第三話 世界を知るには散歩するべし
皆さんは散歩好きですか?
前世の俺には、数少ない趣味があった。
散歩である。金はかからない。健康にもいい。
それでいて、町の空気や人の流れを肌で感じられる。
つまり、かなり優秀な趣味だった。
異世界に転生した今でも、その考えは変わらない。
むしろ、知らない世界だからこそ、歩く意味は大きい。
見たことのない建物。聞き慣れない言葉。
前世とは違う匂い。土の道を行き交う人々の足音。
それらを一つ一つ拾っていくことは、この世界を知る一番身近な方法だった。
ようやく三歳になったことで、俺は町の中を軽く歩けるようになった。
もちろん、遠くまでは行けない。母に許された範囲だけだ。
それでも、家の中にいるだけだった頃に比べれば、世界はずっと広がった。
「あら、ルークス君。今日はどうしたの?」
「今日はアーチさんのお店に行くの」
「あら、そうなの。気をつけてね」
道端で声をかけてきたのは、近所のお姉さんだった。
見た目は青髪ロングの清楚な女性。
若そうに見えるが、我が母ミリアと同い年で、町長の奥さんである。
前に年齢を想像した瞬間、笑顔のままものすごい圧を向けられて、正直ちょっと泣きそうになった。
この世界の女性も怖い。年齢について考えるのはやめよう。
「はーい」
俺は小さく手を振って、土の道を歩いていく。
この町についても、少しずつ情報を集めることができた。
町の名前は、ゼケル。
またの名を、始まりの町というらしい。
なんと俺にぴったりな名前なのだろうか。
さすが異世界。こういうところだけは、きっちりテンプレを押さえてくる。
町の周囲には、森と草原が広がっている。
ただし、町は防壁に囲まれているため、中から外の景色はあまり見えない。
防壁といっても、王都にありそうな巨大な石壁ではない。
木と土を組み合わせた、辺境の町らしい素朴な壁だ。
それでも、魔物がいる世界では壁があるだけで安心感が違う。
俺はそんな町の道を歩きながら、目的地へ向かった。
「おはようございます」
「今日も元気ねえ、ルークス君」
「アーチさん、またお話聞かせて」
「本当に、あの脳みそが筋肉で出来ているガレンから生まれた子なのかね」
「ぼくの父さんは父さんしかいないよ」
「そうさねえ」
腰が曲がった老婆が、しわだらけの顔で楽しそうに笑う。
この人こそ、この町で唯一の何でも屋を営むアーチさんである。
薬を売る。服を直す。簡単な道具も扱う。
それどころか、子供が生まれる時には産婆まで務める。
ちなみに、俺が生まれた時もこの人に取り上げられたらしい。
俺にとっては、この世界のことを聞けば何でも答えてくれる優しいおばあちゃんだ。
この人のおかげで、町の名前だけでなく、この世界の地図まで見せてもらえた。
「ここがゼケルだよ」
以前、アーチさんは古びた地図の一点を指さして教えてくれた。
「ゴルゴン王国の端っこさ」
「端っこ?」
「そうさ。北には山岳地帯、東には森。どっちも子供が近づく場所じゃないよ」
「危ないの?」
「危ないとも。北の山岳地帯には強い魔物がいるし、東の森も奥へ行けば何が出るか分からない。いいかい、ルークス。賢い子なら、危ない場所には近づかないことだよ」
「うん」
こんな具合に、アーチさんは何でも教えてくれる。
だから今日も、俺は聞きたいことがあってここに来た。
この世界に来てから、ずっと気になっていたことがある。
トイレだ。
家の横にあるトイレで一人でしようと思った時、中で何かが蠢いているのを見てしまった。
最初は驚きのあまり、便座にお尻がはまりそうになって、二重の意味で焦った。
母さんに聞いても、なぜか微妙に教えてくれない。
笑ってごまかされるだけだった。ならば、頼るべきはアーチさんである。
「ねぇ、アーチさん?」
「なんだい、ルークス君」
「トイレの中に何かいたけど、あれは何?」
「あははは。そうかい、あれを見たんだね」
「こ、怖かった」
「大人はあれを怪物と言って子供を脅かすものさ」
「怪物……」
「でも、本当は違うよ。あれはスライムさ」
「スライム?」
スライム。
出た。異世界定番の魔物である。
ただ、俺の知っているスライムは、序盤の雑魚だったり、作品によっては最強だったり、なかなか扱いが安定しない存在だ。
そのスライムが、よりにもよってトイレにいた。
「王都に行けば水洗式の便利なトイレがあるけど、ここは辺境の町だからねえ」
「水洗式……」
「魔物の中でも比較的おとなしく、雑食のスライムを飼うことで処理しているのさ」
「そ、そうだったのか」
なるほど。つまり、この世界の辺境ではスライムを利用して排泄物を処理しているらしい。合理的ではある。
合理的ではあるが、前世日本のトイレを知っている身としては、なかなか衝撃が大きい。
この世界のスライムが比較的無害なのが救いだ。
王都に行けば、もっと便利なトイレがあるらしい。
また一つ、王都に行く理由が増えた。
いや、勇者とか魔術とか以前に、トイレは大事だ。
文明の基準は、まずトイレで測るべきである。
「でもね、ルークス君」
アーチさんの声が、少しだけ低くなった。
「スライムだって、乱暴に扱えば怒るかもしれないよ」
「怒るの?」
「そりゃあ、生き物だからねえ。賢いお前なら分かるはずさ。あれが怒ったらどうなるか」
「ひ、ひえ」
想像してしまった。
トイレの下から怒ったスライムが飛び出してくる光景を。
嫌すぎる。魔王より先に、トイレで死ぬのは絶対に嫌だ。
「分かったなら、大事に使うのさ」
