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快炎鬼  作者: 吉田四郎
18/50

十八の炎

十八の炎

深い霧の中で薄ボンヤリとだが灰色の物体が見えてきた。

丈二は目を擦り、改めて目を凝らして見つめたのだが、その正体が何なのかは判らなかった。

「何だろな? あれは……」

灰色の物体の色は、次第に濃さを増して黒みを帯び、音も大きく立てながら丈二の方に近づいてきた。

ギィ~~ッ! ギ、ギィ~~ッ! 

「イヤな音だ」

近づいてくる物体の輪郭がなんとなく見えてきたのだが、謎の物体の正体をまだ知ることができなかった。

黒い海の上に浮かんで丸っぽく見えている物体に、丈二は小首を傾げた。

「何だか、流木が近づいているようにも見えるけど?……」

霧の中から現れた物体は流木ではなく小舟だった。

驚いた丈二は思わず声を上げた。

「ふ、舟だッ!」

丈二に近づく小舟の上には、ぐ船頭の姿は無く、櫓は自動で左右に動いて水を掻きながら、前に進んでいるようだった。

丈二は小舟の中央に座っている人影に気付いた。

「……誰か乗ってる?」

人を乗せている小舟は、丈二を避けるかのようにして前方で緩やかに方向を変え、櫓の音とともに丈二から遠ざかろうとした。

ギィ、ギィ~~ッ!

丈二は青ざめた。

「おい、待てよ!」

「俺をここに残す気か?」

小舟は丈二から完全に遠のいていった。

「じょ、冗談じゃねーッ!」

胸元近くまで浮いている状態の丈二の泳ぎはままならず、立ち泳ぎで水を掻き分けるようにしながら、遠ざかっていく小舟の後を追った。

「待てーッ!」

「待ってくれ―――ッ!」

ギイコ、ギイコと左右に動いて、水を掻き分けながら前進していた櫓の動きが、丈二の叫び声でピタリと止まった。

バシャバシャと派手な水音を立てながら、丈二は慌てて小舟に近づいた。

小舟の長さは8㍍ほどで舟幅ふなはばは狭かった。

小舟の真横に辿り着いた丈二は、両手で船縁をガシッと掴み取った。

濃霧の中で背を向けて小舟に乗っていた人物の手が、丈二の目の前にスッと差し伸べられた。

「ようこそ。地獄へ……」

船上を見上げた丈二は驚きの声を上げた。

「あッ!」

ニッコリと笑って丈二に手を差し伸べた声のぬしは、恰幅のいい中年男でひたいに白い三角頭巾さんかくずきんを括り付け、白い着物を左前にして身に付けた死装束しにしょうぞく姿の緒方幸蔵であった。

丈二は呆然とした顔で緒方を見上げた。

「お、緒方さん……」

「久し振りでんなあ。刑事さん……」

「こうやって久々にお会いできるのも、三年前に銃刀法違反容疑で取り調べを受けた、あの時以来でんなあ」

「六道会の組長が、なぜこの舟に?……」

「刑事さんこそ、なんでこんなところにいてまんねん?」

どこから話していいのか判らなかった丈二は、躊躇いながら緒方に答えた。

「いろいろと事情がありまして……」

「それよりも、何ですか? 緒方さんのその恰好は……」

緒方は白い死装束の着物の両袖りょうそでを掴んで、パッと広げて見せた。

「見ての通り、死装束ですわ」

「……お元気そうでしたのに、脳梗塞か心筋梗塞などによる突然死ですか?」

「ちゃいま」

緒方は指鉄砲を作って、丈二の額にピタリと突き付けた。

「これですわ」

緒方の口鉄砲くちてっぽうが炸裂した。

「パーン!」

られた~~ッ!」

丈二は掴んでいた船縁から手を離し、背面ジャンプのように身を反らせながら勢いよく後方に吹っ飛び、大きな水飛沫みずしぶきを上げた。

丈二は舟に戻りながら、笑顔で緒方に言った。

「何をやらせるのですか?」

死装束の緒方は戻ってくる丈二を、笑顔で迎えた。

「やっぱ刑事さんも関西人でんな?」

「ここは地獄やと言うのに、ええノリしてくれまんな?」

小舟に泳ぎ着き、丈二は再度、船縁を掴んで緒方を見上げた。

「バカなマネをさせないで下さいよ」

「えらいすんまへん」

「まさか京都府警の刑事さんが、そこまでノッてくるとは、思わなかったもので……」「自分でも驚いています」

「限りなく続いていた退屈からやっと抜け出すことができて、すっかりテンションが上がってしまったからなのかもしれません。そんなことよりも、緒方さんは誰に撃たれて亡くなったのですか?」

