大堰川に架かる全長約155㍍の橋のことで、橋脚は鉄筋コンクリート製、欄干部分は檜造りになっていて、周囲の美しい景観に馴染むように設計されており、鵜飼、灯篭流し、そして、もみじ祭など数多くのイベントが催されている。
渡月橋の名前の由来は、鎌倉時代に亀山上皇が「くまなき月の渡るに似る」と感想を洩らしたことから、「渡月橋」と命名されたそうで、紅葉のシーズンには嵯峨のトロッコ列車で亀山まで行き、帰りは保津川下りで嵐山まで戻れるようになっていて、紅葉に染まる嵐山の風景は、インスタ映えのするフォトジェニックなスポットにもなり、若者たちの間でも人気が出ている。
渡月橋が架かっている上流には大堰川のダム湖があって、川下りをしてきた何隻もの舟と大きな遊覧船、そしてボート遊びを楽しむ数えきれないほどのブルーの色をした貸しボートがダム湖に浮かんでいた。
ボート遊びを楽しむ客は、一般的に仲の良い男女のカップルだと相場は決まっているのだが、その中の二人用の手漕ぎの貸しボートには二人の男が乗っていた。
船尾となる艫には政岡がいて、船首の舳でオールを漕いでいるのが快炎鬼だった。
職員食堂の怒りを引きずったままの政岡は、まだ機嫌が悪かった。
「……おかしいだろ?」
「男だけでボート遊びなんかしていたら」
「直ぐに紅葉シーズンの到来だ。オバちゃんが進めるお見合いの後のデートはここにしろ。京都には紅葉の名所は数多くあるが、ここから見上げる嵐山の紅葉の景色は格別だ。エモいとはこういうことだったのかときっと思い知らされるよ」
「大きなお世話だ。どこでデートしようが俺の勝手だ。それに、まだまだしねーよ、お見合いなんて……」
「まだまだしねーよって? 好きな女性ができたのか?」
快炎鬼はニヤリと笑って聞いた。
「俺の知っている女性か?」
「うっせーわ!」
「そんなことより、俺に会いにきた本当の理由は何だ? 早く言いやがれ!」
オールを上手く捌いていた快炎鬼の手が、ピタリと止まった。
「ン?」
遠くの空を見上げ、怪訝そうな顔をしている快炎鬼に政岡は聞いた。
「どうした? 急に手を止めて……」
「……見覚えのある鳥だ」
「キョロキョロと下を見ながら北に向かって飛んでいる。何かを探しているようだ?」振り返って空を見たが、政岡には何も見えなかった。
「俺には見えねー。何も……」
「見間違えたんじゃねーのか? 誰かが飛ばしたドローンと……」
「政岡。信じられないだろうが聞いてくれ」
「聞いてやるぜ。言ってみろ」
「人間は網膜の光を感じる部分に約20万個しか視細胞を持っていないが、猛禽類は約150万個も持っていて、人間の約8倍の視力だ。お前は信じられないだろうが、俺はその猛禽類の視力よりも数倍から数十倍の倍率でフォーカス出来るようになっているんだ」
「どうだ。信じるか?」
「お前はもう人間じゃねぇんだ。俺には見えない物が見えても不思議じゃねーよ」
快炎鬼の目がパッと輝いた。
「思い出したぞ!」
「あの鳥は、珍皇寺の参道で真央と一緒に見た頭の白いカラスだ」
「思ってた通りだ。やっぱりいたんだな? お前たち二人は珍皇寺に……」
「いたよ」
「そのせいで、俺たちは酷い目に遭遇した」
「詳しく話してくれ」
「もちろん、そのことをお前に話すつもりで府警本部へ行ったんだが……」
快炎鬼は怪訝顔で聞き返した。
「逆に聞く。何か遭ったのか? 俺たち以外に珍皇寺で……」
「何か遭ったどころの騒ぎじゃねぇよ」
「お前たち二人が失踪した同じ日の同じ時刻に、殺人容疑で逃亡していた矢沢というチンピラが珍皇寺付近で車を乗り捨てたまま、神隠しにでも遭ったかのように忽然と姿を消した」
「な、何だって?」
政岡はパッと急に立ち上がって、快炎鬼に言った。
「教えてくれ!」
「お前は何と遭遇したんだ? 珍皇寺で……」
バランスを崩した政岡は、ボートから転落しそうになった。
二人用のボートは政岡の急な動きで、大きく左右に揺れ動いて水面に波を作り出した。「落ち着け。政岡……」
四つ這いになった政岡は、ボートの底を這うようにしながら身を乗り出して聞いた。
「真央ちゃんはどうした?」
「戻ってきているのか? お前と一緒に現世へ?……」