「う、うん」
「あと、勝手に餌をやるんじゃないよ」
「え」
「今度、果物でもやろうと思った顔をしていたね」
「な、なんで分かるの?」
「三歳児の考えることくらい、ばあちゃんにはお見通しさ。増えたら誰が面倒を見ると思ってるんだい」
「……はい」
スライムは大事に扱う。だが、勝手に餌はやらない。
俺は今日、この世界で生きるうえで非常に重要な教訓を得た。
こうして、俺は少しずつ町の情報を集めていった。
やはり、歩くことは偉大である。
◇
家に帰ると、父さんが庭で剣の手入れをしていた。
「ただいま、父さん」
「おう、おかえり」
「また、アーチさんのところか」
「うん」
「あの人には、この町の誰もかなわないさ。父さんも何度怒られたか分からん」
すごく想像できてしまうのは失礼だろうか。
父さんは豪快に笑いながら剣を布で拭いていたが、ふと俺を見る目を細めた。
昨日の夢被れのことが、まだ気になっているのだろう。
俺が魔力を身体に流して、床に足跡を残した件だ。
父さんはしばらく考え込むと、何かを決めたように頷いた。
「そうだ、ルークス」
父さんは手を叩いた。
「お前には、身体の使い方を教えてやろう」
「身体の使い方?」
「ああ。昨日みたいに、いきなり魔力で身体を動かそうとすると危ない。身体が魔力についていかないからな」
父の声は、いつもより真面目だった。
「魔力による強化は絶大だ。だが、素の身体が弱ければ、本当の力は出せない。むしろ身体を壊す」
「身体を壊す……」
「筋肉も骨も、いきなり強い魔力を流されれば悲鳴を上げる。だから、まずは身体を作る」
父さんは、軽く拳を握った。
「素振りをして、走って、飯を食べて、よく寝る。地味だが、それが一番大事だ」
その言葉は、妙に説得力があった。
父の身体は大きい。
腕は太く、背中は広く、立っているだけで安心感がある。
きっとこの人は、そうやって強くなったのだ。
「今日から、ついてこられる分だけ父さんについてきなさい」
「分かった!」
「父さんが子供の頃なら、もっと嫌がっていたのに。お前はできた息子だな」
「だって、父さんみたいに強くなりたいもん」
「この可愛い息子め!」
こうして、俺の朝は早くなった。
眠い目をこすりながら、父と一緒に庭へ出る。
まずは素振り。俺用に用意されたのは、木の棒だった。
剣と呼ぶには軽く、武器と呼ぶには頼りない。
だが、三歳児の俺にとっては十分重い。
「一、二、三」
父の声に合わせて、俺は木の棒を振る。
すぐに腕が疲れた。肩が痛い。足もふらつく。
対して父は、重そうな鉄の剣を軽々と振っている。
しかも、ただ振っているだけではない。
動きに無駄がない。振るたびに空気が鳴る。
見た目通り、怪物だ。
その後は町の周りを走るもちろん、俺は町一周などできない。
少し走っただけで息が切れた。
父はというと、身体に重りをつけたまま平然と走っている。
おかしい。父さん、やっぱり実は人間じゃないのでは?
俺が庭で息を切らしていると、父が町一周を終えて戻ってきた。
「最初はそんなものだ。大事なのは続けることだぞ」
「分かってるけど……」
あまりにも差がありすぎる。
俺は前世の記憶がある。魔力炉も鍛えてきたつもりだ。
それなのに、現実の身体はただの三歳児だった。
落ち込む俺の頭に、父のごつごつした大きな手が乗る。
「父さんは、なんでそんなに強いの?」
「それはな、父さんはもともと王国で冒険者をやっていたんだ」
「え、パパ冒険者だったの!」
「これでもなかなか強かったんだぞ」
父は少しだけ照れくさそうに笑う。
「まあ、世界には父さんより強い奴なんていくらでもいる。父さんはこの町を守れる程度の男だ」
「それでもすごいよ」
「ありがとうな」
父さんは照れたように頬をかいた。
そして、何気なく言った。
「お母さんも昔は、剣姫なんて呼ばれて――」
「あなた?」
背後から、静かな声がした。
母だった。母は笑っていた。
ただ、その笑顔を見た瞬間、父の顔から血の気が引いた。
「いや、なんでもない。昔の話だ。なあ、ルークス」
「う、うん」
母さん、強し。
絶対に逆らわないでおこう。
なにせ、剣姫だ。
「ルークス」
「はい!?」
なぜだ。母さん、俺の心を自然に読んでこないでほしい。
「まったく。そんなことを言うなら、おかわりはなしよ」
「「ごめんなさい」」
父と俺の声が綺麗に重なった。
「分かればよろしい」
ミリアは満足そうに頷く。
「早く手を洗ってきなさい」
「「はい!」」
こうして、俺の日常は少しずつ形になっていった。
魔力炉を鍛える。身体を鍛える。
町を歩いて世界を知る。
父に教わる。母に怒られる。
最初はどうしたものかと思ったが、何とかやっていけそうだ。
ただ、一つだけ問題がある。
◇
「おい、サラ! 遊ぼうぜ!」
「私は……」
「やめてやれよ、レン。サラが嫌がってるだろ」
俺が声をかけると、レンはすぐにこちらを振り向いた。
「む。またか、ルーク! 俺の邪魔をする気か!」
この困った幼馴染の存在だ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
ゼケルは記憶や記念のような意味と思ってもらえればいいです。
なぜ、その意味なのかは多分いつか明かすと思います。
それと、この町はこの世界における超田舎です。
特に印象に残った場面や台詞がありましたら、一言だけでも感想をいただけると、とても励みになります。
あと、私は散歩大好きです。




