第三十三話 包囲網の外側
第三十三話 包囲網の外側
相良悠真の帰還。
その報せは一夜にして相良城全体へ広がった。
疲弊していた城兵たちは、目に見えて活気を取り戻していた。昨日まで沈んでいた顔に血の気が戻り、傷を負った兵までが壁にもたれて笑っている。状況は何一つ好転していない。城は包囲され、敵は二千、こちらは内外合わせても千に届く程度。それでも空気だけは変わっていた。
「若様がお戻りになった!」
「まだ終わっておらん!」
「相良は負けていない!」
城内のあちこちでそんな声が飛び交う。
単純だった。
だが戦とはそういうものだ。
兵糧があっても希望がなければ人は戦えない。逆に希望さえあれば、飢えも疲れも恐怖も一時だけ忘れられる。城壁の上からその様子を見ていた源左衛門は、白髭を撫でながら苦笑した。
「若いというのは、良いものですな」
自分にも覚えがあった。
強い主君がいる。
あの方がいるなら大丈夫だ。
それだけで槍を握る手に力が入った。
今、相良家の兵たちは悠真をそう見ている。
若君は帰ってきた。
ならば、まだ戦える。
それは理屈ではなく、信仰に近いものだった。
◇◇◇
一方、東雲軍本陣は別の意味で静かだった。
東雲信綱は灯火の下で地図を広げていた。
相良城内三百。
包囲の外に現れた相良悠真の兵が七百。
合わせて千。
それでも東雲軍二千には及ばない。数字だけなら優勢は揺るがなかった。だが信綱の表情は険しい。
「面倒だな」
側近たちが顔を見合わせた。
信綱が面倒と言うのは珍しい。それは恐れではない。侮りでもない。冷静に盤面を見た上で、処理に手間がかかると判断した時の言葉だった。
「包囲が完成する前ならよかった」
信綱は地図へ視線を落とした。
「だが今は違う」
相良軍は包囲の外。
城兵は包囲の内。
本来なら分断され、互いに助けられないはずだった。ところが悠真の帰還により、城内の士気が回復した。外から圧力もかかる。無視すれば内外から揺さぶられ、攻めれば包囲の一角が薄くなる。
兵力差はある。
だが、時間が経つほど厄介になる。
「焦る必要はない」
信綱は静かに言った。
「だが放置もできん」
父ならどう動くか。
東雲景隆なら、相良悠真という男をどう見るか。
信綱はしばし地図を見つめた。
そして理解する。
これは単なる包囲戦ではない。
相良悠真が包囲の外にいる限り、城は城だけではなくなる。
内と外。
二つの刃を持つ砦になる。
◇◇◇
その夜。
相良軍野営地では、焚き火を囲むように軍議が開かれていた。
悠真、宗春、楓、ガロン、岩倉、そして城から密かに脱出してきた使者。地図の上には相良城と東雲軍の陣地が描かれ、城を囲むように無数の小石が置かれている。その外側に、悠真たちの兵を示す木片が並んでいた。
「城の兵糧は」
悠真が尋ねる。
使者が即答した。
「およそ一月」
「井戸は」
「問題ありません。水は十分にあります」
悪くない。
すぐに落ちる城ではない。
だが、それは東雲軍も理解している。
宗春が地図を見ながら呟く。
「問題は時間ですな」
「長引けば不利か」
「ええ。こちらは内外合わせて千。向こうは二千。しかも統率するのは信綱です。無理攻めを避け、じわじわ締められれば、いずれ押し切られます」
岩倉が腕を組む。
「なら夜襲か」
宗春は首を振った。
「ただの夜襲では崩れません。相手は東雲信綱です」
東雲景隆の嫡男。
愚将ではない。
夜陰に紛れて突っ込めば崩せるほど甘くはなかった。
沈黙が落ちる。
誰もが地図を見つめた。
城の内と外。
包囲網。
東雲軍本陣。
近くを流れる川。
いくつもの要素があるのに、打開策は見えない。
その時だった。
「簡単じゃねぇか」
ガロンが焼き魚を齧りながら言った。
全員の視線が集まる。
海賊王は、まるで酒場で喧嘩の相談でもするように笑った。
「眠れなくしてやりゃいい」
宗春が眉をひそめる。
「……どういう意味です」
「戦なんてよ」
ガロンは肩を竦めた。
「恐怖した方が負けるんだ。眠れねぇ夜をくれてやれば、どんな兵でも鈍る」
豪快な理屈だった。
だが海賊らしい。
そして、完全に間違っているとも言えなかった。
◇◇◇
「具体的には?」
悠真が問う。
ガロンは地図を引き寄せると、東雲軍本陣の近くを流れる一本の川を指差した。
「これだ」
