第三十話 港を餌にせよ
東雲軍七千。
その報せは相良領全土を震撼させた。
春を迎えたばかりの田畑には重苦しい空気が漂い、農民たちは鍬を持つ手を止めて空を見上げた。市場では商人たちが商品の整理を始め、職人たちも仕事に身が入らない。
無理もない。
相良家の総兵力は四百。
黒峰家から援軍を得たとしても四千に届くかどうか。
対する東雲軍は七千。
しかも率いるのは東雲景隆。
東方最強。
数十年に渡って敗北を知らぬ老将だった。
評定の間にも重苦しい空気が満ちていた。
家臣たちは皆、地図を前に黙り込んでいる。
沈黙を破ったのは宗春だった。
「普通なら終わりですな」
苦笑混じりの言葉に誰も反論しない。
戦力差だけを見れば絶望的だった。
だが、その中でただ一人。
悠真だけが冷静に地図を見つめていた。
港。
海岸線。
河川。
街道。
補給路。
そして東雲軍の進軍経路。
前世でゲーム内で何度も見た戦略図と変わらない。
兵は戦うために動くのではない。
それを忘れた軍は必ず滅ぶ。
「若様」
源左衛門が静かに口を開いた。
「本当に戦うおつもりですか」
悠真は地図から目を離さないまま答えた。
「戦わない」
室内が静まり返った。
家臣たちが顔を上げる。
「では……」
「勝手に戦わせる」
意味が分からない。
そんな表情が並ぶ。
悠真はゆっくり地図の一点を叩いた。
相良港。
建設中の港町だった。
「東雲景隆は必ずここを狙う」
誰も異論はなかった。
港は相良家最大の事業だ。
交易の要。
財源の柱。
未来そのもの。
だからこそ潰す価値がある。
「なら利用する」
悠真は静かに言った。
「港を餌にする」
その言葉に評定の間が凍りついた。
◇◇◇
その日の午後。
海風の吹く港町。
建設途中の桟橋を見渡せる高台で、悠真はガロンと向かい合っていた。
海賊王は腕を組み、愉快そうに笑う。
「つまり港を囮にするってことか」
「そうだ」
「完成間近の港を?」
「そうだ」
常識ならあり得ない。
莫大な資金。
数多の労働力。
未来への投資。
それを餌にする。
正気ではなかった。
だからこそ相手は信じる。
ガロンはしばらく黙ったあと、豪快に笑った。
「気に入った」
大きな手で地図を叩く。
「説明しろ」
悠真は地図を広げた。
港の南側。
入り組んだ海岸線。
浅瀬。
岩礁地帯。
そして複雑な潮流。
隣ではリシアが補足する。
「この海域は危険です」
白い指が海図をなぞる。
「大型船は迂回しなければなりません」
「知らなければ座礁する」
ガロンが笑う。
海を知る者だけが使える天然の要害だった。
「東雲軍が港を攻める」
悠真は言う。
「そこへ海からお前たちが現れる」
「面白ぇ」
「ただ暴れるだけでいい」
「得意分野だな」
海賊たちの笑い声が響いた。
◇◇◇
同じ頃。
東雲軍本陣。
東雲景隆は軍列の先頭を進んでいた。
白髪交じりの老将は馬上から静かに周囲を眺めている。
「相良領まであと五日」
家臣が報告する。
景隆は頷いた。
「港はどうなっている」
「建設中とのこと」
「そうか」
短い返答だった。
だが、その目は鋭い。
港。
交易。
海賊。
商人。
近年急速に力を付け始めた相良家の中心。
そこを潰せば全てが崩れる。
戦とは相手の強みを砕くことだ。
「焼く」
景隆は言った。
「港ごと」
家臣たちが頭を下げる。
それで終わる。
誰もがそう思っていた。
◇◇◇
三日後。
黒峰城。
宗景は酒を飲みながら報告を聞いていた。
