第三十四話 東雲信綱
第三十四話 東雲信綱
炎が夜空を赤く染めていた。
川を流れてきた火船と燃える木材によって兵糧庫は炎上し、東雲軍の陣地は混乱の渦に包まれている。夜襲と火災が同時に発生したことで兵たちは右往左往し、怒号と悲鳴が戦場のあちこちで響いていた。
そして、その混乱へ追い打ちをかけるように相良軍が包囲網へ襲いかかる。
「押し込めぇ!」
岩倉の怒声が響く。
相良兵たちは鬨の声を上げながら前進した。
数では劣る。
兵力だけなら勝負にならない。
だが今だけは違った。
東雲軍は混乱している。
城内の兵も呼応している。
包囲網の一角を崩すには絶好の機会だった。
城壁の上からも矢が降り注ぎ、東雲兵たちの足を止める。
火災。
夜襲。
挟撃。
普通の軍なら崩れてもおかしくない状況だった。
しかし――。
東雲軍は崩れなかった。
◇◇◇
「隊列を整えろ!」
怒号が響く。
それは混乱を押し潰す声だった。
兵たちが次々と持ち場へ戻る。
消火隊は火を消し、槍兵は槍衾を組み、弓兵は後方へ下がって射撃位置を確保する。
乱れていた陣形が見る間に再構築されていく。
まるで巨大な生き物の傷口が塞がるようだった。
「立て直しが速いな」
悠真は目を細めた。
普通ならもっと乱れる。
火災は兵の恐怖を煽る。
夜襲は判断力を奪う。
混乱した軍は命令系統が麻痺し、崩壊へ向かう。
だが東雲軍は違った。
揺らいではいる。
しかし折れない。
「東雲信綱です」
宗春が静かに言った。
「景隆の後継者と呼ばれる男です」
視線の先。
本陣の方向を見る。
「軍の統率力が異常なんです。兵が信綱を信じている」
なるほど、と悠真は思った。
東方最強は景隆だけではない。
信綱もまた将だった。
それも一流の。
◇◇◇
東雲軍本陣。
信綱は炎を見ていた。
燃え上がる兵糧庫。
騒ぐ兵たち。
飛び交う報告。
だが表情は変わらない。
「損害は」
「兵糧二割焼失」
「死傷者百余り」
信綱は頷いた。
痛い。
決して軽くはない。
だが戦が終わる損害ではない。
「敵の狙いは」
家臣が答える。
「混乱を利用した包囲突破かと」
「そうだ」
信綱は小さく笑った。
読めていた。
完全ではない。
火船までは予想していなかった。
だが方向性は理解している。
相良悠真は兵力差を埋めるために戦場そのものを変える男だ。
正面から殴り合わない。
相手の強みを消し、自分の土俵へ引きずり込む。
ならば。
こちらも付き合う必要はない。
◇◇◇
「第二陣を出せ」
信綱が命じる。
家臣たちが顔を上げた。
まだ使っていない部隊があった。
予備兵五百。
包囲戦のために温存していた兵力である。
「今ですか」
「今だ」
即答だった。
そして。
さらに言葉を続ける。
「敵将を狙え」
その場が静まり返る。
「相良悠真ですか」
「そうだ」
信綱は地図を見る。
港。
相良城。
黒峰領。
海賊。
補給戦。
全ての中心。
全てを繋いでいる人物。
相良悠真。
「この戦場は奴を中心に動いている」
静かな声だった。
だが確信に満ちている。
「ならば首を取れば終わる」
極めて戦国的な結論だった。
そして合理的でもあった。
◇◇◇
一方。
相良軍。
夜襲は成功していた。
包囲網の一部は崩れ、城内の兵も外へ出ようとしている。
あと一押し。
あと少しで城と外軍が繋がる。
希望が見え始めていた。
「門を開けろ!」
岩倉が叫ぶ。
城壁の上でも歓声が上がる。
その時だった。
「若様!」