「ウチの若い衆ですわ」

「えッ?」

緒方は再び丈二に手を差し伸べた。

「詳しい話は後回しですわ。兎に角、先に舟に乗ンなはれ」

緒方は丈二の手を取り、引きずり上げるようにして舟に乗せた。

―――

これまでホワイトアウト化していた霧が次第に薄れて視界が良くなり、暗い空と黒い海の全容が判るほどまでになっていた。

一艘の古びた木造の小舟が、波の穏やかな黒い海で漂うこともなく停止した状態で浮いていて、船首となるへさき側には丈二、そして船尾となるともには死装束の緒方が向かい合って座っていた。

「緒方さんには色々と伺いたいのですが、その前に一つだけ教えて下さい」

「なんでっか?」

「長い髪を後ろで一つにたばねた若い女性を見かけなかったでしょうか?」

「若い女性どころか地獄で出会ったんは、刑事さんが初めての人間ですわ」

丈二は肩の力を落としガックリとうなだれて落胆した。僅かに残されていた望みが緒方の一言でズバリと斬り落とされてしまったからだ。

「……やはりそうでしたか」

丈二は船縁に片手を置いて、四方の暗い空と黒い海をゆっくりと見渡した。

『一体どこへ行ったんだ。真央は?……』

緒方は小指を一本立てて、丈二に聞いた。

「……刑事さんもコレが原因で命を落とす破目になったんでっか?」

丈二は間髪入れず、逆に聞き返した。

「……ってことは、緒方さんも女性が原因で組員に射殺されたってことになりますよね?」

「そうでんねん」

「ちなみに、それはいつの日のことですか?」

「日にちは忘れましたけど、朝から鳥が異常に騒いでいた日のことですわ」

「殺された日は忘れているのに、鳥が騒いだ日のことは覚えているのですか?」

「ワシは勤め人でないさかいに、大事な日ィ以外は曜日とか日にちはあんまり重要視してまへんのですわ」

丈二は小首を捻りながら、事件当日を思い出していた。

『確か、マンションでの殺人事件があった当日の朝も、異常に鳥が騒いでいたような気がしたが……』

丈二は刑事部屋に入った指令センターからの音声を思い出した。

『左京区下鴨4丁目、鴨川フォレストマンション地下駐車場において殺人事件発生!』所作をピタリと止め、丈二たちは次の指令に聞き耳を立てた。

『住人1名を射殺した犯人は通行中の車を強奪し、現在も拳銃を所持したまま逃走中。急行せよ!』

丈二は単刀直入に聞いた。

「緒方さんが射殺された現場は、左京区のマンションの地下駐車場ですか?」

緒方は目を丸めて驚いた。

「流石は刑事さん。何でもよう知ってはりまんなあ?」

「ズバリ言うてそこですわ。ワシが殺された場所は……」

丈二は一瞬、言葉を失った。

「!」

これは何という因縁なのか。それとも運命と言う名の糸で操られた出来事なのか。あるいは運命という名の悪戯なのか。緒方との出会いが、奇遇や偶然ではなく因縁や宿命だと仮定すれば、同じ日の同じ時刻に魔餓鬼によって地獄の穴に投げ込まれた真央は必ずこの近くにいるに違いない。自分が当てどなく奈落の底を彷徨い続けていたように、きっと真央も途方に暮れながら徘徊しているに違いない。そう思った丈二はいたたまれずに、パッと舟底に両手を付いて緒方に頼み込んだ。

