第三十六話 燃える相良港
相良港の夜は静かだった。
完成したばかりの桟橋には潮の匂いが漂い、倉庫の列には見張りの灯が点っている。停泊する商船の帆は畳まれ、港町の家々からは細い煙が上がっていた。半年前まで、ここには何もなかった。荒れた海岸と寂れた漁小屋があるだけの場所だった。だが今は違う。商人が来る。船が来る。職人が住み、荷が動き、金が巡る。ここは相良家の心臓であり、悠真が築いた未来そのものだった。
そして、その未来を燃やそうとする者たちがいた。
◇◇◇
沖合。
闇に紛れるように、十数隻の船が静かに進んでいた。
帆は畳まれている。灯りもない。櫂が水を掻く音だけが夜の海に溶けていく。先頭の船首に立つ男は、港の灯を見ながら低く笑った。顔には古い刀傷が走り、口元から覗く歯は鮫の牙のように歪んでいる。黒鮫のバルド。東方海域を荒らし回る大海賊であり、かつて黒牙のガロンと覇を争った男だった。
「いい港だな」
バルドは舌なめずりするように言った。
「燃やし甲斐がある」
部下が隣で笑う。
「本当に焼くだけでいいんですかい」
「東雲から金は貰ってる」
十分すぎる額だった。ならば仕事をする。それだけだ。港を奪う必要はない。支配する必要もない。ただ燃やせばいい。倉を焼き、船を沈め、商人に恐怖を刻み込む。それだけで相良港は死ぬ。
「火を放て」
静かな命令だった。
海賊たちが笑った。
◇◇◇
港町。
見張り台にいた若い兵は、最初それを波の影だと思った。
沖合に黒い筋が見える。
一つではない。
二つでもない。
闇に紛れた船影が、音もなく近づいてくる。
兵の顔色が変わった。
「敵襲!」
鐘楼へ駆け込み、必死に鐘を鳴らす。
「敵襲だ! 海賊だ!」
夜の港に鐘の音が響き渡った。
眠っていた町が一瞬で目を覚ます。家々の戸が開き、船員が飛び出し、職人たちが水桶を抱えて走る。女や子供は避難路へ向かい、商人たちは倉の鍵を確認しようとしていた。
その混乱の中で、ただ一人だけ笑っている男がいた。
◇◇◇
「来たか」
ガロンは既に起きていた。
巨大な斧を肩に担ぎ、港の灯の向こうにある海を睨む。悠真の予想は当たった。港を狙う者が来る。そう読んで警備を増やしていたからこそ、完全な不意打ちは避けられた。
「何隻だ」
「十二、いや十五!」
「多いな」
ガロンは獰猛に笑った。
「面白ぇ」
黒牙の船乗りたちが次々と集まる。彼らにとって港は飯の種だった。商船が来るから荷がある。荷があるから仕事がある。悠真に雇われ、海賊から船乗りへ変わったとはいえ、海で生きる者にとって港を焼かれることは首を絞められることに等しい。
「野郎ども!」
ガロンが叫ぶ。
「港は俺たちの縄張りだ! 荒らす馬鹿には海の礼儀を教えてやれ!」
歓声が上がる。
黒牙の船が次々と港を離れた。
◇◇◇
海賊船団は一気に港へ突っ込んできた。
火矢が夜空を走る。
油壺が投げ込まれる。
燃える布が倉庫の屋根へ落ちる。
直後、轟音とともに倉庫の一つが炎を噴いた。
「火だ!」
「水を運べ!」
「倉の荷を出せ!」
港町は混乱に包まれた。だが事前に用意されていた消火桶の列と避難路が、被害をわずかに押し留める。悠真が港を造る際に命じていた火災対策だった。誰もが面倒だと笑った仕組みが、今この瞬間、港を救っていた。
それでも炎は広がる。
新しい木材はよく燃えた。
火の粉が舞い、夜空が赤く染まる。
◇◇◇
沖では黒牙船団とバルドの船団が激突した。
