第四十三話 朝倉義康の矜持
港原会戦から一夜が過ぎた。
東雲軍は去った。
東方最強・東雲景隆は北方の反乱を鎮めるため戦場を離れ、その背中と共に朝倉軍最大の支えも消えた。
結果として朝倉軍は完全に孤立した。
前方には黒峰軍。
後方には相良軍。
白鷺砦へ続く橋は落とされ、退路は断たれている。
兵糧も底を見せ始めていた。
誰の目にも明らかだった。
朝倉家は追い詰められていた。
◇◇◇
朝倉軍本陣は静かだった。
敗軍とは思えぬほど静かだった。
兵たちは騒がない。
叫ばない。
ただ黙々と武具を整えている。
槍を磨き、鎧の紐を締め直し、刃の欠けを確認する。
皆が理解していた。
明日が来ないかもしれないことを。
だからこそ余計な言葉は必要なかった。
「殿」
重臣の一人が進み出る。
「夜陰に紛れて包囲突破を」
義康は即座に首を振った。
「無理だ」
短い言葉だった。
だが断言だった。
黒峰宗景がいる。
若き日から幾度となく戦ってきた宿敵。
あの男が包囲を敷いている以上、奇策も夜襲も通じない。
突破など夢物語だった。
◇◇◇
しばらくして別の家臣が口を開く。
「ならば……降伏を」
空気が凍った。
誰もが考えていた。
だが誰も口にできなかった言葉だった。
義康は怒らない。
ただ静かに尋ねた。
「理由は」
「朝倉家を残すためにございます」
家臣は震えながら答えた。
忠義だった。
主君を生かしたい。
家名を残したい。
その一心だった。
義康はしばらく目を閉じた。
長い沈黙が流れる。
やがて小さく笑った。
「そうか」
優しい声だった。
「皆、よく仕えてくれた」
その言葉に家臣たちは顔を上げる。
誰もが悟った。
主君は既に決めている。
◇◇◇
「朝倉家は終わる」
静かな声だった。
誰も反論できない。
現実だった。
ここで生き延びても、かつての朝倉家は戻らない。
負けとはそういうものだった。
◇◇◇
義康は本陣を出た。
東の空が白み始めている。
遠くには黒峰軍の旗。
さらにその向こうには相良軍の旗が見えた。
「負けたな」
ぽつりと呟く。
龍哭平原。
港町建設。
商人たち。
海賊たち。
東雲との同盟。
数え切れぬ策を巡らせた。
どこで間違えたのか。
それは分からない。
だが一つだけ分かる。
「面白い時代になった」
義康は笑った。
悔しい。
本当に悔しい。
だが不思議と後悔はなかった。
戦い抜いた。
負けた。
それだけだった。
◇◇◇
同じ頃。
黒峰軍本陣。
宗景もまた朝日を見ていた。
長かった。
本当に長かった。
若き日より幾度となく刃を交えた宿敵。
朝倉義康。
「父上」
義隆が近づく。
「今日で終わりますか」
宗景はしばらく答えなかった。
やがて小さく息を吐く。
「終わるだろうな」
その声には勝者の喜びより、古き敵を失う寂しさが滲んでいた。
◇◇◇
一方。
相良軍本陣。
悠真は眠れずにいた。
戦は勝った。
だが心は晴れない。
朝倉義康は敵だった。
何度も命を狙われた。
領地を脅かされた。
それでも。
「若様」
宗春がやって来る。
「眠れませんか」
「ああ」
宗春も苦笑した。
「分かります」
敵だ。
だが尊敬できる相手でもある。
だからこそ気持ちは複雑だった。
◇◇◇
その時。
伝令が駆け込んでくる。
「報告!」
全員が顔を上げる。
「朝倉軍が動きました!」
◇◇◇
夜明け。
朝倉軍は整列していた。
五千いた兵は三千ほどまで減っている。
疲労も限界。
負傷者も多い。
それでも。
誰一人逃げていない。
◇◇◇
義康は馬に跨った。
静かに。
堂々と。
その姿だけで兵たちの背筋が伸びる。
「聞け」
老将の声が響く。
「朝倉は負けた」
静寂。
誰も否定しない。
事実だった。
「だが――」
義康は刀を抜く。
朝日を受けて刃が輝いた。
「武士は最後まで武士だ」
兵たちの目が変わる。
覚悟の光だった。
「生きたい者は去れ」
誰も動かない。
一人も。
義康は笑った。
本当に嬉しそうに。
「そうか」
そして刀を前へ向ける。
その先には黒峰軍。
そして宿敵・黒峰宗景。
◇◇◇
「行くぞ」
静かな声だった。
だが兵たちは応えた。
鬨の声が天地を揺らす。
敗軍の叫びではない。
武士たちの意地だった。
◇◇◇
朝倉軍が動く。
撤退ではない。
降伏でもない。
総攻撃だった。
最後の。
最期の。
突撃だった。
◇◇◇
黒峰軍本陣。
宗景はその光景を見ていた。
そして豪快に笑う。
涙を隠すように。
「馬鹿者め」
震える声だった。
長年戦ったからこそ分かる。
義康は最後まで義康だった。
◇◇◇
宗景は薙刀を掲げる。
「全軍!」
兵たちが武器を構えた。
「迎え撃てぇぇぇぇ!!」
轟く鬨の声。
黒峰軍が動く。
◇◇◇
港原最後の戦い。
朝倉家の命運を賭けた最後の突撃。
その先頭には朝倉義康。
迎え撃つは黒峰宗景。
長き乱世を駆け抜けた二人の武将。
二つの時代。
二つの矜持。
その全てを賭けた最後の激突が、今まさに始まろうとしていた。




