第三十八話 港原、相見える
東雲景隆。
その名を知らぬ者は、この地方にはいない。
三十万石を治める大大名。数え切れぬ戦を勝ち抜き、何度も劣勢を覆し、敵対した者たちに敗北という現実だけを突きつけてきた老将。
東方最強。
その男が、ついに港原へ姿を現した。
相良港ではない。
港から内陸へ伸びる街道と、中央平原が交わる大地。海の匂いと土埃が混じり合い、遠くにはまだ相良港から立ち上る黒煙が見えている。
そこが、これから乱世最大の決戦場となる場所だった。
◇◇◇
悠真たちは馬を駆けさせていた。
背後には燃える港がある。
ガロンとリシアが守っている。
そう信じている。
だが、信じることと不安が消えることは違う。振り返れば戻りたくなる。だから悠真は振り返らなかった。
「若様」
楓が並走しながら言う。
「前方に軍勢」
悠真も気付いていた。
東雲の旗。
無数の槍。
黒い波のように平原を埋める七千の軍勢。
その中央に、一人の老人がいた。
馬上に座っているだけで分かる。
圧倒的な存在感。
東雲景隆。
東方最強。
ついに本命が動いた。
◇◇◇
戦場はまだ静かだった。
矢は飛んでいない。
槍も交わっていない。
だが空気はすでに張り詰めていた。
東雲軍七千。
朝倉軍五千。
黒峰軍三千五百。
相良軍七百。
港では黒牙海賊団五百が海を押さえている。
すべての戦線が、一本の線で繋がろうとしていた。
海。
港。
街道。
平原。
この一帯すべてが巨大な戦場になる。
悠真は馬を止めた。
景隆もまた、少し離れた場所で馬を止める。
両軍の間。
まだ誰のものでもない空白の大地。
そこで二人の視線が交わった。
◇◇◇
景隆はゆっくりと悠真を見た。
若い。
あまりにも若い。
だが、侮る気にはなれなかった。
この若者は相良城の包囲を破り、港を餌にして東雲軍を翻弄し、海賊や商人、異国人まで戦場へ引き込んだ。
普通の小領主ではない。
普通の若造でもない。
「相良悠真」
景隆が名を呼んだ。
大きな声ではない。
だが、不思議と戦場に響いた。
悠真は馬上で顔を上げる。
「何だ」
周囲が緊張する。
楓の手が刀へ伸び、岩倉がわずかに前へ出る。宗春は無言で景隆を見ていた。
だが悠真は目を逸らさなかった。
ここで呑まれれば終わりだ。
武力では勝てない。
兵力でも劣る。
ならばせめて、正面から向き合うしかない。
景隆はわずかに笑った。
「若いな」
「よく言われる」
初対面とは思えない会話だった。
戦場の中心にいる二人とは思えないほど静かだった。
だが、その静けさこそが異様だった。
◇◇◇
景隆は馬上から戦場を見渡した。
東に東雲軍。
南寄りに朝倉軍。
西から近づく黒峰軍。
その隙間に相良軍。
さらに遠くには相良港。
黒煙が細く空へ伸びている。
「良い港を作ったな」
意外な言葉だった。
悠真は少しだけ眉を上げる。
「ありがとう」
「惜しいな」
景隆の声は穏やかだった。
だが意味は明確だった。
潰す。
港を。
相良家の心臓を。
悠真が築いた未来を。
楓が低く言う。
「若様、危険です」
分かっている。
だが景隆は今、斬りかかるつもりではない。
悠真も同じだった。
互いに理解している。
ここで刃を交えても意味がない。
まだ戦場は整い切っていない。
◇◇◇
景隆が再び笑う。
「聞いていた通りだ」
「何を」
「変わっている」
宗春が口元を押さえた。
笑いを堪えている。
悠真は小さく息を吐いた。
それは本当に、皆から言われる。
景隆は指を折るように言った。
「民の為に税を下げた」
一つ。
「盗賊を手打ちにせず許した」
二つ。
「海賊を雇った」
三つ。
「港町を作った」
四つ。
「異国人と交易した」
五つ。
そして最後に悠真を見る。
「私をここまで引っ張り出した」
静寂。
褒めているのか。
警戒しているのか。
面白がっているのか。
