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快炎鬼  作者: 吉田四郎
19/50

十九の炎

十九の炎

丈二が慌てふためきパニくっているのに反して、緒方は落ち着き払って事の成り行きを見守っていた。

大きく傾き急に方向を変えた小舟は元の状態に戻り、そして櫓を漕ぐ音を静かに立てながら、ゆっくりと前進していった。

冷静さを取り戻した丈二は、怪訝顔で緒方に聞いた。

「何だったんでしょうかね? 今のは……」

緒方は前方を指差し、笑顔で丈二に応えた。

「あれですねん」

「あのかりに向かって、この舟は進んでいるのですわ」

へさき側に座っていた丈二は、振り返って緒方が指す前方を見た。

しかし丈二には、暗い空と黒い海の境目の水平線だけしか見えなかった。

「……灯かりなんてありませんが?」

「そうでっか? おかしいでんな」

「ワシには水平線のちょっと上に、ペットボトルのキャップくらいの大きさで、オレンジ色の灯かりが薄ボンヤリとともっているのが見えますのやけど?……」

立ち上がった丈二は、緒方が言っている水平線上の暗い空を目を凝らしてジッと見つめた。

先程は気付かなかったが、僅かで小さな光が暗い空にあった。

「あ、ありました!」

「……でも」

「針の先ほどに小さくて、星の光よりもまだ暗い灯かりですよ?」

緒方は言った。

「そうでっか?」

「同じ灯かりでも、見る人によって灯かりの大きさも強さも、違ってくるのかもしれまへんなあ?」

丈二は小さな光を指差しながら、緒方に訊ねた。

「何なのですか? あの灯かりは……」

緒方はすんなりと応えた。

「線香の灯かりですわ」

「ええ?」

丈二は不満な顔で緒方に言った。

「あれが線香の灯かりだと言うのですか?」

緒方は平然とした顔で丈二に応えた。

「そうでおます」

丈二は語気を強めて緒方に言った。

真面まともに応えて下さいよ!」

「あれが線香の灯かりであるハズがないじゃないですか!」

緒方は突き出した両手を上下させ、笑顔で丈二をなだめた。

「まあまあ。刑事さん」

「そうカッカせずに、落ち着いて座んなはれ」

丈二は仏頂面で元の位置に座り直した。

「分かりました」

「では、もう一度お伺いします。緒方さんはあの灯かりが線香の灯かりだと、なぜそうハッキリと言い切れるのか、そのワケを説明して下さい」

「説明しますけど、その前に言っておきます」

「刑事さんは信用せんと思いますけど、地獄ここでは死者にも命というモノがありますねん」

「……死者に命ですか?」

「そうです」

「死者は地獄ここでは『意生身いしょうじん』と呼ばれて生きているのです」

丈二は怪訝顔で聞き直した。

「死んでいるのに……。生きているのですか?」

随分ずいぶん矛盾むじゅんした話やと思うでしょうが、意生身の意は意識の「意」。しょう殺生せっしょうなどの「生」。じん身体じんたいの「身」で、意識に生きる身と書いて意生身でおます」

「肉体は朽ち果てても、意識は生きていると言う意味ですね?」

「そうです」

「死者が意生身になると『食香じきこう』と言うて、手向たむけの花の香りと線香の灯かりだけが、冥土めいどで旅する四十九日間の生命いのちかてなってくれているのです」

「そやけど、それは普通に死んだ人たちの話であって、ワシらのように身内の者もなく、誰一人としてとむらってくれる人間がいてない死者は、死出の旅路たびを続けることができまへん。未来永劫に奈落の底で彷徨い続けることになってしまうのですわ」

丈二は緒方の話を黙って聞いていた。

「そういうワケですから、線香の灯かりが前方に見えたということは、大谷祖廟にワシの先祖の墓がありますよってに、ワシをあわれに思った住職さんが手向けの花と一緒に、線香の一本でも上げてくれたのやないかと思てますねん」

「‥‥‥‥‥」

「線香の灯かりは彷徨える死者たちの道標みちしるべになってくれてますが、線香の有り難さはそれだけではおまへんのですわ」

「……他に、何があると言うのですか?」

「線香一つで死者と生者せいじゃが、会話することができるのです」

「えー?」

「会話というても声を出して話し合う会話と違います。以心伝心でお互いに何を思い、何を願っているかを思いやる『心の会話』が線香でできるのです」

「そう言われてみれば、何となく判るような気がしますね」

「風も無いのに線香の煙が大きく揺らいでいる時は、死者がお礼を言うてると思て下さい。又は、死んでも死に切れずに悔しい思いをして嘆いていると思て下さい。お互いに相手の声が聞けずに一方通行の多い会話になってしまいますけど、死者と生者との会話は成り立っているということです」

