憂い事排除依頼_3
「な……っ、や、触らないで……!」
拒否しようとすると、彼はゆっくりと首を振って「変なことはしないよ」と柔らかく笑う。それから少し顔を近付けてきて
「カナ、自分の目で見たいんだよね?」
もう一度確認してきた。
こくりと無言で頷けば、彼は目を細める。あまりに愛しさがあふれて堪らない、みたいな顔をされるからこちらもつられてドキッとする。
――本当、この男心臓に悪い。
顔の良さを自覚してるんだかなんなんだか、距離は近いし、恋してるみたいな顔を私に向かって浮かべるのもやめてよね。思わず、キュンとしてしまうじゃないか。
「これ、普通の人間が見えないものを見えるようになるのに必要なことだから……ね、下心ないとは言わないけどさ。その、嫌がらないでね。カナから気持ち悪いとか言われて拒絶されたら、俺立ち直れないから」
そんなことを、妙に潤んだ目で言う。
待って。なんなのその顔。何をされるのか、と逃げ腰になる。でも顔を押さえられていて逃げることは叶わず、互いの額が触れそうに近付いている。それ以上は駄目、と完全に腰が引ける。
「あの、私彼氏がいて」
「うん、知ってる」
知っている、と言うわりには行動に問題ありありなんですけど、ザックさん?!
近い近い。顔が近すぎる!
動揺してしどろもどろになってくる。
「変なことされると、その浮気とかそういう……」
「うん。だから、これからすることはあれを見るのに必要なだけ」
何度も言わせないで、と囁く声が甘くて頬が熱くなる。
「そういう意味でするんじゃないからさ。ほら、洗礼でも受けるようなもんだと思えば良いよ」
ね、と確認するように言った彼の顔がまた近付いてくる。これって、いやちょっと待って。心臓の音が耳元で響く。五月蠅くてかなわない。妙な緊張に震えそうになる唇を、ぎゅっと噛んだ。
そこに、雰囲気をぶち壊す声が投げ込まれる。
「ねーぇったらぁ。早くしてよぉ、いつまでもぐだぐだ言わないで。ザックぅ? いつまでもしないのは、ただカナに触ってたいだけじゃないのぉ?」
「マリー、ちょっと黙っててくれるかい」
からかいに対するザックの声が今までよりも冷たい。あら、と小さく呟いたマリーは「……へえ、そう?」と鼻じらんだ声を出した。
「マリー」
一段とキツい声に「ハイハイ」と視界の隅、マリーがぞんざいに手を振るのが見えた。気持ちを立て直すように数秒目を閉じたザックは、一つ深い息をして優しく表情を緩める。
「利き目ってどっち?」
「右、だと思いますけど」
「オッケー。力抜いててね」
そう言って顔を寄せてくる。これ、やっぱりキスされる――?!
それは絶対にダメ、と手を出して顔の下半分をおおって目をギュッとつぶる。しかしふわりと柔らかいものが触れたのは左の目蓋だった。
そこ? と拍子抜けした自分が恥ずかしくなる。それじゃあ本当に口にされても良かったの? ってツッコミ待ったなしになってしまう。ホッとしたのも一瞬。続けて、目蓋の上に生暖かくて湿り気のあるものが押し当てられた。
これ……は。
「大丈夫だから、力抜いて」
軽く唇で触れたままザックはほとんど吐息で囁いて。思わず言われた通りに力を抜いてしまった私の目蓋を指で優しく押し開けると、そろりと舌でそこをおおった。
「――ひぁ……ッ!」
じわりと眼球が熱を持つ。不愉快ではない痺れが左目を包んだ。
すぐに離れたザックは「痛くなかった?」と労わるように聞いてくると、ちゅ、と軽い音を立てて目尻に軽く口付ける。
「ちょ……え、今……」
「ん? 見えるようになっただろ?」
眼球を舐められたというはじめての体験と、最後のは必要なかったのでは? という二つの衝撃でうまく言葉が出てこない。左目を押さえてわなわな震える私に、いつの間にか背後に立っていたマリーはまた長い指で一点を指す。
「もう見えるはずよ。ほら」
唾液がついてしまった目蓋を拭って、マリーの指の先――さっきから彼らが注目している天井近くの空間に集中すれば確かになにかある。黒い霧のような雲のような、でもボケていてうまく焦点が合わない。なんとかピントが合わないかと目を細めてみるけど駄目だった。
「なにかあるのはわかったんですけど、よく見えない……ん……?」
「ああ。カナは左でしか見えないから、うまく見えなかったら右目閉じるか、手で覆うかしてごらん。ピントが合いやすくなるはずだ」
アドバイス通り、右目を手でおおって改めて彼らの指摘する場所に目をやる。そこには――
風呂場の天井に張り付いていたのと同じ大きな顔があった。
思い出した不快感に、身体がこわばるのを感じる。
「ちょっとこっちもゴメンね」
ザックは言うが早いか左耳にちゅっとキスして耳たぶに舌を這わせた。
「ひゃぁあ!」
「そんな声出さないでよ。今は意味もなく触れないってば。音も必要かも、って思ったからしただけだよ」
耳元で囁いた彼は「これで、聞こえるようになっただろ」と身体を離した。
聞こえるってなにが、なんて問う必要もない。私の左耳には
『コミナミカナアァアァァ』
という恨めし気な、あの時と同じ声が飛び込んできたのだから。




