長い夜_2
「帰ろうっ」
その手が届くよりも早く、彼を引っ張る。自分の方へ強引に引き寄せる。たたらを踏んだ達也は不愉快そうな顔で私の手を振り払う。
「なんだよ急に」
「ね、七央も帰ろうって言ってるし、遅い時間だし帰ろう?」
「はーっ!? そんなに怖いのかお前」
「……ッ、怖い! もうヤダ、帰りたい! お家に帰ろう? ね? ね?!」
馬鹿にされても良い、コケ下ろしてくれて構わない。だから、早く帰るって言ってほしい。駄々をこねるように達也の服の裾を持って願う。その手はまた払われる。それでもあきらめずに繰り返していると、達也の肩越しに女が睨んできているのが見えた。
その目は四つ。女の霊と……ヒナ。
射殺すような視線に、心臓がバクバクと鳴りだす。手が震えそうになる。
「あー! うるっせえなあ! わかった、帰ればいいんだろ。ほんと、お前なんて連れて来なきゃよかった」
最後、屋上だけ見て帰ろうぜ、と達也が歩き出す。仲間を引き連れて部屋から出ていく後ろ姿についていこうとすると、七央が私の手を引いた。
「カナ姉、多分、今の悪手。しかも最悪の」
「……え?」
「オレじゃ、守れないかも」
それどういう意味? という私に答えずに小さく首を左右に振って、七央は達也を追って部屋を出た。私も、と思って歩き出そうとしてなにかにつんのめる。足元を確認しようと視線を下げれば、そこに、首吊り女の姿があった。
「ヒィ……ッ?!」
口を押さえて数歩下がり、悲鳴を飲み込む。
床に突っ伏すように倒れ込んだ女は、匍匐前進のようにズルリズルリと身体を前に進めようとする。しかし、歩みはあまりにも遅い。彼女の足元を見れば、部屋の中からロープが伸びていた。
カーテンレールに繋がれた状態の彼女は、ここから出ることが出来ないらしい。それでも必死に爪を床に立てて進もうとする。爪が剥がれようとどうしようと関係ないという様子で、全力で進もうとする。
『マッテ オイテ イカナイデ……!』
女は廊下に手を伸ばす。
『ムカエ ニ キテ クレタンデショウ? ネエ アナタ』
その手が掴もうとしているのは……達也?
『ワタシ ヲ エランダッテ……!』
行かないで、と言った女が体を起こそうとする。プチ、と何かが千切れる音がする。音の方を見ると、ああ――ロープが、ほつれだしている。
私は駆けだして、もう一度達也の腕を取った。あの女の目的が達也なのだとしたら、上を確認してから降りてくるんじゃ追い付かれる。
「屋上には、きっと何にもないよ。帰ろうよ。ね?」
「しつけえ!」
乱暴に振り払おうとした達也の腕が頬に当たる。その気がなかったせいか彼は驚いた顔をしているけど、これくらい殴られるのは慣れている。帰ろう、と手を引いて階段を降りようとすれば「邪魔しないで」と高い声がした。
それは、反対側の腕にしがみついたヒナの声で。
「私たち、もう少し見て回るんで、カナさんは一人で車に戻ってればいいじゃないですか」
「でも……でもそんな時間は」
「時間? カナさんなにか予定でもあるの? タツヤは?」
ヒナは甘えるように達也を見上げる。冷たく一瞥した達也は、私を突き飛ばすように振り払い唇を歪めた。
「ねえよ。ソイツが勝手に帰りたがってるだけ」
だったら、と憎しみと優越感が混ざった顔でヒナは私を見る。
「私たちの、邪魔をしないで」
彼は私のものだから。
あなたには、わたさない――
頭の中で響いた声と鼓膜を揺らした音。
二つの声が重なった。
慌てて振り返れば、女の上半身は部屋から出てこようとしている。
見えているのに、階段を昇っていく達也たちを止めることが出来ない。屋上なんて逃げ場がないのに。
どうしよう、とまた隣に来てくれた七央を見れば、彼は真剣な目で私だけに聞こえるくらいの声で言う。
「これ以上、あいつら刺激しないで」
「あいつらって誰のこと? それどころじゃないでしょう?! 逃げなきゃ」
「見えてない人になに言っても無駄。それよりカナ姉は、これ以上なにも言わないで。達也さんにも触らないで」
「でも、だって他の人の手を引っ張るわけにいかないじゃない」
「だから……」
説明が面倒になったのか、七央は下を向いて深く息を吐く。それからもう一度「それが最悪なんだってば」と言って達也たちを追って階段を昇っていった。
屋上は、建物の中に比べれば綺麗なものだった。なにもない。本当に何もない。ただ、私の目には真っ暗な屋上からまた飛び降りようとしている男の姿が見えていた。
フェンスを乗り越えて、建物の縁に立ち下を覗き込む。フェンスを背中の後ろで掴む手に力が入って、腕がこわばる。高さへの恐怖と戦っているように、天を仰いで、もう一度グッと手に力を入れて、放した。身体が向こう側へと消えていく。
思わず目をつぶって顔を逸らした。
でも、そんなものが達也たちに見えているはずもなく、暗い中スマホの懐中電灯アプリだけでそこかしこを照らしている。男が向こう側に行くのも照らしていたのに、見えていなかった。屋上にも、彼が飛んだ今、もうなにもいない。ただただ真っ暗なのが薄気味悪い。
それにしても、幽霊が一体しかいないって場所ならともかく、一階には廊下にも階段にもそれなりにいた幽霊が、二階以降は首吊り女の霊と飛び降りを繰り返している男の以外は全く見えない。私の目に見えていないだけかと思ったけど、七央も気にしているのは達也だけだ。
「ねえ、幽霊とか……いないよね」と確認すれば「うん」と短く返ってくる。妙に緊張している様子が気になる。
「そろそろ気が済んだッスか?」
しばらく彼らの好きにさせていた七央が口を開く。
「もうなんにもないじゃないッスか。てかあんまり端っこ行くと、建物的に危ないんで」
「ああ、まあ。なんにもないな」
つまらない、とヒナを腕にぶら下げたまま達也は言う。階段の入り口から動かない私と七央をみて、二人は揃って馬鹿にしたような笑いを浮かべる。
「なんにもないから、二人も見に来たらどうー?」
怖くないよ、と挑発するようにヒナは言うけど、なにもないならなおさら行く必要などない。黙って首を横に振る。やっぱり怖いんだぁ、とからかわれても、痛くもなんともない。それよりなにより。あの二階にいた女幽霊が今にも後ろ――階段を昇って飛び出してくるのではないかと思うと、背中がゾワソワと怖気立っていた。