船体同士が軋み、鉤縄が飛び、海賊たちが叫びながら敵船へ飛び移る。斧、剣、槍、短刀。甲板の上で血が飛び、海へ落ちた者の悲鳴が波に呑まれた。武士の戦とは違う。陣形も格式もない。殺すか、落とすか、燃やすか。ただそれだけの荒々しい戦だった。
バルドは先頭で笑っていた。
黒牙は強い。
それは認める。
だが関係なかった。
「どけ」
巨大な刀が振るわれ、黒牙の船員が吹き飛ぶ。板が割れ、血が散り、周囲の海賊たちが本能的に距離を取った。
「ガロンを出せ!」
バルドが吠える。
「船乗りの皮を被った腰抜けをな!」
その声に応じるように、別の船から低い笑い声が響いた。
「呼んだか?」
バルドが振り向く。
そこにガロンがいた。
巨大な斧を肩に担ぎ、炎に照らされながら甲板へ降り立つ。二人の巨漢が向かい合った瞬間、周囲の海賊たちは自然と距離を取った。危険を感じたのだ。獣同士が牙を剥く前の空気だった。
「黒鮫のバルド」
ガロンが笑う。
「まだ死んでなかったか」
「お前こそな、ガロン」
バルドも笑った。
「海賊をやめたと聞いたぞ。随分と丸くなったじゃねぇか」
ガロンは肩を竦める。
「そうか?」
そして一瞬だけ港を見た。
燃える倉庫。
水を運ぶ町人。
逃げる子供を抱える船員。
怒鳴りながら火を消す職人。
それを見て、ガロンは静かに言った。
「案外、悪くねぇぞ」
次の瞬間、二人が動いた。
斧と刀がぶつかり、轟音が甲板を揺らした。
◇◇◇
黒峰城。
深夜の軍議は続いていた。
敵主力の動き。
河川地帯への布陣。
相良港の守り。
どれも一刻を争う問題だった。
その最中、伝令が転がるように駆け込んできた。
「報告!」
宗景が振り向く。
悠真も顔を上げた。
伝令は息を切らしながら叫ぶ。
「相良港、海賊に襲撃されました!」
室内の空気が凍る。
悠真は目を閉じた。
やはり来た。
読んでいた。
警備も置いた。
それでも胸の奥が冷える。
港は物ではない。
人がいる。
未来がある。
失えば取り返せないものがある。
「被害は」
「倉庫一棟炎上! 黒牙衆が迎撃中!」
ガロンがいる。
ならばまだ持つ。
悠真はそう判断した。
だが伝令の報告はそこで終わらなかった。
「さらに、東雲軍本隊が動きました!」
宗景の目が細くなる。
「景隆か」
「はっ! 東雲景隆本隊、朝倉軍と共に中央平原方面へ進軍開始!」
港襲撃。
本隊進軍。
二つは同時だった。
相良港を救えば決戦に遅れる。
決戦へ向かえば港が燃える。
東雲景隆はまたしても選択を迫ってきた。
◇◇◇
宗景が笑った。
戦場に立つ武将の笑みだった。
「忙しくなったな、若造」
悠真も苦笑する。
本当に次から次へと来る。
だが不思議と絶望はなかった。
相手が強いからこそ、こちらも全てを賭ける価値がある。
「港はガロンに任せる」
悠真は決断した。
「俺たちは景隆を止める」
権蔵が息を呑む。
リシアが唇を噛む。
だが宗春は頷いた。
それしかない。
港を焼こうとしているのは海賊だ。
ならば海で戦える者に任せる。
こちらは陸の本命を止める。
「伝令を出せ」
悠真は言った。
「ガロンへ伝えろ。港を死守しろ、と」
そして一拍置き、続けた。
「俺たちは必ず勝つ」
乱世最大の戦いが、ついに動き出した。
燃える港。
進む東雲軍。
迎え撃つ黒峰と相良。
その全てが一本の線で繋がり、東方の命運を決める決戦へと流れ込んでいく。
夜明けはまだ遠い。
だが、戦の火はすでに上がっていた。