そして大声で笑う。
「港を餌にするか」
義隆が呆れた顔をする。
「正気とは思えませんな」
「だから面白い」
宗景は笑った。
戦場では常識を疑った者が勝つ。
常識に縛られた者から死んでいく。
若き相良領主はそのことを理解している。
だから面白い。
「全軍を南へ動かせ」
「御意」
黒峰軍三千五百が動き出した。
だが表向きは相良救援。
真の目的を知る者は少ない。
◇◇◇
さらに二日後。
東雲軍は相良領へ侵入した。
七千の軍勢。
旗が空を覆い尽くし、大地を埋める。
その進軍はまるで黒い津波のようだった。
しかし。
村は静かだった。
民はいない。
家畜もいない。
食糧もない。
抵抗もない。
「逃げましたな」
家臣が笑う。
当然だった。
四百で七千を止められるはずがない。
だが景隆だけは違った。
「静かすぎる」
老将は馬上から周囲を見回した。
妙だった。
妨害がない。
奇襲がない。
抵抗がない。
何もない。
それが逆に不自然だった。
「殿?」
「気を付けろ」
景隆は短く告げる。
長年戦場を生き抜いてきた勘が警鐘を鳴らしていた。
◇◇◇
翌日。
港町。
東雲軍先鋒が到着した。
巨大な倉庫。
新設された桟橋。
整備中の市場。
そして停泊する船。
誰が見ても価値のある場所だった。
「本当に捨てたのか」
将兵たちが笑う。
守備兵はわずか。
抵抗もない。
簡単すぎた。
「焼け!」
命令が飛ぶ。
兵たちが動き出した。
その時だった。
海から重低音が響く。
ブオォォォォォォォ――!!
角笛。
全員が海を見る。
水平線の向こう。
黒い帆が現れた。
十。
二十。
三十。
数え切れない。
波を切り裂いて進む船団。
その先頭。
船首に立つ大男が巨大な斧を掲げる。
海賊王ガロンだった。
「よう!!」
豪快な笑い声が海を震わせる。
「歓迎してやるぜ!!」
海賊たちが鬨の声を上げた。
その数五百。
海そのものが牙を剥いたかのようだった。
◇◇◇
東雲軍本陣。
報告を聞いた景隆は静かに目を閉じた。
海賊。
予想外だった。
だが五百程度なら脅威ではない。
そう判断した瞬間。
次の報告が飛び込む。
「北方より黒峰軍接近!」
景隆の目が開く。
さらに続く。
「西方街道にて補給隊襲撃!」
「南部河川の橋が破壊されました!」
「各地で狼煙が確認されています!」
次々と届く報告。
どれも決定打ではない。
だが。
全てが繋がっていた。
景隆は静かに笑った。
理解したのだ。
相良悠真。
あの若き領主は最初から決戦する気がない。
港は餌。
海賊は牙。
黒峰軍は槌。
補給襲撃は鎖。
少しずつ。
確実に。
七千の軍勢を絡め取ろうとしている。
「なるほど」
老将は呟いた。
「面白い」
◇◇◇
港を見下ろす高台。
悠真は遠くの東雲軍を見つめていた。
隣には宗春。
楓。
リシア。
そしてガロン。
奇妙な顔ぶれだった。
「若様」
宗春が笑う。
「始まりましたな」
「ああ」
悠真は頷く。
東方最強。
東雲景隆。
正面からぶつかれば勝てない。
だが戦争は力比べではない。
兵の数だけで勝敗は決まらない。
前世で学んだ。
戦力差を覆す方法を。
悠真は遠くの軍勢を見据えながら静かに言った。
「戦争はな」
風が吹く。
港の旗が揺れる。
「相手の嫌がることをした方が勝つ」
その言葉に全員が笑った。
そして。
東方最強の老将と。
転生領主・相良悠真。
二人の本当の戦いが幕を開けた。




