第三話 蔵を開け
城へ戻った悠真は、その足で評定の間へ向かった。
重臣たちはすでに集まっている。
家老の藤堂源左衛門を筆頭に、勘定奉行、侍大将、城代など相良家の中核を担う者たちだ。
だが、その空気は重い。
誰もが困惑していた。
無理もない。
昨日まで酒と遊郭にしか興味のなかった若様が、突然領地を視察し、農民を助け、評定を開けと命じたのだから。
「皆、集まったな」
上座へ腰を下ろした悠真が口を開く。
重臣たちは顔を見合わせた。
「まず聞きたい」
悠真は机に置かれた帳面を叩いた。
「相良家の蔵には米がどれだけ残っている」
勘定奉行の山内が答える。
「三か月分ほどにございます」
「借財は」
「およそ二千両」
予想以上だった。
石高二万石の小勢力としてはかなり危険な額である。
「今年の収穫予想は?」
「凶作かと」
評定の間が静まり返る。
誰も希望を口にしない。
口にできないのだ。
現実が厳しすぎる。
悠真はゆっくりと帳面を閉じた。
「なるほど」
そして言った。
「蔵を開け」
全員が固まった。
「……は?」
勘定奉行が聞き返す。
「聞こえなかったか」
悠真は静かに続けた。
「備蓄米を放出する」
一瞬。
空気が凍った。
「なりませぬ!」
最初に声を上げたのは山内だった。
「若様、それだけはなりませぬ!」
「理由を言え」
「備蓄を放出すれば我らが飢えます!」
「民も飢えている」
「ですが!」
「今のままでは冬を越せん」
悠真は冷静だった。
城下で見た光景が頭から離れない。
痩せ細った子供。
病に苦しむ母親。
絶望した農民。
彼らは既に限界だった。
「領民が死ねば田畑は誰が耕す」
誰も答えない。
「農民が逃げれば税は誰が納める」
沈黙。
「民がいなければ国は成り立たん」
重臣たちは言葉を失った。
そんな発想を聞いたことがなかった。
戦国時代の常識では、民は支配される存在でしかない。
だが悠真は違う。
前世で組織というものを知っていた。
土台が崩れれば上は立たない。
それだけの話だ。
「蔵を開く」
再び宣言する。
「ただし無償ではない」
重臣たちが顔を上げた。
「働いた者へ配る」
「働いた者?」
「そうだ」
悠真は頷いた。
「用水路の整備」
「農地の開墾」
「街道の補修」
「その対価として米を支給する」
源左衛門の目が見開かれる。
それは施しではない。
労働への報酬だ。
「なるほど……」
家老が小さく呟く。
悠真は続けた。
「民は食える」
「領地は整備される」
「春の収穫も増える」
「一石三鳥だ」
もちろん現代の公共事業そのものである。
だが、この時代には存在しない発想だった。
評定の間にざわめきが広がる。
「しかし米が足りませぬ」
侍大将の一人が言った。
「働く者全員に配ればすぐ尽きます」
「だから次をやる」
悠真は笑った。
その笑みに重臣たちは少しだけ不安を覚える。
嫌な予感がした。
「商人を呼べ」
予感は的中した。
「商人?」
「近隣の商人をすべて集めろ」
「な、何をなさるおつもりで」
「金を借りる」
全員が頭を抱えた。
借金は既に二千両。
さらに増やすのか。
だが悠真は平然としていた。
「借金は悪じゃない」
前世で嫌というほど聞いた言葉だ。
問題は使い道。
未来へ投資する借金なら価値がある。
「田畑が復活すれば返せる」
「商売が活発になれば返せる」
「返す当てもなく借りるわけじゃない」
重臣たちは顔を見合わせる。
理解はできない。
だが不思議と説得力があった。
「若様」
源左衛門が口を開く。
「ひとつ、お尋ねしても?」
「何だ」
「なぜ、そこまで領民を気にかけるのです」
静かな問いだった。
評定の間の全員が答えを待つ。
以前の悠真なら絶対に言われなかった質問だ。
悠真は少しだけ考えた。
そして素直に答える。
「当たり前だからだ」
「……当たり前?」
「民が笑えない国に未来はない」
誰も言葉を返せなかった。
戦国武将らしくない。
甘い考えかもしれない。
だが、その言葉には不思議な力があった。
源左衛門は深く頭を下げる。
「承知いたしました」
それに続くように重臣たちも頭を下げた。
「若様の命、謹んで承ります」
悠真は静かに頷く。
第一歩だ。
まだ何も変わっていない。
借金もある。
兵も少ない。
敵国もいる。
だが少なくとも、動き始めた。
そしてその日の夕方。
城下に一つの知らせが広がる。
『若様が蔵を開く』
その噂は瞬く間に領内を駆け巡った。
信じる者はいなかった。
だが翌朝。
城門前に積まれた米俵を見た領民たちは言葉を失う。
そして少しずつ。
本当に少しずつ。
相良家に失われていた希望が戻り始めていた。
その頃。
相良領の北。
隣国・黒峰家。
一人の男が報告を受けていた。
「ほう」
鋭い目を持つ壮年の武将。
黒峰家当主・黒峰宗景。
後に相良家最大の敵となる男である。
「放蕩息子が変わった、と?」
家臣が頷く。
「はい」
宗景は静かに笑った。
「面白い」
その目には獲物を見つけた猛獣の光が宿っていた。
「少し観察してみるか」
こうして。
滅亡寸前の弱小領地と、周辺最強の戦国大名。
後に乱世を揺るがす戦いの幕が、静かに上がろうとしていた。




