十七の炎
十七の炎
東本願寺の大谷祖廟には、約一万基もの墓が東山連峰の西側に立ち並んでいて、山の斜面から京都の市街地を遥か前方に眺望することが出来、彼岸の期間中には約4万人がお墓参りに訪れるという壮大なスケールのマンモス墓地であった。
急峻な石段の中腹に設置されている墓石を、快炎鬼が朝早くから一人で清掃に励んでいた。
墓石に深く刻まれている文字に歯ブラシを差し込み丁寧に磨き込んでいるが、墓石の文字は氷室家ではなくて「緒方家代々之墓」だった。
墓石に水を掛けて洗浄している快炎鬼の近くを、何組かの家族連れが掃除セットを持って通り過ぎていった。
乾いたタオルで水を拭き取り、対の花立てに真新しい花を供え、柄杓でポリバケツの水を花と墓石に掛けると、快炎鬼は近くに置いていた線香の束を右手に持ち、左手の親指だけを内側に曲げた。
曲げた指を元に戻すと手の平が焼けていて真っ赤になり、線香の束先を当てると一瞬にして火が点き、マッチ棒が燃えるように炎を上げて燃えた。
燃える束先を快炎鬼が左手で握ると、指の隙間から煙が漏れるようにして流れ出た。快炎鬼は線香立てに線香を立て、風に揺らぐ煙を前にして合掌した。
合掌を終えた快炎鬼は、しみじみとした表情で墓石に語りかけた。
「……緒方さん」
「目指す極楽浄土に着きましたか?」
「それとも俺と出会った時のように、あなたはまだ奈落の底で彷徨い続けながら『死出の旅路』を続けているのですか?」
快炎鬼の背後で声がした。
「どういう意味なのでしょうか? 今の言葉は……」
快炎鬼は振り返って、声の主を見た。
短髪で精悍な顔立ちの男の背は高く、手には手向けの花を持って立っていた。快炎鬼は男に尋ねた。
「……緒方さんのお身内の方でしょうか?」
「いいえ」
「私は手島武志と申しまして、小さな組織ではありましたが、緒方の親父さんが束ねていた六道会の若頭役を務めさせて頂いた者です。今では組も解散して、小さな町工場で働いております。今日は親父さんの月命日なもので墓参りに来たのですが、親父さんからは親族は一人もいないと聞いております」
「失礼ですが、どちらさんでしょうか?」
―――
大谷祖廟の総門は桧皮葺、切妻造り、軒唐破風付の四脚門(二条城の二の丸御殿の正門と同じ造りの門)になっていて、墓参りを終えた手島と快炎鬼の二人は総門を通り抜けた。
総門の前の緩やかな石階段を下りて行くと、参道の道幅は20㍍ほどの広い石畳になっていて、人込みを整理するためのパイプの手摺りが参道を三つに区切って仕切られていた。
参道には人通りが無く静寂で、手島と快炎鬼は会話を続けながら石畳の参道を進んでいった。
快炎鬼の話しを聞いていた手島の足がピタリと止まった。
手島は仰天した顔で快炎鬼に聞いた。
「な、なんですって?」
快炎鬼は言った。
「同じ日だったのです」
「組長の緒方さんが射殺された日と、俺が地獄の穴に飛び込んだ日が……」
快炎鬼は自嘲しながら手島に言った。
「信じられないでしょうね?」
「余りにも荒唐無稽な話ですから……」
手島は真剣な表情で応えた。
「信じますよ」
逆に快炎鬼の方が、信じられないといった表情で手島に聞いた。
「えッ?」
「信じてくれるのですか?」
手島は快炎鬼の話を心の底から信じ切っていた。
「極道者でまったく身寄りの無かった親父さんの墓に、わざわざ足を運んでくれた刑事さんのお話です。疑うなんてことはできません」
「奈落の底での親父さんのことを少しでも知っておきたいのです。よろしければ詳しく教えて頂けないでしょうか?」
「詳しく説明するためには、緒方さんが射殺された日の珍皇寺の境内での出来事から話さなければなりません」
―――
参道脇の石に手島と一緒に腰を下ろした快炎鬼は、遠くの空を見つめながら当時を思い出すようにして話し出した。