「住職さんでなかったら、どこのどなたがこのワシに焼香を上げてくれているんか心当たりがおまへんが、ワシは心の底からその人に言いたいのです。焼香を上げてくれて『おおきに』『感謝している』……と」

そして、緒方はにっこりと笑って丈二に言った。

「これでワシの話は終わりです」

「何か他に聞きたいことがありますか?」

丈二は疑惑の眼差しで緒方に訊ねた。

「あなたは緒方さんではないでしょう?」

緒方は丈二の言葉に驚いた。

「な、何を言うてはりますねん?」

丈二は躊躇いながらも、ハッキリと言った。

「こういうことをいっては悪いのですが、ヤクザの組長の緒方さんが、そこまで線香について詳しく話せるワケがない」

丈二は鋭い視線で緒方を睨みつけるだけでなく、激しい口調で緒方に言った。

「正体を見せろ!」

「お前は、一体、何者だ!」

緒方は丈二の脅しにひるむことなく、平然とした表情で答えた。

「そうでんなぁ」

「ワシは人さまには難癖なんくせをつけては金品きんぴんを巻き上げるだけでなく、女癖おんなぐせも悪くて一癖ひとくせ二癖ふたくせもあった男やさかいに……」 

緒方はおどけた表情で、丈二に言った。

えて言うなら、……曲者くせものかも?」

丈二は苦笑した。

「面白い。座布団一つ……」

笑っていた丈二の顔が、パッと激怒の顔に一変した。

「と、言うとでも思ってるのか! ざけんじゃねーッ!」

「すっとぼけてねぇで、とっとと白状しろ!」

緒方は慌てて左右に手を大きく振って否定した。

「な、何を言うてはりまんねん?」

「ワシは紛れもなく、正真正銘の緒方幸蔵でんがな」

「そんな口からの出任せが、この俺に通用するとでも思っているのかッ!」

「出任せやデタラメではおまへん!」

「それに第一、ワシが刑事さんにウソをつく理由がおまへんがな。ウソを言うてもワシには何のメリットもありまへんがな」

そう言われて、初めて丈二は納得をした。

「……なるほど」

「そう言われてみれば、そうですよね」

「……ではお訊ねします」

「緒方さんはなぜそんなに、線香について詳しいのですか?」

「それは……」

とも側に座っていた緒方は後ろを振り返って、左右に動いている櫓を指した。

船尾の床板にしっかりと括り付けられた紐が上に伸び、紐の先が輪になっていて、輪は櫓の取手とって部分にクルリと引っ掛けられていた。

「あの櫓の取手が、ワシの話が事実やと言うことを証明してくれます」

丈二は怪訝顔で聞いた。

「……櫓が、何を証明してくれるのですか?」

「あの櫓の取手の部分は、マイクとスピーカーを兼用してまして、なんやかんやとこのワシに教えてくれるのですわ」

丈二は又も疑いの眼差まなざしで緒方を見た。

『……ホントかよ?』

『スマホは通じなかったのに、その取手は通信できるというのか?』

丈二の目を見て疑われていることを察した緒方は言った。

「そんな目で見ないで、ワシの言葉を信じてやって下さいよ」

丈二は無言で緒方を見据えていた。

「…………」

「ワシも刑事さんと同様に、地獄ここで退屈と暇を持て余していましたさかいに、櫓の取手部分からBGMのように次々と流れ続ける話を聞いてるうちに、『意生身』とか『食香』とか線香にまつわる話を、自然に覚えてしもうたというワケですねん」