「緒方さん!」

丈二の突然の行動に緒方は驚かされた。

「ど、どないしはったんでっか?」

「刑事さんが極道者なんかに頭を下げて……」

「お願いがあります。協力して頂けないでしょうか?」

「ワシに出来ることやったら何でもやりますよってに、遠慮なく言うて下さい」

「実は俺と一緒に地獄に落ちた女性がいるのですが、その女性の行方が判りません。この舟で一緒にその女性を捜して貰えないでしょうか?」

緒方は丈二の依頼をすげなく断った。

「それは無理な注文というヤツですわ」

「えッ?」

「なぜ無理なのですか?」

「ワシは櫓を漕ぐことができしまへんのですわ」

丈二の顔がパッとほころび、弾むようにして言った。

「櫓だったら漕げます!」

「俺、まわりは海ばかりの淡路島で育ちましたから……」

緒方は困惑顔で丈二に言った。

「淡路だろうが佐渡だろうが関係おまへん」

「なぜですか?」

「刑事さんが櫓を漕ぐことができたとしても、この舟の櫓は単なるかざりみたいなモンで、全自動のオートマチックで動いているのですわ」

「ぜ、全自動?」

「……この舟が?」

「そうです」

「見ての通り、この舟には船頭さんがいてまへんでっしゃろ?」

丈二は改めて舟を見渡し、船頭がいないことに気付いた。

「そやさかいに、ワシにはどうすることもできしませんのですわ」

「では、いつ動くのですか? この舟は……」

「判りまへん」

「昔の歌の文句やないですけど『舟は櫓まかせ、櫓は親まかせ』のオートマ任せですよってに、いつ動いてくれるんか判らんのですわ」

丈二は大きく落胆した。

「そんな……」

とその時、櫓が勝手に動き出した。

ギィ、ギギギィ―――ッ!

へさきにいた丈二が、大きな声でともを指差した。

「う、動きました!」

緒方は振り返って、ゆっくりと左右に動く櫓を見た。

「何かしらんけど、ワシらの話を聞いてたように動き出しましたな?」

「どこに向かおうとしているのですか? この舟は……」

「それも判らんのですわ」

「な、なんだって?」

「ワシは極楽浄土へ連れて行って欲しいんです。そやけど、現世では悪行三昧あくぎょうざんまい阿漕あこぎな生活を送ってましたんで、見てお分かりのようにしまいには命を落とす結果になってしまいました。そやさかいに、八大地獄の中の一つへ連れて行かれるんやないかと覚悟しとります」

「……八大地獄ですか?」

袖振そでふり合うも他生たしょうえんと言います」

緒方は丈二を誘った。

「一緒に行きまへんか? 八大地獄へ……」

丈二は即答した。

「遠慮させてもらいます」

「それよりも、緒方さんが殺された原因は何だったのですか?」

緒方は自虐的じぎゃくてきな笑いを浮かべながら言った。

「ウチの組の若いモンの女に手を付けてしもたんですわ」

「!」

丈二は何も言わず、唖然とした顔で緒方を見た。

「笑ろてやって下さい。今頃になってメッチャ後悔しとりますわ。あの時に忠告された言葉を素直に聞いとけばよかったのに……と」

「……いたのですか?」

「組長の緒方さんに忠告するような人物なんて?……」

「そりゃあ、こんなワシでもいてまんがな」

「一人だけ、でしたけど……」

遥か遠くを見るような表情で、現世での出来事を思い出しながら緒方は話した。

―――

京都の東寺から大阪を経由せずに西宮神社に至るまでの脇街道を一般的に「西国街道」と呼ばれているが、東寺の五重塔が見える国道171号線の西国街道を、一台の黒塗りの外車が九条通りに向かって東に走っていた。

広い後部座席には緒方が独りで乗っていた。

ハンドルを握っている若頭の手島が、バックミラーに映る緒方を見ながら言った。

「親父さんに折り入って話したいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

窓の外の流れる景色を見ていた緒方が、前方に向きを変えて手島に聞いた。

「何やねん。急に改まって?……」

「少しばかり言い難いことなのですが……」

「かまへん、かまへん。何でも言うたらええがな」

「実は渋沢圭子のことです」

「どないかしたんか。圭子が?……」

「自分は早く手を切った方がいいと思っています」

「何でや?」

「渋沢圭子は矢沢の情婦スケだったようです」

「知っとる」

「えッ?」

「親父さんは知っていながら、手を出したのですか?」

「そんな道の外れたことはせぇへん。知らんかったからこそ手を出したンや」

緒方は再び窓の外の景色に目をやりながら、圭子を知った経緯を話し出した。

「ワシが圭子を初めて見たんは、祇園で飲んでる時やった」

―――

紫煙に包まれた高級クラブの店内は繁盛して満席に近い状態で、奥のVIP席では、緒方たちと数人の男たちが両サイドにホステスをはべらせながら大きな笑い声を上げ、上機嫌でブランデーグラスを傾けていた。

