第四十二話 孤立する朝倉
東雲軍が撤退した。
その事実は、港原会戦そのものを一変させた。つい先ほどまで数の優位を背景に攻勢を続けていた朝倉軍は、一瞬にして戦場の中央へ取り残されたのである。
朝倉軍五千。
決して少ない兵数ではない。
だが問題は相手だった。
黒峰軍三千五百。相良軍七百。そして港を守り抜いた黒牙海賊団五百。さらに相良港の守備隊、商人衆の補給支援、海上のアルフェイド艦隊。数だけならまだ朝倉軍に分がある。だが、戦場の空気はすでに数字の問題ではなくなっていた。
何より、黒峰宗景がいる。
東雲景隆が去った今、その怪物を止める者はいない。
◇◇◇
「撤退だ!」
朝倉本陣で、義康は即座に命じた。
迷いはなかった。東雲景隆が退いた時点で、この戦場に居座る理由は消えている。このまま戦い続ければ、朝倉軍は黒峰軍の正面に晒され続ける。数で押せたのは、東雲軍という柱があったからだ。柱を失った陣は、やがて自重で崩れる。
「急げ!」
「全軍後退!」
伝令たちが走り、角笛が鳴る。朝倉軍は即座に後退へ移ろうとした。義康の判断は早かった。武将としては正しい。生き残るための判断としても間違っていない。
だが、遅かった。
◇◇◇
「逃がすなぁぁぁぁ!!」
宗景の咆哮が戦場を震わせた。
黒峰軍が動く。
それまで東雲軍と正面からぶつかっていた黒峰の兵たちは、東雲軍が後退した瞬間、獲物を見つけた猛獣のように向きを変えた。士気が違った。長年続いた朝倉家との因縁。奪われた砦。焼かれた村。失った兵。積み重なった恨みが、今この瞬間、前へ出る力へ変わっていた。
「追え!」
「崩せ!」
「討ち取れ!」
黒峰兵の怒号が平原を満たす。
朝倉軍右翼へ黒峰騎馬隊が突っ込んだ。
轟音。
悲鳴。
槍衾が押し潰され、隊列が裂ける。朝倉武将たちも必死に兵をまとめようとしたが、東雲軍という支えを失った後では勢いが違いすぎた。
「持ちこたえろ!」
叫ぶ声はある。
だが兵の目は揺れていた。
東雲は去った。
ならば自分たちは取り残されたのではないか。
その疑念が、一度生まれれば消えない。
◇◇◇
「若様」
宗春が戦場を見渡しながら言う。
「終わりましたな」
だが悠真は頷かなかった。
まだだ。
朝倉義康は無能ではない。むしろ有能だ。龍哭平原では苦杯を舐めたが、それでも朝倉家をここまで保ち、黒峰家と渡り合い続けた男である。追い詰められた時ほど、そういう男はしぶとい。
「義康は逃げる」
悠真は地図を見下ろす。
「ただし、ただの敗走じゃない」
案の定だった。
朝倉軍中央は崩れなかった。
義康は冷静に第二陣を前へ出し、前列を下げながら後列に受けさせている。単なる撤退ではない。後退戦だった。兵が雪崩を打って逃げるのではなく、盾を残し、槍を残し、追撃の速度を削りながら距離を取る。
「さすがだな」
宗景も舌打ちした。
普通の大名ならとっくに潰れている。
だが義康は違う。
土壇場で強い。
だからこそ長年、敵として君臨してきたのだ。
◇◇◇
相良軍本陣。
悠真は戦場ではなく、その先を見ていた。
地図の上には港原、街道、河川、森、そして朝倉領へ続く道が描かれている。戦場で勝つだけでは足りない。敵がどこへ逃げるか。どこで立て直すか。どこへ兵糧を蓄えているか。それを読まなければ、この戦は終わらない。
「宗春」
「はい」
「義康ならどこへ逃げる」
宗春は少しだけ考え、すぐに地図を指差した。
「白鷺砦です」
朝倉領南部にある堅牢な山城。背後に山を負い、前面には谷川が流れ、橋を落とせば容易には攻められない。兵糧も蓄えられているはずだった。敗走後に立て直す拠点としては最適である。