「ウソやと思うのやったら、あの取手を手に取って確めてみて下さい。刑事さんがどんな質問をしても気軽に答えてくれますよってに……」

丈二は目を輝かせて身を前に乗り出した。

「ど、どんな質問もだって?」

「そうです」

「あの取手はトッテも便利な通信機器になってくれてまんねん」

丈二はそれを聞いて意気込んだ。

「よし!」

「緒方さんの話が本当だったら、聞きたいことが山ほどある」

丈二はすっくと立ち上がった。

「まず初めに聞くのは、閻魔さんのいる場所だ」

「そして、次に聞くの真央を助け出す方法だ」

丈二は身を屈め、狭い小舟の船尾へと急いだ。

丈二はゆっくりと左右に動いている櫓に辿り着き、櫓杭ろぐい(櫓の握り手の突出部分・長さ15㌢程)を指して緒方に聞いた。

「この取手が、色々と情報を教えてくれるのですね?」

「そうです」

「その取手を上に引き抜いて下さい、櫓から外れますよってに……」

丈二は教えられた通りに櫓杭を握ってスポッと上に引き抜くと、引っ掛けられていた櫓杭の紐が床板にバサッと落ちた。

緒方は取手を握っている丈二に言った。

「質問して下さい。応えてくれますから……」

丈二は握りしめた櫓杭をマイク替わりにして質問した。

「こちら、氷室丈二……。どうぞ」

即座に音声が返ってきた。

『ようこそ、奈落の底へ……。どうぞ』

丈二は取手を放り投げそうになるほどに驚いた。

「うおッ!」

丈二は慌てて、取手に向かって言った。

「き、聞きたいことがあります。どうぞ」

丈二の送受信のやり取りを聞いていた緒方の表情が曇り、そして、呟いた。

「マズい展開になってきたようやなぁ?」

すっくと立ちあがった緒方は片方の船縁に片足を置いて重心を乗せ、小舟を大きく傾かせた。

「うわあッ!」

バランスを崩した丈二は、取手を持ったまま激しく水音を立てて黒い海に落下した。

プハッと水面から顔を出した丈二は、怒った顔で緒方に聞いた。

「な、何するんですか!」

ゆっくりと小舟は丈二から離れていった。

緒方は口元に片手を添え、大きな声で言った。

「取手の受け売りになってしまいますけど、ことのついでに言うておきます。此処は大鉄囲山だいてつちせんの西面にある、第一重海だいいちじゅうかいと言う名の『血の池地獄』なんやそうです」

丈二は黒い大海原をグルリと見渡した。

「これが……」

「この黒い海が『血の池地獄』?」

緒方は大きな声で話を続けた。

「血の池と言うても赤い血ィではのうて、サラサラで透明で綺麗な水ですから、何でここが『血の池地獄』と呼ばれているのかワシにはその理由が分かりまへ~ん。とにかく、ここは『血の池地獄』なんやそうですよ~」

緒方を乗せた小舟は、見る間に丈二から遠ざかっていった。

「呼び名なんてどうでもいい!」

丈二は遠ざかって行く小舟に向かい、激しい水音を立てながら泳いでいった。

「なぜ緒方さんが俺をここに置き去りにしょうとするのかが問題なんだ!」

やっとのことで小舟の横に辿り着いた丈二は、船縁をガシッと掴んで船上を見上げた。

船上に立っていた緒方が、険しい表情で丈二を見下していた。

「戻ってこんでもエエのに……」

丈二は怪訝顔で聞いた。

「一体、どうしたと言うのですか?」

険しかった表情から急に柔和にゅうわな顔になった緒方は、丈二を諭すようにして言った。

「刑事さん。ワシと一緒にいたら、ろくなことがおまへん」

「このまま極楽浄土へ一緒に行けたらよろしおますけど、ワシは八大地獄へ行く可能性がだいでおますねん」

「だからって、俺を置き去りにすることはないでしょう?」

「刑事さん……」

「何ですか? 刑事さん、刑事さんと、今度は……」

「あんたまだ、死んでまへんでぇ」

「はあ?」

「死んでいるからこそ自分は地獄ここにいるワケでしょう?」

「ま、そない言われたらそうでっけど、刑事さんがワシのように死装束やのうて、スーツ姿のままで地獄にいてるということが、刑事さんはまだ生きていることの何よりの証明になってるとは思いまへんか?」

「!」

「ワシの推理がおうてたら、刑事さんは生きてはおりまへんけど、死んでもいてないという中途半端な状態に置かれてるように思われます」

「そやさかいに、刑事さんは何としてでも行方がしれん彼女を捜しなはれ。そして、閻魔さんにも会いなはれ」

緒方は念を押すように、強く丈二に言い聞かせた。

「会うのを願うだけであきまへん。会うべき行動を起こすんです」

「これでお別れです!」

緒方は船縁を掴んでいた丈二の指を、勢いよくガツンと踏みつけた。

「アタッ!」

丈二は船縁から片手を放した。

緒方は残った丈二の片方の手の指も、同じようにして力強く踏みつけた。

「ほな、さいなら!」

ガツン!