「珍皇寺の境内に、突然、地獄に通じる穴が出現したのです」
「その穴から出てきた魔餓鬼と言う名のバケモノに彼女は投げ込まれ、私はボコボコに叩きのめされグロッキーになって、立ち上がることすらできませんでした」
「その時に、同じ穴から出てきた魔犬が魔餓鬼に聞いたのです『地蔵菩薩に化身する情け深い閻魔大王が、二人をこの世へ送り返すかも知れない』と……」
「朧気ながらそれを聞いた私は、後先を考えることも無く、彼女を助けたい一心で地獄の穴に飛び込んだと言うワケです」
快炎鬼は立ち上がって、手島に問うた。
「信じられないでしょうねぇ?」
手島はスッと立ち上がり、笑顔で快炎鬼に答えた。
「いいじゃないですか。それで……」
「後先考えずに行動するってことは、裏を返せば損得を考えず、目的に向かって一途に突き進むってことなのですから……」
「他人さまはそこを刑事さんの短所だと指摘するかもしれませんが、私はマネの出来ない長所だと思います」
数歩前に出た快炎鬼は、振り返って手島に聞いた。
「緒方さんのことを知って頂くために、手島さんと一緒に行きたいところがあります。ご同行願えるでしょうか?」
手島は苦笑しながら答えた。
「刑事さんにご同行願えますかと聞かれれば、余り気分のいいものではありませんが……」
「分かりました。私をどこにでも連行して下さい」
―――
大谷祖廟の参道を通り抜け「維新の坂」を上って行くと、別名を「ねねの寺」として知られている高台寺が在り、高台寺は亡き夫である豊臣秀吉の菩提を弔うために、ねね(北政所)が創建したことに由来していて、関ヶ原の戦いの後に天下を取った徳川家康が、ねねの持つ影響力に配慮し、財政的な援助を行い慶長十一年(1606)に完成したお寺である。
高台寺の隣には、緑豊かな東山連峰を背景にして、高さ24㍍、重さ500㌧の鉄筋コンクリート造りだが、眉目麗しくして白く光り輝いている白亜の霊山観音像が祀られていた。
境内の中央には巨大な常香炉が設置されていた。
普通の線香の十倍くらいはあろうかと思われるほどの太くて長い線香を持って、二人は常香炉に近づいていった。
線香の火は買った時に点けられていて、快炎鬼は常香炉に線香を一本立てながら手島に言った。
「本来は身を清めるために煙を身体に浴びたそうですが、現在では無病息災や願掛けの他に、自分の身体の悪い箇所に煙を浴びると良くなると言われています」
「……でしたら、私は全身ですね?」
手島は快炎鬼と同様にして太い線香を立てると、大きく揺らいでいる線香の煙を手で招き入れ、全身を煙に包まれようとしながら言った。
「頭だけでなく、顔も性格も悪いですから……」
「だったら、私と同じです」
手島は笑顔で快炎鬼に言った。
「刑事さん。言わないで下さいよ。心にも無いことを……」
快炎鬼は笑った。
「アハハハ・・・。それはお互いさまじゃないですか」
常香炉から離れた二人は、観音像に近づいた。
白く美しく輝く観音像を見上げた手島は魅せられてしまった。
「綺麗な観音さまだ」
「こうして優しく笑みを浮かべている観音さまのお姿を見ると、傷つき汚れた自分の人生を癒してくれるような気がしてきます」
手島と一緒に観音像を見上げながら、快炎鬼は言った。
「この霊山観音像の内部には、大日如来と観音さまが祀られていて、『胎内巡り』と言って参拝客も内部に入ることができるそうです」
手島は怪訝な顔で聞いた。
「……まさか?」
「その『胎内巡り』がしたくて、ここへやって来たワケではないでしょうね?」
「そうではありません。ここに来た目的は線香です」
手島は怪訝な顔で聞き返した。
「……線香?」
「この観音さまでは無くて、線香だと言うのですか?」
「そうです」
「私は地獄に落ちて奈落の底で緒方さんと知り合い、そして、初めて線香の大切さというものを知ったのです」