隣に座った渋沢圭子に緒方が声をかけた。

「初めて見る顔やな」

「アケミです。よろしくお願いします」

「別嬪さんやのう」

「おおきに」

「それだけの器量やったら、男は黙って放っとかんやろ?」

「いてないですよ。誰も……」

「そうか。今は空き家か?」

緒方は圭子の肩をグイと引き寄せ、耳元で囁いた。

「……どや?」

「今の話がホンマやったら、ワシの女にならへんか?」

「えッ?」

「思いっきり贅沢ぜいたくさせたる」

「時計やバッグや車だけとちゃう。マンションもうたる」

圭子は緒方の腕を掴んで、媚びを売るようにして見つめた。

「嬉しいわぁ。それ、ホントですかぁ?」

「ホンマや。ウソや無い」

圭子は内心ほくそ笑んだ。

『ウチはお金が大好き人間や』

『この人の世話になってもエエのはお金だけやない。この人と一緒やったらチンピラの矢沢は二度とウチには近づいて来られへんはずや』

『何というてもこの人は、六道会の組長さんなんやから……』

―――

カーテン越しに朝の日射しが差す寝室で、全裸の圭子がベッドからすり抜けるようにして起き上がり、笑顔で振り返って緒方に言った。

「ウチの名前はアケミやないの」

頭の後ろで両手を組んで大きな枕に背もたれ、緒方は着替える圭子を見ながら言った。

「知っとる」

「誰もが源氏名や。本名で出ている子は一人もおらん」

「ウチの本名は……渋沢圭子」

「神戸の元町から京都の祇園に流れてきたわけは、元カレがお金を無心するようになってきたからやけど、まさか、この京都のどこかの組の構成員だったとは思わなかったわ」

「何で判ったんや? その男が京都の組員やと……」

「前に勤めていたお店の子がラインで教えてくれたの」

「別れてよかったわね。彼は京都のチンピラヤクザだったのよ。……って」

「何や? 名前は……」

すっかり着替えた圭子は元カレの名前を言った。

「矢沢慎二郎よ」

「!」

一瞬、緒方の顔色が変わった。

「直ぐにキレるアブないヤツだから、覚えてといて下さいね」

―――

窓の外の流れる景色を見ながら、緒方は手島に言った。

「同姓同名の組員がそうそう京都にいてるもんや無い。念のために調べてみたら、元カレちゅうのは、ウチの矢沢やった」

「それを判っていながら、なぜあの女を囲ったのですか?」

緒方はバックミラーに映る手島の顔を見ながら言った。

「……手島よ」

手島はバックミラーを見ながら応えた。

「……何でしょうか?」

いていくのはつらいものなんや」

手島は無言で聞いていた。

「若い時のワシやったら、あんな尻の軽い薄っぺらな女はポイと捨てられたけど、今は簡単には捨てられんのや。年齢としがワシをそうさせているのかもしれんなぁ?」「……ってことは若い時は生ゴミでも捨てるように、女を次々と捨てていったってコトですか?」

「いや、全部の女がそうやない」

「中には捨て難いエエ女もおった」

「どんな女性だったのか知りませんが、でも、結局は捨ててしまったのですよね?」「結果的にはそうやけど、実を言うとワシの方から身を引いたんや」

「えッ?」

「その女は演歌の中で生きているような女やった」

手島は意味が判らずに聞き直した。

「……エンカですか?」

「昔『浪花節だよ人生は』という歌があったけど、あいつは昭和の浪花節的な性格でホンマにエエ女やった」

緒方は懐かし気に当時を思い浮かべ、そしてしみじみと語った。

「謙虚であって、それでもって何事にもよう気がついて、献身的であって、ワシには勿体ないほどのエエ女やった」

不思議に思った手島は、逆ギレされないようにソフトな口調で聞いた。

「それほどのいい女を……」

「……なぜ女房にしなかったのですか?」

「お前も知っての通り、ワシは相手によって対応の仕方が全然違う。相手が極道者であろうが堅気の人間であろうが、綺麗な付き合いをする人間には綺麗な付き合い方をするし、ばい返しまでとは言わんでも、汚い人間には汚いやり方でやり返したるのがワシなりの流儀なんや」