楓の鋭い声が飛ぶ。
悠真は即座に振り返った。
敵だ。
東雲軍の一隊。
真っ直ぐこちらへ向かってくる。
迷いがない。
乱戦の中で唯一、目的だけを見て進んでいる。
「狙われてるな」
悠真は苦笑した。
最近本当に多い。
だが当然だった。
自分が相良軍の頭だからだ。
◇◇◇
先頭にいる武将は赤い鎧を纏っていた。
鋭い眼光。
長槍。
馬上でも揺るがない姿勢。
猛将特有の圧力がある。
「東雲信繁」
宗春の顔色が変わった。
「信綱の弟です」
「弟か」
悠真は息を吐く。
厄介な家だ。
兄は知将。
弟は猛将。
景隆の教育が見えてくる。
「相良悠真!」
信繁が槍を向ける。
「首をもらう!」
実に分かりやすい。
そして速い。
騎馬隊が一直線に迫る。
岩倉が前へ出る。
楓も短刀を抜く。
だが間に合わない。
信繁は本物だった。
あと数秒。
それだけで届く。
◇◇◇
その瞬間。
轟音が戦場を揺らした。
全員が振り向く。
何かが飛んできた。
いや。
転がってきた。
巨大な樽だった。
しかも燃えている。
「何だ!?」
信繁ですら目を見開く。
次の瞬間。
樽が爆発した。
土。
火。
煙。
衝撃。
周囲が真っ白になる。
馬が暴れる。
兵が吹き飛ぶ。
突撃隊が止まる。
そして煙の向こうから。
豪快な笑い声が響いた。
◇◇◇
「はっはっはっは!」
ガロンだった。
巨大な斧を肩に担いでいる。
その背後には黒牙海賊団。
さらに燃える樽を転がしている。
完全に海賊の戦い方だった。
武士の戦ではない。
海賊の喧嘩だ。
汚い。
非常に汚い。
だが効果は抜群だった。
「何だこいつらは!」
東雲兵たちが悲鳴を上げる。
煙。
火。
爆音。
混乱。
戦場がさらに掻き回されていく。
◇◇◇
「本当に自由ですね」
宗春が頭を抱える。
悠真も苦笑した。
だが助かった。
確実に。
「借りができたな」
「酒一樽でいいぞ!」
ガロンが笑う。
「いいだろう」
実に分かりやすい答えだった。
◇◇◇
その頃。
東雲信綱は遠くから戦場を見ていた。
燃える樽。
海賊。
火船。
夜襲。
包囲突破。
どれも兵法書には載っていない。
だが。
どれも効果的だった。
「面白い」
信綱は笑った。
本日二度目である。
家臣が困惑する。
「信綱様?」
信綱は首を振った。
「いや」
刀へ手を置く。
その目は鋭かった。
「久しぶりだ」
炎を映した瞳が細くなる。
静かな声だった。
だが危険な声でもあった。
相良悠真。
黒峰宗景。
海賊王ガロン。
誰もが戦国の常識から外れている。
だから読めない。
だから面白い。
そして。
信綱は決断する。
「包囲を解く」
家臣たちが驚いた。
「なぜです!」
「これ以上は意味がない」
冷静だった。
城は落ちない。
包囲も崩れた。
兵糧も損害を受けた。
ならばここに固執する理由はない。
「父上と合流する」
その一言で全てが決まった。
◇◇◇
夜明け前。
東雲軍は整然と撤退を開始した。
敗走ではない。
戦略的撤退だった。
相良城の包囲戦は終わる。
城壁の上では歓声が上がる。
兵たちは勝利を叫ぶ。
だが。
悠真だけは東雲軍の背を見つめていた。
信綱は負けていない。
勝てる戦を選び直しただけだ。
その先には景隆がいる。
そして朝倉義康もいる。
東雲景隆。
東雲信綱。
朝倉義康。
東方屈指の知将たちが集結する。
対するは。
黒峰宗景。
相良悠真。
海賊王ガロン。
常識を壊す者たち。
乱世最大の決戦は近い。