「川?」
「上流は昔、俺たちが使ってた抜け道に近い。流れも知ってる」
ガロンの指が上流へ動く。
「この辺りに廃材を集める。木材、樽、壊した船板、油を吸わせた布。港を造った時の余りが山ほどあるだろ」
宗春の顔色が変わった。
理解したのだ。
「まさか」
「そのまさかだ」
ガロンは豪快に笑う。
「流してやる」
一瞬、誰も言葉を発しなかった。
川へ木材を流す。
ただし火を付けて。
川そのものを炎の道に変える。
野蛮極まりない。
兵法書には載っていない。
武士の発想でもない。
だが、効果は想像できた。
川沿いに物資集積地があるなら、火はそこへ届く。届かなくとも、夜中に燃える川など見せられれば兵は恐怖する。秩序ある軍ほど、予想外の混乱には一瞬止まる。
宗春が堪えきれず吹き出した。
「ははは……本当に海賊ですな」
「褒め言葉だ」
ガロンは胸を張った。
楓は呆れたようにため息を吐く。
「普通の領主ならやりませんよ」
「常識じゃ勝てない」
悠真はそう言って笑った。
そして即座に決断する。
「採用だ」
◇◇◇
深夜。
東雲軍本陣。
信綱はまだ起きていた。
包囲戦は順調だった。相良城は孤立し、相良悠真も外から圧力をかける以上の決定打を持っていない。城の兵糧はあるだろうが、時間をかければこちらが有利になる。信綱はそう判断していた。
だが、ふと風向きが変わった。
鼻先を掠める違和感。
焦げ臭い。
微かな臭いだった。
信綱が眉をひそめる。
次の瞬間。
見張りの叫びが夜を裂いた。
「火です!」
本陣が騒然となる。
信綱は即座に外へ出た。兵たちも空を見上げる。誰もが最初は火矢かと思った。あるいは夜襲による放火かと。
だが違った。
川が燃えていた。
◇◇◇
上流から流れてくる無数の炎。
燃える木材。
燃える樽。
油を纏った火の塊。
それらが川面を埋め尽くし、黒い水の上を赤く滑ってくる。
まるで炎の洪水だった。
「馬鹿な……!」
兵たちが叫ぶ。
誰も予想していなかった。
火は川沿いの物資集積地へ到達する。兵が水をかけるより早く、油を吸った木材が岸へ引っかかり、積まれていた飼葉へ燃え移った。次いで資材置き場、兵糧庫の外壁、荷車の列。
轟音。
火柱が夜空へ立ち上る。
悲鳴。
怒号。
馬の嘶き。
消火の命令と退避の叫びが重なり、東雲軍の秩序が大きく揺らいだ。
◇◇◇
その瞬間だった。
「今だ!」
悠真が立ち上がる。
待っていた。
まさにこの瞬間を。
「全軍前進!」
七百の兵が動いた。
鬨の声が夜を震わせる。
ガロンは斧を担いで笑う。
「暴れるぞ、野郎ども!」
海賊たちが歓声を上げる。
楓は短刀を抜き、宗春は苦笑しながらも兵をまとめた。
「本当にやるんですね」
「当たり前だ」
悠真は敵陣を見た。
戦力差は埋まらない。
ならば、戦力差が意味を持たない状況を作る。
混乱。
恐怖。
疲労。
不眠。
それらを積み重ねる。
景隆が戦場を変えたように、今度は悠真が戦場そのものを壊す番だった。
◇◇◇
同時刻。
相良城。
城壁の上から源左衛門たちは遠くの炎を見ていた。
夜空を赤く染める巨大な火柱。
そして、城外から聞こえてくる相良軍の鬨の声。
「若様だ」
誰かが呟いた。
城兵たちが笑った。
源左衛門も思わず口元を緩める。
分かっていた。
帰ってきた以上、何かをやる。
それも常識外れのことを。
それが相良悠真という男だった。
「門を開く準備をせよ」
源左衛門は静かに命じた。
「若様が道を作る。ならば我らは応える」
城兵たちの顔に再び力が宿った。
◇◇◇
東雲軍本陣。
信綱は燃え上がる物資集積地を見つめていた。
怒りはある。
当然だ。
だが、それ以上に興味が湧いていた。
「なるほど」
小さく呟く。
ようやく理解した。
父がなぜ相良悠真を警戒するのか。
相良悠真は強いわけではない。
兵も少ない。
領地も小さい。
だが、戦い方が異質だった。
戦国武将の発想ではない。
兵を強くするのではなく、相手の軍を弱くする。
勝てる場所を作るのではなく、相手が嫌がる場所へ変える。
だから読みにくい。
そして、読めない敵は危険だ。
信綱は静かに刀を抜いた。
夜空の炎が刃に映る。
「面白い」
その目が鋭く細まる。
東雲信綱。
相良悠真。
知将と知将。
二人の戦いは、ようやく同じ盤上へ上がった。




