はばみわらうもの_9
蜘蛛女の回収を確認し、ニヤァァアと裂けるほどに唇を引き上げた倉橋は軽く帽子を上げる。
「それでは、わたしはこの辺で。失礼します」
後ろ向きに歩き出した男は、危なげなく細い転落防止フェンスの上に立って両腕を広げる。
「ああ、それから小南伽奈さん」
小さく小首をかしげて、倉橋は何故かとても柔らかく笑った。
それまでの薄気味悪い雰囲気など全くない笑顔に驚きを隠しきれない。
「バケモノに魅入られている『人間』である貴方のことは、わたしが必ず救って差し上げますからねェ……? ご安心ください。また、お会いしましょう」
それでは、と頭を下げて、そのままためらい一つなく背中から落ちていく。ヒッ、と悲鳴を上げた私を引き寄せながら七央は「あーあ」と呟いた。
「持ってかれちゃったね」
「そんな他人事みたいに……良かったの?」
「まあ、今日のオレはあれどうしようもなかったし」
「っていうか、あの倉橋って人、飛び降りたけど」
「いつもあんな感じに去ってくけど、すぐに邪魔しに来るから。気にしなくても、あれくらいじゃ死なない」
あの人は、人間なの? という私の疑問に、七央はやっぱり「知らない」と答えた。
「どういう関係?」
「……オレにもいろいろあるの」
聞かないで、と顔を背けられてはそれ以上問い詰められない。こうなると、いくら聞いても無駄だろう。七央は基本的に説明とか得意じゃないのもあって、あれこれ聞かれるのが好きじゃない。それに今は、私にも他に気になるものがあった。
――達也とヒナさんは、どうなったのかしら。
彼らを探して視線を巡らせれば、屋上に座り込んだ達也がヒナさんを膝に寝かせるようにして背中を丸めているのを見つけた。ヒナさんは大丈夫? と心配になって七央を引っ張って彼らに近付く。もう危険はないと判断したのだろうか、ザックはその場から動かない。
「達也」と声を掛けた瞬間。気を失ったかのようだったヒナが目を限界まで見開くとグリンッと顔をこちらへ向けた。
重力を無視したような動きで真っ直ぐ起き上がる。すぐに七央が反応して私を引っ張った。目の前にザックの背中が現れる。
「下がってて……アレまだ動くのかよ。しつけぇ。クソ面倒臭ぇなあ」
かなり苛立った様子で、片手で斧をクルクルと回している。
「んで? 今度はカナにどんな言いがかりつけんの?」
『サッサト カレヲ……カイホうシテ……!』
「ヒナ……」
『オマエガ カレをそクバクスルかラ』
「……はい?」
なによそれ。
そんなことした覚えはない。
私がいつ達也を束縛したっていうの?
ヒナの勝手な言い分に呆気にとられる。
ザックも鼻で笑って、言いたいことはそれだけか、だなんて煽る。
『イツ……モ カレはイッテタ カナがハナシテクレナイ……ッて』
なによそれ。なにそれ。
私? 私がいけないの? 彼女にとって、達也にとって、悪者は私なの?
いつから? なんで? 私、あの人たちになにをした?
待ってよ、なにそれ。
「ヒナ、いやそれは」
さすがに達也も気まずそうな顔で私を見ていた。
ああ、なるほどね。そういう設定で慰めて貰ってたんだ。甘やかしてもらってたんだ。それが心地いいから設定引っ張ってたんだ。へえ……
目がジトリと半開きになった。
『アンタ、ガサッサとワカレないカラ! 分かれタラケッコンしてクレルッテイッてルのニ! ハヤクあきらメてよッ!!』
「…………」
――へえ、結婚……かあ。
すーっと全ての感情が消えていく。表情もなくなっていくのがわかった。
ちらりと顔だけで振り返ったザックは私の顔を見て、そのまま表情を変えずに正面に向き直る。後ろの七央からは、だから言ったじゃないか、みたいな空気が駄々漏れてくる。
あんなに私との結婚話は渋ってたのに。いつだって嫌な顔をしていたのに。一体、どんな顔で彼女にはそんな話をしていたんだろう。私には、ついぞ見ることのない表情だったんだろうな。
ああもう。本当に私なんてどうでもよかったんだな、この人。私とは縁がなかった。ただ、生活するのに一緒なら家事もやってもらえて便利だったというだけ。腐れ縁でも、縁あった故の情でもなかった。
なのに、ただの名称でしかない関係だけに、そんなのに固執して。それだけで好きだと、彼となら幸せになれるんじゃないかなんて思いこもうとして。馬鹿みたいだ。私、どこまでも馬鹿だ。ツン、と鼻の奥が痛くなった。
「カナがその男と別れたら、あんたは願いが叶うわけ?」
ザックがヒナに話しかける。歯茎を剥き出しにしたヒナに肩をすくめて「オーケー」ともう一度クルリと斧を回した彼は私を振り返る。
「だってさ。どう? 踏ん切りついた? ねえ、泣くための胸ならここにあるからさ。いつでも呼んでね。可能な限り駆けつける」
どこまでも優しいザックの声に、喉が震えそうになる。
――こんな風に優しくされたらほだされてしまう。
そんなの、きっと良くないのに。
ゴキッと首を鳴らしたザックが大きな一歩でヒナに近付き、そのまま腹部に左手を突き立てる。グチュ、と嫌な音がした。
ひくりと頬が引きつれる。
ザック、なにを、してるの……?
たった今、私に優しく話しかけてくれたひとの行動とも思えない。
『ギャァッ!』
「なにすんだお前!」
「あ゛ァ? 黙れよ人間。俺はお前じゃない。大切な人との約束は破らねえよ」
悲鳴を上げるヒナと、庇おうとする達也。それを冷たい視線で見下ろしたザックは唇をほぼ動かさずに凄んで。グッと腕に力を入れると、勢いよくヒナの身体から引き抜いた。
ズルリ、と引きずり出されたのは歪な形の女の影。
がっくりと力を無くして膝をつくヒナの身体を達也がしっかりと抱き留めた。彼女の身体にもうあの黒い塊はくっついていない。全てザックが取り出したようだった。
達也に呼びかけられたヒナがうっすらと目を開ける。彼女の身体に傷はない。
「良かった。良かった……! 無事なのか!」
「タツヤ……!」
ぎゅうっと抱き合っている二人はどう見ても恋人同士だ。やっぱり、どこかの物語のヒーローとヒロインみたいな雰囲気を出してくれちゃってる。ズキズキと、胸だとか掴まれてた腕だとか打ち付けた身体のいたるところが痛い。
ああ、私って――
「だいぶ削れたなぁ」
ザックが掴んだ影を見て唸り、「まあいいか」と言って先日も聞いた文言を口にした。
「供物よ汝に幸いあれ。歓喜のままに糧と成れ。――その身を捧げよ、Hallelujah」
早口で一気に唱えれば、彼の手の中で影が小さく丸まる。最初に見た時みたいなあのテンションで叫ぶ必要はないのね、なんて、変なことが気になった。
「あー。胎ん中入れたくねえなぁ……コレ……」
うえ、と舌を出して嫌な顔をしながら、上を向いたザックはそれを飲み込むように口を開けた。