「イッテ―――ッ!」

丈二が船縁から手を離すと、小舟は急速にスピードを増して丈二から離れていった。

小さくなっていく丈二を見ながら、緒方は笑顔で手を振った。

「刑事さ~ん! 必ず彼女を見つけ出して、閻魔さんに会って下さいよ~ッ!」

「奮闘努力を祈ってまっせ―ッ! 頑張ってやーッ!」

静寂な奈落の底で、自動で動く櫓のきしむ音だけが空しく響いた。

ギィ~~、ギィ~~。

丈二は去っていく小舟を追うこともなく、遠ざかる小舟を無言で見送っていた。

「‥‥‥‥‥・」

―――

「……というワケで、それが緒方さんとの最後のお別れでした」

快炎鬼はゆっくりと腰を上げて池の前の常香炉を見つめていると、手島も丈二に連られるように立ち上がって常香炉を見た。

「手島さんだったのですね? 大谷祖廟で緒方さんのお墓に線香を上げていた方は……」

「ええ……」

「成仏することが叶わずに奈落の底の海で彷徨い続けていた緒方さんは、手島さんが線香を上げてくれたお陰で灯かりに導かれ、小舟の軌道を何度も修正しながら死出の旅路たびの航海を今も続けられています」

「親父さんは極楽浄土に辿り着けることができるのでしょうか?」

「それを、二人で一緒にお祈りしましょうか」

「そうですね」

二人は白く美しく輝く霊山観音像に手を合わせ、緒方の航海の無事を祈った。

祈りを終えた手島は、常香炉の煙を見ながら丈二に言った。

「線香の煙が大きく右に左に揺らいでいます。親父さんは私との会話を求めているのでしょうかねぇ?」

「そうかもしれませんが、私は焼香してくれた人たちの身の安全と幸せを願っているか、お礼を言っているのだと思います」

手島は丈二に向かって深々と頭を下げた。

「刑事さんのお陰で線香の有意義を知ることが出来ました。ありがとうございました」「……で、刑事さんはこれから、どうされるのですか?」

「自分には現世で残されている時間が限られています。できる事ならそれ以後の私の話も聞いて頂きたいのですが、ここで失礼をします」

「分かりました。では、私もここで……」

二人は常香炉を間にして、右と左に別れていった。

―――

花屋の店先に立って生け花を見ていた手島が、困った顔で呟いた。

「……迷うなあ」

如雨露じょうろで花に水をやっていた女店員が、手島に気付いて声をかけた。

「彼女にプレゼントですか?」

「いいえ」

「仏前におそなえをしたいのですが、故人がどんな花が好きだったのかが思い出せなくて……」

「では、お客さまのお好きなお花をお選びになっては如何いかがでしょうか?」

「そうですね」

「じゃあ、これと、これと、これを下さい」

手島はバケツにけられた花々を、迷うこともなく次々と指した。

―――

6畳ほどの殺風景な和室の片隅に、経机きょうつくえ代わりの小さな机が置かれていて、手島が小さな仏壇の前で正座していた。

仏壇には戒名が書かれた位牌が奥にあり、手前に水の入った小さな白い椀と線香立て用の香炉などの仏具一式が置かれ、仏壇の向こう板には、白い割烹着かっぽうぎ姿の若い女性の遺影が小さな額縁に入って収められていた。

