第三十五話 港を狙う者たち
東雲軍が撤退した。
相良城は救われた。
領民たちは歓喜し、城兵たちは勝利に沸いた。源左衛門は涙を拭い、岩倉は兵たちの肩を叩き、若い城兵たちは自分たちが大軍を退けたのだと興奮していた。
だが、悠真は笑わなかった。
勝ったわけではない。
東雲信綱は崩れていない。兵も残っている。朝倉軍も健在。そして何より、東方最強・東雲景隆がまだ盤上にいる。
相良城の包囲は解かれた。
ただそれだけだった。
本当の戦いは、むしろここからだった。
◇◇◇
相良城。
評定の間には久しぶりに重臣たちが揃っていた。
源左衛門、岩倉、宗春、楓、ガロン、リシア、そして大坂屋権蔵までいる。武士、忍び、海賊、異国の娘、大商人。かつての相良家では考えられない顔ぶれだった。
源左衛門が静かに口を開く。
「まずは勝利を祝うべきでしょうな」
その声には安堵があった。老臣として、城が守られたことを喜ばぬわけがない。だが宗春はすぐに首を振った。
「喜ぶのは少々早計かと」
いつもの飄々とした調子ではなかった。
「敵は退いただけです」
室内の空気が引き締まる。
信綱の撤退は敗走ではない。包囲を解いたのは、無理に城を落とすより大きな盤面へ移るべきだと判断したからだ。あの整然とした引き際を見れば、それは誰にでも分かった。
悠真は地図を見つめていた。
港。
城。
黒峰領。
中央平原。
そして東雲・朝倉連合軍の進路。
戦場は次の形へ移りつつある。
◇◇◇
「黒峰様より書状です」
楓が懐から書状を取り出した。
宗景からのものだった。
封を開くと、中には太い筆跡で短く一言だけ書かれていた。
『集まった』
悠真は思わず苦笑した。
「短いな」
「相も変わらず宗景殿らしいですな」
宗春も呆れたように言う。
だが、その一言だけで意味は十分だった。
敵主力が集まった。
東雲軍。
朝倉軍。
そして朝倉義康。
さらに東雲景隆と信綱。
敵の駒が揃ったということだ。
権蔵が低く唸った。
「商いで言うなら、大口の勝負でございますな」
「賭け金は領国そのものだがな」
ガロンが笑う。
しかし誰も笑い返さなかった。
◇◇◇
数日後。
黒峰城。
再び軍議が開かれていた。
前回よりも空気は重い。
それは兵数だけの問題ではなかった。敵将の名が重いのだ。
宗景。
義隆。
黒峰家重臣たち。
そして悠真。
全員が地図を囲んでいる。
中央平原。
黒峰領と朝倉領の境界に広がる広大な土地。
そこへ敵軍が集結していた。
「兵数は」
宗景が問う。
家臣が答える。
「朝倉軍五千」
「東雲軍七千」
「合わせて一万二千」
分かっていた数字だった。
だが改めて聞くと重い。
対するこちらは黒峰軍三千五百、相良軍七百、ガロンの海賊団五百。総数四千七百。
三倍近い差だった。
まともに平原でぶつかれば押し潰される。
それは誰の目にも明らかだった。
宗景が悠真を見た。
「相良の」
またその笑みだった。
「どうする」
悠真は地図を見た。
平原。
川。
森。
湿地。
街道。
補給路。
そして遠く離れた海。
全てを頭の中で繋げる。
「戦う場所を変えます」
静かな声だった。
「敵は平原を望んでいます」
当然だった。
数で勝る。
騎馬も多い。
広い場所で展開できれば、東雲・朝倉連合軍の力は最大限発揮される。
「だから平原では戦わない」
義隆が眉を上げる。
「ではどこで戦う」
悠真は中央平原の西側を指差した。
大河。
その周囲に広がる湿地帯。
森と小さな丘陵。
大軍が展開しづらく、騎馬の機動力も削がれる場所だった。
「河川地帯です」
宗春が小さく頷く。
「兵数差を消すなら、そこしかありませんな」
宗景は楽しそうに笑った。
「いい。実に嫌らしい」
褒めているのか貶しているのか分からない。