分からない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
東方最強は相良悠真を見ている。
小領主としてではない。
戦う価値のある相手として。
◇◇◇
「貴様は何故に戦うことを決めた」
突然、景隆が問うた。
悠真は目を細める。
「何?」
「貴様だ」
景隆の視線が真っ直ぐ突き刺さる。
逃げ場のない問いだった。
「なぜそこまでする」
領地のためか。
名声か。
野心か。
それとも生き残るためか。
景隆は知りたがっていた。
相良悠真という若者の芯を。
悠真は少し考えた。
前世のことが脳裏を過る。
満員電車。
終電。
残業。
数字に追われ、顔も知らない誰かの都合で削られていく毎日。
自分のために生きていたはずなのに、何一つ自分の手には残らなかった人生。
そして今。
港がある。
町がある。
人がいる。
自分の言葉で笑う者たちがいる。
守りたいと思える場所がある。
「皆が笑って暮らせる場所を作りたい」
静かな声だった。
飾らない。
格好もつけない。
本音だった。
◇◇◇
沈黙が落ちた。
景隆は何も言わない。
平原を吹く風が二人の間を通り抜ける。
しばらくして、老将は笑った。
初めて、本当に少しだけ。
「馬鹿だな」
意外なほど優しい声だった。
「この乱世でそれを言うか」
宗春が苦笑する。
楓も何も言えない。
確かにそうだった。
夢物語だ。
綺麗事だ。
戦国でそんな理想を口にするなど、愚か者のすることだ。
だが景隆は続けた。
「だが嫌いではない」
全員が驚いた。
東方最強。
冷徹な老将。
勝つために港を焼かせた男。
その口から出るには、あまりにも柔らかい言葉だった。
景隆は遠い目をする。
「若い頃を思い出す」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
だが悠真には聞こえた。
この老将にも、かつて何かを守ろうとした時代があったのかもしれない。
◇◇◇
その時だった。
遠くから角笛が響いた。
低く、長く、戦場を揺らす音。
東の空に土煙が上がっていた。
朝倉軍。
五千。
朝倉義康自ら率いる主力が到着する。
同時に西からも土煙が上がる。
黒峰軍。
三千五百。
先頭には黒峰宗景がいた。
馬上で豪快に笑いながら、まるで戦そのものを迎えに来たかのように進んでくる。
「来たか」
景隆の表情が変わった。
先ほどまでの穏やかさは消える。
そこにいるのは武将だった。
敵だった。
◇◇◇
港原の大地は一瞬で戦場へ変わった。
東雲軍七千。
朝倉軍五千。
黒峰軍三千五百。
相良軍七百。
そして港では黒牙海賊団五百が海を押さえている。
すべての役者が揃った。
海賊王ガロンは港を守り。
黒峰宗景は景隆を迎え撃ち。
相良悠真は戦場の流れを変えるためにここへ来た。
景隆は馬首を返す。
そして東雲軍本陣へ戻る前に、悠真を振り返った。
「若造」
その呼び方には侮りがなかった。
「次は戦だ」
先ほどまでの会話は終わった。
ここからは敵同士。
「そうだな」
悠真も頷く。
避けられない。
ここまで来た以上、もう退けない。
◇◇◇
景隆は東雲軍本陣へ戻っていった。
悠真はその背中を見つめる。
不思議だった。
敵なのに。
嫌いになれない。
だが同時に、倒さなければならない。
そういう相手だった。
直後、黒峰軍が到着する。
先頭の宗景が馬上から声を響かせた。
「待たせたな、相良の!」
その声だけで戦場の空気が変わる。
東雲景隆が来た。
朝倉義康が来た。
黒峰宗景が来た。
相良悠真もいる。
港ではガロンが守っている。
全ての役者が揃った。
◇◇◇
中央平原と相良港を結ぶ大地。
そこで、乱世最大の決戦が始まろうとしていた。
後に『港原会戦』と呼ばれる戦い。
歴史を変える一戦の幕が、ついに上がった。