「そやからワシをエエように言う人間は、誰からも好かれる綺麗な心の持ち主やし、逆にワシを悪う言う人間は、大方おおかたにして世間様からも嫌われとる小汚い考えを持った人間が多い。ワシはそんな生き方をしているから敵も多い」

「ワシはがらにもなくその女の幸せを願うようになった。エエ女はワシのような極道の女房になったらアカン。ワシと一緒におったら不幸だけがその先に待ってるだけなんやから……」

「親父さんの話を聞いていると、いまいち、説得力にけるような気がします」「なんでや?」

「どれだけいい女性だったのかは私には判りませんが、古き良き時代に生きる演歌の中のいい女性だったという理由だけで、自ら身を引くものでしょうか?」

緒方は内心で少し驚いた。平素は従僕じゅうぼくで黙って話を聞いているか、相づちを打つ程度だけの手島が初めて反抗的な口ぶりで言ってきたからだ。

「よっしゃ、わかった。お前がそんだけ言うのやったらワシも言わせて貰う」

「例え話になるけど、ゴミの一つも落ちてない綺麗な道があったとしよう。一寸ちょっとくらいの綺麗なだけの道やったら、逆にゴミの一つも落として汚してやろうと思うし、唾の一つも吐いてるかも知れん?」

「そやけどや。余りにも綺麗すぎる道に出おうたら、落ちてるゴミを拾ってポケットの中に仕舞い込み、この綺麗な道を維持してやろうと思うのが人情と言うもんと違うか?」

「ワシの例え話がおうてるかちごてるかしらんけど、そういう心境にさせられてしまうほどのエエ女やったということや」

手島は緒方の言い分を黙って聞いていた。

「‥‥‥‥‥」

「世の中にはエエ男は星の数ほどにイッパイいてる。 そやさかいにエエ女はエエ男を見つけて幸せにならんとアカン。これがワシのモットーで信条やと思てくれ」

「幸せになったのですか? その女性は……」

「少なくともワシと一緒にいてるよりは幸せになってるハズや」

「ワシをそんな気にさせたんは、後にも先にもその女一人だけなんやさかいに、絶対に幸せになってもらわんとアカンのや」

「そやないと涙を飲んで別れた甲斐がないというもんや」

「果たして幸せだったのでしょうか?」

「その女性にとって そんな一方的な別れ方が……」

「幸せになっとるのに決まっとるがな」

「ワシは今でも、そう信じとる」

「だったら私の話も信じて、今の女性とは早く別れた方がいいと思います。でないと、いつかは……」

「心配せんでもええ」

窓の外の流れる景色を見ながら、緒方は呟いた。

「遅かれ早かれ、あの女はワシからも逃げて行きよる」

「そういう女なんや。あの女は……」

―――

語り終えた緒方の表情は意外と明るかった。

「……というワケで、女が逃げる前にワシは矢沢に殺されました」

「因果応報、自業自得とはこのことでんな。後悔先に立たずとはよう言うたもんで、今は奈落の底の海を航海させられてますわ」  

丈二は仏頂面ぶっちょうづらで緒方に答えた。

「あまり面白くもない駄洒落だじゃれですね」

「そうでっかぁ?」

「ワシは結構イケてるおもろい、『おっさんギャグ』やと思いましたけどねぇ?」

とその時、櫓が突然、耳障りなきしおんを出した。

ギギィ、ギギィ―――ッ!

舟は片方に大きく傾きながらカーブを描くようにして急に方向を変えた。

予期せぬ舟の動きで振り落とされそうになった丈二は、咄嗟に船縁を掴み、身を低く屈めながら不安げな顔で暗い空と黒い海を見渡して叫んだ。

「な、何事だ?」

「何が起きたんだーッ!」


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