だが宗景の目は本気だった。
◇◇◇
同じ頃。
東雲軍本陣。
景隆もまた地図を見ていた。
その横には信綱が控えている。
朝倉義康の使者もいる。
「相良悠真は平原へ出ぬ」
景隆は静かに言った。
家臣たちがざわつく。
「なぜそう言い切れます」
「出れば敗北は必至だからだ」
あまりにも当然の答えだった。
景隆は地図の西側へ視線を移す。
河川地帯。
湿地。
騎馬には不向き。
大軍にも不向き。
つまり、少数が多数を相手にするための場所。
「奴ならそこを選ぶ」
信綱も頷いた。
「合理的です」
「だから行く」
景隆の言葉に家臣たちは息を呑む。
不利な地形へ自ら入る。
常識なら避けるべきだ。
だが景隆は違った。
「相手が用意した盤に乗るのもまた戦だ」
老将の目は鋭い。
「ただし、盤の端を壊す」
信綱だけがすぐに理解した。
「港ですか」
景隆は頷いた。
「相良悠真の強さは兵ではない。金と人の流れだ」
港があるから商人が来る。
港があるから兵糧が集まる。
港があるから海賊を味方にできる。
ならば、そこを潰せばよい。
「決戦と見せて、港を焼く」
景隆は淡々と言った。
それは攻撃ではない。
相良家という新興勢力の心臓を切り取る策だった。
◇◇◇
黒峰城。
軍議は終盤に差しかかっていた。
兵の配置。
誘導路。
湿地帯への進出。
黒峰軍と相良軍の連携。
一つ一つを決めていく中で、悠真だけが沈黙していた。
違和感があった。
河川地帯を選ぶ。
それは正しい。
だが正しすぎる。
東雲景隆がそれを読まないはずがない。
ならば景隆はどうする。
不利を承知で乗るか。
乗らないか。
いや。
あの老将なら、乗った上で別の場所を突く。
悠真の視線が地図の端へ流れた。
海。
港町。
相良港。
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「……まずい」
室内の視線が一斉に集まる。
宗景の目が細くなった。
「何に気付いた」
悠真は立ち上がり、地図の端を指差した。
相良港。
「敵の狙いは決戦だけじゃない」
宗春の顔色が変わる。
楓も気付いた。
権蔵が息を呑む。
「港でございますか」
「そうだ」
悠真は頷いた。
相良港はただの港ではない。
相良家の財源であり、交易の窓口であり、兵糧の集積地であり、外の世界と繋がる唯一の心臓だった。
港があるから金が入る。
商人が集まる。
職人が増える。
船が来る。
そしてガロンたち海の戦力も動かせる。
そこを焼かれれば、相良家は勝っても死ぬ。
「東雲景隆は」
悠真は静かに言った。
「俺たちを河川地帯に引きつけて、その間に港を潰す気だ」
評定の間が沈黙した。
やがて宗景が笑った。
低く、楽しげに。
「景隆らしいな」
「流石は東方最強ですね」
悠真も笑う。
苦い笑みだった。
敵は強い。
本当に強い。
だからこそ、面白い。
◇◇◇
同時刻。
東雲軍本陣。
景隆の前には一枚の海図が広げられていた。
その横に立っているのは見慣れない男だった。
海賊衆。
名を黒鮫のバルドという。
南海沿岸を荒らしていた賊で、ガロンとは古い因縁を持つ男だった。
「準備は」
景隆が問う。
バルドは歯の欠けた口で笑った。
「任せな。相良の港なんざ一晩で灰にしてやる」
その声は濁っていた。
海と血と酒に焼けた声だった。
景隆は頷く。
戦とは兵だけではない。
金。
商人。
船。
兵糧。
そして人心。
勝つためには、相手の力が生まれる場所を潰せばいい。
「ただ蹂躙すればよい」
景隆は静かに言った。
「相良悠真が築いたものを、民の目の前で燃やせ」
バルドが笑う。
その笑いは夜の海より暗かった。
相良港最大の危機が、静かに近づいていた。




