はばみわらうもの_3
ふ、と影に覆われる。
「……掴まえた」
ぎゅうっと強く頭から抱き締められた直後、ドンッと衝撃が身体に伝わった。
ごふっ、と頭上で苦しそうな声がする。それでも、私を抱き締める力は抜けない。痛いくらいに強く抱き締められている。耳元にかすれた声が聞こえる。
「ねえ、君は俺が守るって言ってるんだからさ……呼んでよ。そしたら、どこからでも飛んでくから」
いってぇ、と呻いたひとの、日に焼けた素肌が目の前にある。
「ば……なっ、なに……っ」
「ああ、無事かい? 良かった。あの犬野郎に邪魔されてさ、間に合わないかとさすがに血の気が引いたよ」
「ザック……やだ、やだちょっと……」
あの高さから叩きつけられて無事なはずがない。私には傷一つなさそうなのが奇跡的なくらいで。
「姫が大事にならなくて良かったぁ……」
「ザック?! あなたは?!」
「ん、んふふっ……やっばい。カナが俺の名前呼んでくれてる。凄ェ嬉しい。ねえ、もっと呼んでよ」
「ちょ、それどころじゃないでしょ?! 怪我、怪我は?」
「んー……? わかんない」
彼の腕から力が抜ける。慌てて身体を起こしてみれば、ザックの背中の辺りから血が流れてきていた。彼の血だ、と全身が冷たくなる。
ごほっと咳をすれば派手に血を吐く。これは、内臓までヤられてるってこと……?
「いやだ――ザック、ザック! ねえ」
どうしよう、と涙が浮かぶ。ゆっくりと彼の腕が上がって私の涙を拭う。
「だからさ、泣くなら俺の胸でって言ったじゃない。おいで」
「それどころじゃないでしょ!」
ふふ、と幸せそうに笑ったザックは「アイツと別れなよ」なんて言ってくる。
「カナのこと、一切助けようとしなかった男なんてさ、やめなよ。それにさ、どう見たって俺の方が良い男だと思わないか?」
合間合間に咳をして、唇から血が伝う。それは私の知っている彼の声よりもだいぶ弱弱しかった。
抱き起こそうとすれば「血がつくから」と止められた。
「やっぱり忘れてるみたいだから言うけど」
ザックは薄く笑いながら腕を持ち上げる。
「ほら、腕も、もう治ってんだよ」
「……?」
「昨日の傷。もうないでしょ。俺、人間じゃないし、傷なんてすぐ治るから心配しないで。この程度じゃ死なないよ」
「そう言っても、でも、だって」
どう見たって、大丈夫そうには見えない。顔色も悪い。まだ足元に血溜まりは拡がり続けている。なんとか止血だけでもしなきゃ。ああ、でも今はなにも手持ちがない。どうしよう。
「なにか、私に出来ること……ないの?」
「なんでもしてくれるのかい?」
狼狽える私の頬を撫でたザックは少しだけ悩んで、身体を起こそうとした。痛みに顔をしかめた彼を止めようとするけど、大丈夫だと言って上半身を起こしたくせに、ぐらりと傾いで額を押さえる。
「あ、ヤバ……血が足りない」
「当たり前でしょ! 動かないでっ」
「ははっ、心配してくれるんだ? 優しいなあ」
本気でバカなんじゃないかと腹が立ってくる。これだけの大怪我で、貧血まで起こしてて、どうして本人はこんなに平然としているのか。こんな状態じゃなければひっぱたいてやりたいほどだ。
「ね、本当に何でもしてくれる?」
なんでこの状況でそんな声が出せるんだ、というくらいに甘い声で囁く。
「ものによる、けど」
「あはは、本当に正直だね。そういうところも好き」
彼の隣にぺたりと座り込んでいる私の顔を覗いて、楽しそうに輪郭を撫でてくる。触らないで、とも言えないでいると、そっと顔を寄せてきた。
「じゃあさ、キスして?」
「っ! あ……」
それは――できない、に入る。でも、彼がこんな大怪我をしたのは私のせいで。だから、でも。逡巡する私を見てザックは笑顔を作った。
「なんてね。嘘だよ。彼氏いるんだもんね、まだ。それに今俺の口ん中血だらけだからさ。思い出の初キスが血の味ってのはイケてなさすぎるから俺も嫌だ」
含み笑いで彼は髪を掻き上げた。
「おでこで良いや。今はそこで我慢する」
はい、と待機顔をされる。これは、そこにキスしろって言われてるのかしら。まだ顔色も悪いのに何を言っているんだろう。
「今そんなこと言ってる場合じゃないでしょ?」
「昨日も言ったじゃないか。愛の力で治すからって。ほら」
ためらっていると、ザックは私のあごに手をかけると軽く上を向かせる。なにをするのかと思えば、顔を下げて額を私の唇に押し当ててきた。なんて強引な、と呆れて怪我人を強く押し返してしまう。間近に見えた彼の顔は、またとろけそうなくらいに幸せそうで見ているこちらが恥ずかしくなる。
「よし。治った!」
「……は?」
「さあ、あの蜘蛛ヤっちまおうか」
ぴょん、と効果音がしそうな勢いで飛び起きたザックは「うわあ、背中血だらけじゃん。最ッ低」なんて嫌な顔をする。それは、大怪我をしている人の動きには見えない。目の前の出来事が理解できずに頭の中が真っ白になりかける。
立ち上がって、薄明りの中で目を凝らす。
本来なら、あの高さから瓦礫の上に叩きつけられたのだから背中の表面がグチャグチャでもおかしくない。むしろそちらの方が自然だ。なのに、血の跡はあるけれども彼の背中はつるりと綺麗な肌で。信じられなくて指先で上から下まで背骨に沿って辿ってしまう。
「っ、ん……ちょっと、カナ? それヤバいからやめて」
「あ、ごめ……」
勘違いするよ、と笑い混じりに言われて手を離す。指先には血がべっとりとついてしまった。でも、そこにあった感触は、間違いなく傷一つない滑らかな肌だった。血を吐いていたくらいなんだから内臓も傷付いたのだろう。あの高さから落ちたんだから骨だって折れたりしていただろうに、そんな雰囲気は全くない。顔色も戻っているように思える。
どういうことかと現状を受け入れきれない私に、彼は軽く言った。
「ね。治ってるだろ。血も止まってる。貧血も、もう大丈夫」
「……何ですって?」
「だから、俺人間じゃないって言ってるじゃないか」
忘れちゃ駄目だよ、と暗い部屋の中でザックの瞳がゆらりと輝いたように見えた。