「先ほども言いましたが、線香は無病息災の願掛けや身体の悪い箇所を良くして貰うためだけに上げるのでは無く、ほかにももっと重要な意味があるってことをあなたに知って欲しくてここへ来たというワケです」
手島は改まった顔で快炎鬼に言った。
「刑事さん」
「はい」
「刑事さんが自分に伝えたかったのは線香だったことは判りましたが、極道者だった親父さんと線香がどうやって結びつくのか皆目見当がつきません。もしよろしければ、刑事さんが彼女の後を追って地獄の穴に飛び込んだところからお話して頂けないでしょうか。大変に失礼だとは思いますが、地獄というものに少しばかり興味があったものですので……」
「分かりました」
「奈落の底で緒方さんと出会った時からと思っていたのですが、あなたがその方がいいと言うのであれば、順を追ってお話することにしましょう」
―――
木陰の下のベンチで手島と快炎鬼の二人が一緒に並んで座っていた。
二人の前には「鏡池」と呼ばれる池があって、これは観音像をより美しく水面に反映させるために造られた池で、一見して横向きの長方形のようにも見えるのだが四方の角が変形していて、池の底は浅く周囲を平たい石で囲まれた池だった。白亜の観音像は正面の鏡池の水面に綺麗に反映されていたが、時折り吹き抜けて行く夏の名残りの微風によって揺らいでいた。
快炎鬼は氷室丈二だった当時のことを思い出しながら話し始めたが、その表情は暗く重苦しいものだった。
「後に閻魔さんから聞かされて知ったのですが、私が飛び込んだ穴は「暗穴道」と呼ばれる地獄に通じる穴でした」
霊山観音像を見ながら手島は無言で快炎鬼の話を聞いていた。無言で聞かざるを得なかったと言ってもいいだろう。思い出したくもない苦々しい出来事を、自分のために思い出しながら話してくれているのだ。重く沈んだ声のトーンで呟くようにして話す快炎鬼に対して、手島は何も言えなかったのだ。
―――
丈二が飛び込んだ暗穴道は漆黒に包まれた闇だった。
ブラックアウト現象化してしまっている漆黒の闇の中を、丈二は錐もみ状態になりながら絶叫とともに落下していった。落下するのにどれだけの時間を費やしたのだろうか。それは数秒間の出来事だったのかもしれないが、底知れぬ恐怖の中で落下を続けていた丈二にとっては途轍も無く長い時間の中を落下していったように感じられた。
漆黒の闇に目が次第に慣れてきたからだと思う。絶叫しながら落下していた丈二が下を見ると、暗穴道の底は全面が真っ黒に舗装された壮大なスケールのグランドが広がっているように見えた。
仰天した丈二は手足を激しくバタつかせ、必死になって空気に抵抗したのだが、空しい絶叫とともに、黒い地面に向かって凄まじい勢いで足から激突するようにして突っ込んでいった。
強烈な衝撃音がした。「ズッバーン!」と水面を切り裂く轟音とともに、黒い水面から数㍍ほどの高さの白くて太い水柱が勢いよく噴き上がった。
丈二が落下したのは黒くて壮大なグランドの地面では無くて、黒い色の海だった。全面がコールタールできたような黒い海は、波一つ無く穏やかで静かな海だった。
ほどなくして丈二は水面に「プハッ!」と勢いよく顔を上げた。
救命道具を身に付けた訳でもないのに丈二の身は軽く、塩湖に浸かったように胸元から下が水の中だった。
丈二は慌てて周囲を見渡した。
「海だったのか。奈落の底は……」
丈二が落下した海は、遥か遠くに見えている地平線だけが空と海との境界線だと判別出来る程度のモノトーンの世界になっていた。しかし、何もかもが暗闇に包まれ見えないワケではなかった。手や腕を見ると昼間に物を見るように色彩が鮮明で、違和感を覚えることは全くなかった。丈二が直ぐに異変を感じ取ったのは、片手で掬い上げた水だった。