悠真は笑った。
「だと思った」
嫌な予感がしていた。
そして、それは大体当たる。
「楓」
「はい」
「隼人と一緒に先回りしろ」
楓の目が細くなる。
理解したのだ。
「白鷺砦ですね」
「そうだ」
朝倉軍が逃げ込む前に道を塞ぐ。砦そのものを落とす必要はない。橋を落とす。道を塞ぐ。兵糧搬入路を切る。それだけでいい。
楓は短く頷いた。
「承知しました」
隼人も無言で姿を消す。
忍びの得意分野だった。
正面から戦う必要はない。
戦場の外で勝敗を決める。
それが相良悠真の戦だった。
◇◇◇
楓と隼人は即座に動いた。
戦場の喧騒を背に、森へ滑り込む。甲冑の兵では追いつけない速度だった。獣道を抜け、川沿いを走り、山道を越える。朝倉軍の敗走路を先回りするには時間がない。だが二人は迷わなかった。
「若様は本当に嫌なところを突きますね」
隼人が小さく笑う。
楓は息も乱さず答えた。
「褒め言葉として伝えておきます」
「怒られませんか」
「たぶん喜びます」
二人は短く笑い、さらに速度を上げた。
◇◇◇
夕方。
戦況はさらに悪化していた。
朝倉軍の損害は増え、兵は疲弊し、士気も落ちている。義康の指揮で完全な崩壊だけは避けているが、後退のたびに兵は削られていた。黒峰軍は執拗に食らいつき、相良軍は側面から矢を浴びせ、商人衆が届けた矢束と兵糧が黒峰・相良連合の動きを支えている。
そして、ついに朝倉本陣へ一つの報告が届いた。
「殿!」
家臣が駆け込む。
「白鷺砦から報告です!」
義康は振り向いた。
希望だった。
白鷺砦へ入れば立て直せる。
兵を休ませ、負傷者を収容し、次の戦に備えられる。
そのはずだった。
しかし報告を聞いた瞬間、義康の顔色が変わる。
「何だと」
声が震えた。
珍しいことだった。
「白鷺砦へ通じる橋が落とされています!」
静寂。
家臣たちも固まる。
「誰がだ!」
「不明!」
だが義康には分かっていた。
誰か、などという話ではない。
あの若造だ。
「相良悠真……」
絞り出すような声だった。
まただ。
また先を読まれた。
◇◇◇
その頃、白鷺砦へ続く谷川のほとり。
楓は崩れ落ちた橋を見ていた。
太い支柱は切られ、縄は焼かれ、橋板は川に流されている。完全に使えない状態だった。修復には時間がかかる。敗走中の軍にそんな余裕はない。
「終わりました」
隼人が笑う。
「これで逃げ場はありません」
楓は頷く。
「ええ」
そして小さく呟いた。
「本当に嫌な人ですね」
もちろん褒め言葉だった。
◇◇◇
港原。
夕日が沈む。
赤く染まる空の下で、朝倉軍は完全に孤立していた。
前には黒峰軍。
横には相良軍。
背後へ続くはずの道は断たれた。
逃げ込むべき砦も使えない。
宗景は馬上で笑っていた。
豪快に。
心の底から。
「追い詰めたぞ」
長年の宿敵。
朝倉義康。
ついにその背中が見えていた。
◇◇◇
一方、義康は静かだった。
怒りもない。
焦りもない。
ただ遠くを見ていた。
沈む夕日。
燃える戦場。
崩れた橋。
そして、相良悠真。
「そうか」
小さく呟く。
認めざるを得なかった。
東雲景隆が相良悠真を認めた理由を。
あの若造は戦場で戦っていない。
戦が始まる前から戦っている。
港を作った時から。
商人を集めた時から。
海賊を味方につけた時から。
道を直し、橋を測り、砦の位置を調べ、情報を流し、人を動かしてきた。
全てがこの戦いへ繋がっていた。
そして朝倉義康は初めて理解する。
自分が負けた相手は黒峰宗景だけではない。
相良悠真という、時代そのものだった。
その時。
朝倉家最後の夜が始まろうとしていた。




