第四十七話 飢えなき国を目指して
港原会戦から一か月。
相良領には、ようやく戦の喧騒ではなく、人々の暮らしの音が戻り始めていた。
朝早くから鍬を振るう農民たち。
港で荷を運ぶ船乗り。
威勢のいい声を張り上げる商人。
城下では大工が槌を打ち鳴らし、焼け落ちた倉庫や家屋が次々と建て直されていく。
戦が終われば、次に始まるのは復興である。
そして、その復興こそが領主の本当の仕事だった。
相良城の天守から城下を眺めながら、悠真は静かに呟く。
「ここまでは予定通りだ」
その言葉に隣にいた宗春が苦笑した。
「若様の予定通りという言葉ほど恐ろしいものはありませんな」
「そうか?」
「ええ。大抵、周りが振り回されます」
悠真は肩をすくめて笑った。
港原会戦によって朝倉家は滅び、東雲家も景隆を失って勢力を立て直す時期に入った。この地方では、しばらく大きな戦は起こらないだろう。
だからこそ今しかない。
国を豊かにする時間だった。
◇◇◇
その日の評定には、いつもより多くの顔ぶれが集まっていた。
源左衛門、岩倉、宗春、楓、大坂屋源蔵、リシア、そして各村の庄屋まで呼ばれている。
武将だけの評定ではない。
国全体の評定だった。
悠真は広げられた地図ではなく、一枚の紙を机へ置く。
そこには田畑の収穫量が細かく書き込まれていた。
「まず聞く」
悠真が全員を見渡す。
「この国で一番大事なものは何だと思う?」
突然の問いに重臣たちは顔を見合わせた。
源左衛門が答える。
「兵でしょう」
岩倉は腕を組む。
「城では?」
源蔵は迷わず言う。
「金でございます」
リシアは少し考えてから答えた。
「港ですか?」
どれも間違いではない。
だが悠真は首を横に振った。
「全部違う」
そして紙を指差した。
「米だ」
評定の間が静まり返る。
「米があるから民は生きる。」
「米があるから兵は戦える。」
「米があるから税が納められる。」
「米があるから商人も集まる。」
悠真はゆっくりと皆を見渡した。
「飢えた国は必ず滅びる」
その言葉には、不思議な重みがあった。
前世で食料不足が国家を揺るがした歴史を知る男だからこそ言える言葉だった。
◇◇◇
「だから今年から国のやり方を変える」
悠真は新しい地図を広げる。
そこには川や用水路が細かく書き込まれていた。
「まず、水路を整備する」
宗春が目を細める。
「灌漑ですか」
「そうだ」
田は水で決まる。
雨任せでは収穫は安定しない。
川から水を引き、村ごとに用水路を整えれば、田の状態は格段に良くなる。
「それから田植えの日を揃える」
庄屋たちが首を傾げた。
悠真は続ける。
「村ごとに勝手な日に植えていたら人手が足りない。皆で同じ日に植えれば、終わった村が次の村を手伝える」
「なるほど……」
源左衛門が感心したように頷く。
そんな発想は誰もしたことがなかった。
◇◇◇
悠真はさらに紙をめくる。
「牛を使う」
「牛?」
岩倉が怪訝そうな顔をした。
「田を耕す時、人だけでやるな」
「牛に鋤を引かせろ」
庄屋たちがざわつく。
確かに牛はいる。
だが荷を運ぶためのものだ。
田を耕すという発想はなかった。
「人一人で一日かかる仕事を、牛なら半日で終えられる」
「余った時間で新しい田を作れる」
源蔵が思わず唸る。
「それは……収穫量が増えますな」
「その通り」
◇◇◇
「それともう一つ」
悠真は籾を入れた袋を持ち上げた。
「種籾を選別する」
庄屋の一人が首を傾げる。
「種は種では?」
悠真は笑った。
「違う」
「実りの良い稲から採れた種だけを翌年に使う」
「逆に出来の悪いものは食べる」
毎年繰り返せばどうなるか。
少しずつだが、収穫量は確実に増えていく。
宗春は感心したように息を吐く。
「長い目で見た改革ですな」
「十年後、二十年後を見てるからな」
◇◇◇
話はそこで終わらなかった。
今度は塩である。
悠真は港周辺の地図へ目を移した。
「塩田を広げる」
「製塩所を増やす」
「塩の作り方も統一する」
源蔵が腕を組む。
「塩は高く売れます」
「だからこそ安定して作る」
悠真は続けた。
「塩は食うためだけじゃない」
「魚も肉も保存できる」
「兵糧になる」
「遠くへ売れる」
保存食が増えれば、飢饉にも強くなる。
戦にも強くなる。
そして交易も広がる。
◇◇◇
「最後に」
悠真は立ち上がった。
「今年から新田を開く者には三年間、年貢を免除する」
評定の間がどよめく。
年貢免除。
戦国では簡単に口にできる話ではない。
「最初は税が減る」
「だが十年後には田が倍になる」
「国は豊かになる」
源左衛門はゆっくりと目を閉じた。
「若様……」
その声には感嘆が滲んでいた。
悠真は戦の勝ち方だけではない。
国の育て方まで考えている。
それをようやく全員が理解し始めていた。
◇◇◇
評定が終わる頃には、庄屋たちの目の色は変わっていた。
「早く村へ戻らねば」
「用水路を見直そう」
「牛を借りられないか」
武将ではない。
農民たちが未来を語っている。
その光景を見ながら、宗春は静かに笑った。
「若様」
「何だ」
「また国が変わりますな」
悠真も城下町へ目を向ける。
港では船が荷を降ろし、田では人々が汗を流している。
「戦に勝つ国じゃない」
静かに呟く。
「飢えない国を作る」
その言葉は誰に聞かせるでもなかった。
だが、その志は確かに相良領全体へ広がり始めていた。
◇◇◇
数日後。
相良領で始まった農政改革の噂は、商人たちによって各地へ運ばれていく。
「相良では年貢を減らして田を増やしているらしい」
「牛で田を耕すそうだ」
「塩田まで広げ始めたぞ」
その噂を聞いた諸国の領主たちは首を傾げた。
戦で勝ったばかりだというのに、領主が真っ先に向かったのは戦場ではなく田畑だった。
理解できない。
だが、その理解できない男が港原会戦を制したのもまた事実だった。
誰もまだ知らない。
この小さな改革が、数年後、この地方最大の穀倉地帯を生み出すことになることを。
そして――。
「飢えなき国を作る」という悠真の理想が、やがて乱世そのものを変えていくことを。




