ナリイズルモノ_5
けどそんな擦り傷だらけの達也よりきっと、唇も切れて血が滲み、背中の痛みに時折うめいて身体を引きずるように歩いてきた私の方がヒドく見えるだろう。
倉橋は二人の横にひざまずくと、触れそうなくらいにヒナに顔を近付け、目蓋をこじ開けて覗き込む。そんな倉橋を「触るなよ!」と達也が思い切り突き飛ばす。不安定な姿勢でいた倉橋は転ぶかと思いきや一切よろめくこともなく無言で立ち上げる。
彼はまた、首元に下げられた銀の小さな笛を咥える。次に即座に足元に戻ってきた青年を一瞥して、手の甲をヒクヒクと引きつれる唇に押し当てた。
「わたしはね、どっちでもいいんですよォ。もしもし、聞こえてますかァ?」
下目蓋を小さく痙攣させながら、大きな独り言を始める。
「いつまでお休みになっているつもりです? なにやってるんですかァ。動けるでしょう。恨めしいんでしょう。欲しかったんでしょう。ちゃァんと思い出しましょうよゥ。ほらァ……ボーっとしていると、また愛しい彼があちらに戻っていってしまいますよォ? 捨てられたく、ないんでしょう? フッフフ……辛いですねェ、日陰の身ってのは」
クハハッ、と嗤った彼の言葉が終わると同時に、ザシュ、という音が聞こえた。振り返れば、また倉橋の足元を離れた青年が、絡新婦を捕縛していた網を手刀で切った所だった。
自由になった蜘蛛女は上体を起こす。その目線は私をまた真っ直ぐに捉える。
再び絡新婦を銃で狙った七央は青年に押し倒され、腕を膝で押さえつけられて動けなくなる。
「放せって!」
「だめ」
全身でもがいている七央だが、うまく抑え込まれているようで青年の下から抜けることができないようだ。
そんな二人のやりとりが全く見えていないかのように、私たちに背を向けた倉橋はふらりとどこかへ歩き出す。でも行き先を確認する余裕はなかった。
絡新婦がニタァァとヒナの顔で笑う。その嬉しそうな笑みは、明らかに標的を見つけた喜びに溢れていた。
達也とヒナは、まだ動かない。気絶したヒナを抱えて、ただひたすらその場に留まっている。
どうして抱えて逃げないのかと思ったけど、もしかしたらさっき彼女を受け止めた時に足でも捻ったのかもしれない。逃げたくても逃げられないのだとしたら、身を挺して彼女を守ることしかできないのだろう。
そういえば、さっき逃げ出した二人はちゃんと建物から出られたんだろうか。車の音がした記憶はない……悲鳴は、きっと階段を昇ってきた幽霊でも見た時のものだろう。階段から落ちたような音もしなかったから。
せめて、彼らだけは無事でいてほしい。
蜘蛛は八本の足でゆっくりと迫ってくる。ニタニタとこちらの表情を確認するように首を振りながら近付いてくる。目の前に絡新婦が迫る。これのターゲットは私だ。今から、私に何かしようとしている。
なにか、なんて、そんなの最悪の状況しか考えられない。
バクバクと心臓の音がうるさくなる。
だめだ、ここにいたら殺される。でも、足がすくむ。一歩も動けない。誰も私を助けてはくれない。そんな余裕なんてない。
――誰でも、自分が、愛している人が一番だもの。
どう考えても彼女が私を恨むのはお門違いだ。でも感情なんてそんなもんじゃないんだろう。自分の愛した男の隣にいた女。恨む理由なんて、それだけで十分だ。
好きな人の近くにいる誰かを恨んで妬んでしまわなければいけないほどに、そこまで熱心に恋愛したことあるのかと言われたら。多分私は、生霊を飛ばしたりするほど他人に執着は出来ない。見込みがなければ諦めるし、見捨てられたと思ったら、気持ちが離れてしまったのなら、そこに私の意見を挟む余裕などないのだと思ってしまう。
――だから達也も、私を選ぼうとしなかったのかな。
なんて、関係のないことを考えて脳が現実逃避しようとする。
「ッ、どけってば!」
「じゃま、するな」
「邪魔してんのはオマエだろ! 離せよ!」
「だめ。きょか、されてない」
「カナ姉! 逃げて、カナ姉ッてば! ねえ!!」
七央が叫んでいる。あの子のあんな声、はじめて聞いたかも。片言のように返す青年は七央の上から動かない。達也は、ヒナを少しでも守ろうとするようにその身体に覆い被さっている。どうせ蜘蛛がやりたいのは私だけなんだから、彼らを危ない目に合わせないように達也たちから離れようと思うのに、恐怖にすくんだ足はやっぱり動かない。
――ごめん、巻き込んじゃうかも。
大人しく最期を覚悟する。
絡新婦が大きく口を開く。ヒナの可愛らしかった唇が蜘蛛のように変化していく。
逃げ出した二人だけでも無事に帰れますように……
――七央、ごめんね目の前で。
見たくないもの見せちゃうことになりそう。
私はギュッと目を閉じた。