仏壇の両サイドには、手島が花屋で買った供花くげの花々がコンパクトにまとめられ、花立て用の瓶に可憐な花を咲かせていた。

正座している手島の膝の近くには、小さな写真入りの額縁が置いてあった。

手島は額縁を手に取って、若い女性の遺影と一緒に仏壇の奥に並べた。

女性と一緒に並べられた写真は、豪快に笑っている緒方の遺影だった。

手島はマッチ箱からマッチ棒を取り出し、マッチを擦って、蝋燭ろうそくに火をともした。

香炉に線香を一本立てた手島は、緒方の遺影を見つめながら語りかけた。

「……親父さん」

「今日からこの俺が毎日、道案内をさせて頂きます。線香の灯かりを頼りに極楽浄土へ旅立って下さい」

手島の語りかけに応えるようにして、線香の煙が揺らいだ。

手島は小さな棒でりんを叩いて、写真の中の女性に話しかけた。

「……よかったね」

「今日から話し相手が出来て……」

セピア色をした写真の中の女性が、僅かに微笑ほほえんだかのように見えた。

「……気の所為かな?」

手島は笑顔で写真の女性に言った。

「何だか今日は特別に嬉しそうに見えるけど……」

「あの時は、こんな笑顔じゃなかったよね?」

微笑んだ女性の遺影を見つめながら、手島は幼かった時のことを思い出した。

―――

当時10歳で毬栗いがぐり頭だった手島は、暮れなずむ空の下で母親の美香と一緒に、電柱に隠れるようにしながらたたずんでいた。

地味な服装は色褪いろあせているだけでなく、髪はほつれて頬の肉は落ち、見るからにやつれれて病弱そうに見える母親の美香は、手島をさとすようにして言った。

「聞こえてるの?」

手島は不貞腐れたような顔で、なま返事をした。

「聞こえてるよ」

美香は前方斜めに見えている鉄筋コンクリートで建造された3階建てのビルを指して言った。

「もしも母ちゃんに何かあったら、あのビルにいる緒方さんという人を訪ねるのよ。母ちゃんの名前と武志のとしさえ言えば、緒方さんはすべてをさっしてくれるからね」

「わかったから早く帰ろうよ。東京へ……」

―――

それから十数年の歳月が流れ、ビルの前に黒塗りの外車が横付けにされた。

黒服姿の数人の構成員たちに見送られながら、後部座席のドアに緒方が一人で乗り込んだ。

後部座席の緒方が、運転席の男に声をかけた。

「手島よ」

バックミラーに映る緒方を見ながら、手島が応えた。

「……何でしょうか?」

「お前も若頭わかがしらと言われるほどの男になったんやさかい、ええ加減に若いモンに運転を任せたらどないや?」

手島は笑って応えた。

「ダメですね」

「これだけは誰にゆずることもできませんね」

緒方は不思議に思って聞いた。

「……何でや?」

「そんなにエエもんでもないやろが?」

「習慣です」

「朝起きたら顔を洗うようなものですよ」

「何や。ワシはお前の洗面器かい?」

手島は苦笑した。

「古いですねぇ。洗面器だなんて……」

「洗面器を知っているお前も古いというこっちゃ。古いと言えばお前も相当の古株や」「ワシの車の運転をするようになって、何年になる?」

「そうですねえ」

「ナイトクラブで給仕のバイトをしていた時に親父さんに拾われた時からですから、かれこれ、20年近くになるのではないでしょうか?」

「そうかぁ。もうそないになるかぁ?」

緒方は腕組みをして流れる車の外の景色を見ながら、20年に初めて手島と出会った時のことを思い出していた。

―――

青年になった手島は高級ナイトクラブの給仕係として働き、その夜はトレーの上に空瓶やグラスなどを乗せて厨房へ戻ろうとしている途中の通路で、クラブの事務所から出てきた緒方とバッタリと出会った。

手島は大きな声で緒方に声をかけた。

「社長!」

「……何や?」

「俺をやとって下さい」

「何を言うとるんや? 藪から棒に……」

「お願いです。俺を雇って下さい」

「アカン」

「なぜですか?」

「お前、ワシを誰やと思てんねん?」

「ワシは社長、社長と言われとるけど、会社を経営しとるホンマモンの社長と違うんやぞ?」

「わかっています」

「ン?」

「ワシの正体を知っていながら、頼んでるのか?」

手島は緒方の顔をしっかりと見据えて答えた。

「はい」

緒方は舐めるようにして、頭から靴先まで手島を見た。

「……何かしらんけど、お前、ワケありのようやな?」

「よっしゃ、判った。理由は聞かんことにした」

「後でここの支配人に事情を言うたらええ。ワシの家の住所と地図を書いてくれるさかいに、いつでもエエから訪ねて来い」

手島は深々と頭を下げた。

「あ、ありがとうございます」

―――

後部座席の緒方は、窓の外の景色を見ながら感慨深げに言った。

「そうかぁ」

「……あれから、もう20年にもなるかぁ」

―――

仏前で正座していた手島が、写真の中の笑顔の女性に語りかけた。

「母ちゃん……」

「母ちゃんのことを、演歌のようなイイ女性だってよ?」

「謙虚でいて、何事にもよく気が付いて、献身的であって、勿体ないほどのイイ女性だってよォ」

手島は緒方の写真にも語りかけた。

「親父さん……」

「俺、今でも納得できないですよ」

「そんなにイイ女を断腸の思いで捨てるのでしたら、親父さんもイイ男として母ちゃんの幸せを陰ながら見守り、見届けてから、捨ててやって下さいよ」

「俺の存在を知らなかった、親父さんも……」

「俺のことが言えずに捨てられた、母ちゃんも……」

手島の頬を一筋ひとすじの涙が伝った。

「二人とも、相手を思い遣り過ぎの大バカヤローですよ」

線香の煙が手島に語りかけるようにして、大きく揺らいだ。

小さな仏壇を置いている経机きょうつくえにそっと片手を置いて下を向き、大粒の涙で畳を濡らしながら、手島は掻き消えるような声で呟いた。

「父ちゃん……」

顔を上げ、手島は緒方の写真に向かって叫んだ。

「父ちゃーん!」


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