黒い色をした海水と思っていた水は透明だった。水で濡れているハズの身体と服は濡れてなく、ドライクリーニングに使用される油性の有機洗剤のようにサラリとした乾いた感じの不思議な水だった。
「何だァ。この水は?……」
「不思議なのは水だけじゃない。凄い浮力だ」
「それだけ塩分濃度が高いってことなのか?」
丈二は不思議な水にそれほど感心を示さず、直ぐに真央の行方を捜してキョロついた。
「塩分濃度なんてどうだっていい。どこだ。真央は?……」
いくら黒い海を見渡しても真央の姿はどこにも無かった。
「なぜ真央はいないんだ。同じ穴に飛び込んだのに?……」
丈二は大声で真央の名前を呼んだ。
「真央―――ッ!」
「返事をしてくれ。真央―――ッ!」
丈二はスマホを取り出して、真央を呼び出した。
送信した電波は受信されずに、呼び出し音だけがいつまでも空しく流れ続けているだけだった。
ホーム画面を見ると「圏外」の表示が示されていた。
「これはトランシーバーじゃないんだ。携帯同士で通話できないってことになぜ直ぐに気付かなかったんだ?」
丈二は苦笑した。
「ったく、相変わらずバカだよなぁ。この俺は……」
「電波の届く中継地点なんて、この地獄にあるハズが無いって……」
丈二はグルリと一回転して、もう一度周囲を見渡した。
「……ここにいるのは、俺一人だけってことか?」
丈二は少しずつ身体を動かし、四方に向かって叫んだ。
「誰か出てこい! 返事をしろーッ!」
「閻魔はどこだ!」
「三途の川はどこだーッ!」
丈二の叫び声が途絶えると、黒い海は再び元の無音の世界に戻った。
言いしれぬ不安と焦燥感に襲われた丈二は、拳を振り上げ、物凄い形相で絶叫しながら、いつまでも水面を叩き続けていたのだった。
「こんな静けさはイヤだーッ!」
「何でもいいから起きてくれ―ッ!」
「狂っちまいそうだ! このままじゃーッ!」
―――
黒い海の上で大の字となってプカリと浮かび、丈二は黒い空を見つめながら呟いた。「腕時計の針が止まったままだ。仕方がないよな、電池不要のソーラーだから……」「……針が止まってあれから何日?」
「いや、何十日経ったのだろう?」
「水面を叩いて叫んでは、空しくなってきて、静かになり……」
「静かになれば不安になって、また水面を叩いて喚く……」
「いつまで続くんだ。このワンパターンの状況は?……」
―――
ひっそりと静まり、返り物音一つしない幽寂な黒い海の表面を伝うようにして薄く白い霧が、大の字で寝ている丈二に近づき、ゆっくりと全身を包み込んでいった。
初めて訪れた異変に気付き、丈二はガバッと身を起こした。
周囲を見渡すと、いつの間にか霧の中にいた。
「な、なんだよ?」
「この霧は……」
異変が起こったのは霧だけではなかった。霧の中から聞き慣れない音が微かに流れてきた。
「何かが聞こえたような気がしたのだが?……」
霧の中から聞こえてきた音に、丈二は耳を欹てた。
「……気の所為だったのかな?」
気の所為ではなかった。霧の中から微かに何かが軋んだ音がした。
ギィ~~ッ!
霧の中の音は次第に大きくなって、やがて丈二はハッキリと音を聞き取った。
ギ、ギィ~~ッ!
「な、何だろ。この音は?……」
奇怪な音とともに、白い霧の中から薄ぼんやりと、黒っぽい物体が丈二に近づいてくるのが見えた。
「近づいている」
「間違いなく、この俺に向かって……」
ギギ、ギィ~~ッ!
丈二の頬が僅かに緩んだ。退屈という名の苦痛と付き合わされていた丈二は、近づいてくる得体の知れない謎の物体に恐怖感を覚えることは無く、むしろ心待ちにしていたような表情を浮かべたのだった。目を凝らした丈二は、霧の中から近づいてくる物体に向かって言った。
「何でもいい」
「何でもいいから、早くこっちへ来い!」




