第二十二話 カイン様、婚約は鐘ではなく書面で終わらせます
灰鐘祭の準備が進む中、カイン・オルレアンから正式な婚約解消書が届いた。
厚い紙に、伯爵家の印とカイン本人の署名がある。そこには、エリアナとの婚約を両家協議の名の下に解消したとしつつも、本人への事前説明が不十分であったこと、メリッサとの婚約式において精神的負担を与えたことを認める文言が入っていた。
慰謝料額はまだ協議中。名誉回復文は別紙。
完璧ではない。だが、初めて「なかったこと」ではなく書面になった。
エリアナはその紙を見つめ、複雑な息を吐いた。
これで終わる。
そう思ったはずなのに、胸が軽くなるだけではなかった。かつて自分は、この署名の横に自分の名が並ぶ未来を想像していた。カインの隣で祝福を受ける日を、少しは夢見ていた。その夢が正式に終わるのだ。
傷つけられた相手でも、過去が消えるわけではない。
アレクシスは何も言わず、彼女が紙を読み終えるのを待った。
午後、カインが面会に来た。今日はリディアの面会簿に、きちんと「婚約解消書の説明」と書かれている。
面会室で、彼は以前よりずっと疲れた顔をしていた。
「書面は、君の条件をすべて満たしてはいない。だが、伯爵家として出せる範囲はここまでだ」
エリアナは石板に書く。
『慰謝料額は協議継続ですね』
「君は本当に、そういう話をするようになったんだな」
『必要です』
「分かっている。責めているわけじゃない」
カインは苦笑し、それから真顔になった。
「メリッサとの婚約は、伯爵家としても白紙にする方向になった。彼女が公に発言したことで、母は怒っている。父はベルフォード家との関係そのものを見直すと言っている」
エリアナは黙って聞いた。
「僕は、誰と婚約したかったのか、分からなくなった」
その言葉は、あまりに遅かった。
エリアナは怒りよりも、寂しさを覚えた。カインはずっと、家と家、役目と評判の中で婚約を見ていた。エリアナを選ぶのでも、メリッサを選ぶのでもなく、都合のよい形を選んできた。その結果、彼自身も何を望んでいたのか分からなくなった。
『それは、私が答えることではありません』
「そうだね」
彼は長く息を吐いた。
「君に謝りたい。元に戻るためじゃない。戻れないことは、ようやく分かった」
エリアナは筆を止めた。
謝罪。
それを望んでいたはずなのに、いざ来るとどう受け取ればよいか分からない。
カインは頭を下げた。
「君の婚約者でありながら、君の名を守らなかった。君の声を尊いと言いながら、君の喉を守ろうとしなかった。メリッサとの婚約を受け、さらに君の祝歌を利用しようとした。すまなかった」
面会室は静かだった。
エリアナは喉の奥が詰まるのを感じた。怒りが消えるわけではない。謝られたから、痛みがなかったことになるわけでもない。
けれど、彼が初めて具体的に謝ったことは分かった。
彼女は石板に書いた。
『謝罪を受け取ります。許すかどうかは、今すぐ決めません』
カインは頷いた。
「それでいい」
それでいい、と彼が言ったのは初めてかもしれない。以前の彼なら、穏やかに許してほしいと言っただろう。君らしくないと眉を寄せただろう。
少しだけ、彼も変わったのかもしれない。
だが、それはエリアナが戻る理由にはならない。
彼女は婚約解消書の最後に、自分の署名をした。
エリアナ・ベルフォード。
書き終えた瞬間、胸の中の古い鐘が、静かに鳴り終えた気がした。
カインは紙を受け取り、立ち上がる。
「灰鐘祭、見に行く。君の声を聞くためではなく、母の名をどう読むかを見届けるために」
エリアナは石板に書く。
『見世物ではありません』
「分かっている。記録として見届ける」
彼は面会室を出ていった。
残ったのは、婚約解消書の控えと、少しだけ軽くなった沈黙だった。
アレクシスが後から入ってきた。
「終わりましたか」
エリアナは頷く。
『鐘ではなく、書面で終わりました』
「いい終わり方です。鐘は、終わらせるためだけに鳴らすものではありませんから」
エリアナは控えを手帳に挟んだ。
カインとの婚約は、祝歌で飾られず、誓約鐘にも守られなかった。けれど最後だけは、彼女の署名で終わった。
それで十分だった。




