第四十五話 落日の彼方へ
静寂が港原を支配していた。
つい先ほどまで響いていた怒号も、鉄と鉄がぶつかる轟音も消えている。
誰も動かない。
誰も声を出さない。
ただ一つの結末を見届けるために。
戦場にいる全ての者が息を呑んでいた。
◇◇◇
宗景の薙刀。
義康の刀。
二つの刃は交差したまま止まっていた。
時間が凍り付いたかのようだった。
風だけが吹いている。
血と土の匂いを運びながら。
◇◇◇
やがて。
カラン――
乾いた音が響いた。
義康の刀が地面へ落ちる。
その手から力が抜けたのだ。
◇◇◇
「……見事だ」
義康は笑った。
穏やかな顔だった。
敗者の顔ではない。
長い旅路を歩き終えた老人の顔だった。
◇◇◇
宗景は何も言わない。
ただ薙刀を握っていた。
その刃は義康の胸を深く斬り裂いている。
誰の目にも分かる致命傷だった。
◇◇◇
「負けたよ」
義康は空を見上げた。
青空だった。
どこまでも高く。
雲一つない。
まるで戦など存在しないかのような空だった。
◇◇◇
「昔から」
義康が苦笑する。
「お前には勝てなかったな」
宗景は鼻で笑った。
「嘘をつけ」
若い頃。
何度も負けた。
何度も苦しめられた。
互いに死線を潜り抜けた。
だからこそ分かる。
勝敗だけで語れる相手ではなかった。
◇◇◇
義康も知っている。
だから少しだけ嬉しそうだった。
宿敵に認められることが。
最後の最後で悪くなかった。
◇◇◇
「宗景」
「何だ」
「時代が変わるぞ」
その言葉に宗景は黙った。
◇◇◇
義康の視線は遠くを向いていた。
相良軍本陣。
その中央。
相良悠真。
◇◇◇
「俺たちじゃない」
義康は静かに言う。
「これからは」
血が口元から流れる。
呼吸も苦しい。
それでも言葉を止めない。
◇◇◇
「ああいう奴の時代だ」
宗景も振り返る。
悠真がいた。
若い。
武勇では劣る。
兵も少ない。
だが。
ここまで来た。
◇◇◇
港を作った。
商人を集めた。
海賊を味方につけた。
異国と繋がった。
そして戦そのものを変えた。
武力ではなく流れを支配した。
それが相良悠真だった。
◇◇◇
宗景は笑った。
豪快に。
だがどこか寂しそうに。
「そうかもしれんな」
初めてだった。
黒峰宗景が素直に認めたのは。
◇◇◇
義康は満足そうだった。
聞きたかった答えだったのだろう。
◇◇◇
「最後に一つ」
「何だ」
義康が笑う。
若い頃の悪友を見るように。
◇◇◇
「たまには酒を奢れ」
宗景は吹き出した。
本当に。
最後まで変わらない男だった。
◇◇◇
「向こうでな」
そう答えた。
◇◇◇
義康はゆっくり目を閉じる。
静かに。
穏やかに。
朝倉家当主。
朝倉義康。
その生涯はここで終わった。
◇◇◇
風が吹く。
誰も声を出せない。
敵も。
味方も。
ただ沈黙だけがあった。
◇◇◇
やがて宗景は薙刀を掲げた。
高く。
空へ向けて。
「朝倉義康は討ち取った!」
咆哮が港原全体へ響き渡る。
◇◇◇
黒峰軍が歓声を上げる。
勝鬨。
雄叫び。
長年戦い続けた宿敵がついに倒れた。
誰もが勝利を叫ぶ。
◇◇◇
だが。
その歓声の中で朝倉兵たちは泣いていた。
武器を落とす者。
膝をつく者。
空を見上げる者。
誰もが涙を流していた。
敗北だった。
完全な敗北だった。
そしてそれ以上に。
主君との別れだった。
◇◇◇
「終わったな」
宗春が呟く。
悠真は答えない。
ただ戦場を見つめていた。
◇◇◇
確かに終わった。
朝倉家は滅んだ。
長年続いた争いも終わる。
だが本当に終わりなのか。
悠真にはそう思えなかった。
◇◇◇
東の空を見る。
その向こうには東雲家がある。
東雲信綱がいる。
そして景隆がいる。
さらにその先にはまだ見ぬ大名たち。
知らない国々。
海の向こうの世界。
◇◇◇
戦国は終わらない。
むしろ。
ここから始まる。
古い時代が終わり、新しい時代が動き出そうとしていた。
◇◇◇
その時だった。
遠くから一騎の馬が駆けてくる。
異様な速度だった。
馬は泡を吹き、騎手は今にも落馬しそうなほど疲弊している。
尋常ではない。
◇◇◇
「報告!」
戦場へ飛び込んできた伝令が叫ぶ。
顔色は真っ青だった。
宗景も。
悠真も。
宗春も。
全員が振り返る。
◇◇◇
「何だ」
宗景が問う。
伝令は息を整えることもなく叫んだ。
◇◇◇
「東雲景隆様が――」
言葉が詰まる。
誰もが続きを待った。
◇◇◇
「逝去されました!」
静寂。
◇◇◇
誰も理解できなかった。
あの東方最強が。
つい昨日まで戦場に立っていた男が。
死んだ。
◇◇◇
「馬鹿な……」
宗景が呟く。
その顔には純粋な驚愕が浮かんでいた。
宿敵だった。
だからこそ信じられなかった。
◇◇◇
伝令は震えながら続ける。
「撤退途中――長年患っていた病が悪化し……」
「そのまま……」
最後まで言う必要はなかった。
◇◇◇
風が吹く。
港原を。
朝倉義康の亡骸を。
そして時代そのものを。
吹き抜けていく。
◇◇◇
朝倉義康。
東雲景隆。
乱世を支えた二人の英雄が同じ時代に消えた。
それは偶然ではないのかもしれない。
古い戦国が終わったのだ。
◇◇◇
そして。
残された者たちの時代が始まる。
相良悠真。
黒峰義隆。
東雲信綱。
新たな世代が乱世を動かしていく。
港原の空はどこまでも青かった。
まるで、新しい時代の訪れを祝福するかのように。




