第二十四話 灰鐘祭で、母の名は休声木札とともに読まれる
灰鐘祭の日、王都の空は薄い灰色だった。
雨は降っていない。けれど、雲が低く垂れ、町全体が静かな布で覆われているように見える。広場には白い花を持つ人々が集まり、鐘楼ごとの名簿係が黒い帯を腕に巻いていた。
花市場の大鐘は鳴らない。
その事実は、祭の前から広場に知れ渡っていた。鐘舌が消えたことも、ベルフォード家の祝鐘使用の申し出が断られたことも、噂になっている。だが、花市場の人々は三つの小鐘の前に立ち、夜通し作った木札を整えていた。
エリアナは西礼拝堂の席で、喉の状態を確かめる。
発声は二節まで。
一節目は祭の開始基準。二節目は、母の名が読まれた後の応答に使うかもしれない。ただし、使わなくてもよい。アレクシスはそう条件に書いた。
「母君の名で声が乱れる可能性があります。無理に応答しない選択も、事前に認められています」
エリアナは石板に書く。
『泣いたら、失敗ですか』
「いいえ。泣いて歌えないなら、泣くことを優先します」
その答えだけで、目の奥が熱くなった。
十歳の時、泣かないことが務めだった。今日は、泣いても名は消えない。
日没の少し前、セラフィナ記録長が壇上に立った。
「灰鐘祭を始めます。本年より、王都十二鐘は分散基準で慰霊を行います。花市場の大鐘は妨害により沈黙していますが、花市場鐘楼組合の小鐘三基が応答を担います。沈黙した鐘の名も、記録に残します」
広場が静まった。
エリアナは一節目を歌った。
音は低く、長く伸ばさない。広場全体に始まりの線を引くように置く。西礼拝堂、王立施療院、花市場の小鐘群が、それぞれ応じる。大鐘が一つ欠けていても、音は止まらない。三つの小鐘が、欠けた場所を丁寧に埋めた。
名簿の読み上げが始まる。
薬師、職人、子ども、旅人、貴族、下働き。名前は身分順ではなく、鐘楼ごとの記録順に読まれた。花市場では、小鐘が一人ずつ短く応答する。
りん。
りん。
りん。
大きな響きではない。だが、ひとつひとつの名に、小さな居場所がある音だった。
エリアナは聞きながら、胸元の木札を握った。
やがて、ベルフォード家の名簿が読み上げられる番が来た。
父グラードは貴族席にいた。顔は硬い。彼は最後まで、母の肩書き訂正に抗議していた。だが、聖務院の記録は変わらなかった。
セラフィナの声が響く。
「セシリア・ベルフォード。ベルフォード侯爵夫人。祝鐘詠唱者。休声記録作成者」
その瞬間、エリアナの視界がにじんだ。
母の名が、消されずに読まれた。
夫人としてだけではない。誰かの妻、誰かの母としてだけではない。声を持ち、休む日を記録した人として。
喉の奥が震える。
二節目を歌う予定だった。だが、声を出そうとすると涙がこみ上げる。音が乱れるかもしれない。十歳の自分なら、泣くなと叱られただろう。
エリアナは歌わなかった。
代わりに、母の休声木札の写しを壇上の小さな台に置いた。
アレクシスがその意図をすぐに読み取り、西礼拝堂の小鐘を一度だけ鳴らした。
りん。
短い音。
それは、歌えなかった娘の代わりではなく、歌わない選択を記録する音だった。
セラフィナが宣言した。
「エリアナ・ベルフォード、母セシリアの名に対し、休声木札による応答。発声なし。記録します」
広場の誰も笑わなかった。
むしろ、多くの人が頭を下げた。泣いている人もいた。花市場の小鐘が次の名へ進む。祭は止まらない。エリアナが歌わなくても、母の名は消えなかった。
父が立ち上がりかけたが、隣の警備司祭に止められた。
彼の顔には怒りだけでなく、初めて動揺があった。母の名が、彼の整えた肩書きではなく、母自身の仕事とともに読まれた。彼が隠した木札が、王都の前に出た。
灰鐘祭の最後、十二鐘が一斉に鳴った。
花市場の大鐘は沈黙したまま、三つの小鐘がその隙間を支える。完全な音ではない。けれど、欠けた音を隠さない響きだった。
エリアナは涙を拭かなかった。
泣いていることも、今日の記録の一部でいいと思えた。
祭が終わると、花市場の親方が声をかけてきた。
「大鐘は直す。だが、今日の小鐘のやり方も残したい。子どもの名には、あの音が合う」
エリアナは石板に書いた。
『残してください。失った音を隠さないために』
その夜、手帳に書いた。
『母の名が読まれた。私は歌わなかった。失敗ではなかった』
文字の上に涙が一滴落ちた。
今度は、書き直さなかった。




