そして気づいた私のこと_3
女から名を呼ばれる。
返事など出来ない。
振り乱された髪。
どす黒い顔色。
血走った眼。
伝わった。
嫌悪と。
憎悪。
呪。
『アナタ ガ イナケレバ』
誰、と聞こうとするのに声が出ない。今私は裸で、あまりに無防備だ。もう気のせいでは済ませられない。
――達也、助けて……!
他に助けを求められる人などいなくて、本当なら呼びたくもない名前を心の中で呼ぶ。何度も何度も呼んでみるけど、当然だが気付いてはくれない。
――逃げなきゃ。
でも立ち上がったら、アレと距離が近付いてしまう。それは嫌だ。早くどこかに行ってくれないだろうか。早く消えてくれないだろうか。早く、早く……!
祈るような気持ちで、顔と睨み合う。
ドンッ! と玄関が叩かれた。
ハッとして視線が女から外れる。慌てて再び上を向けば、顔は消えていた。
びしょぬれのまま、タオルで身体を隠してリビングに駆け込む。さすがに気付いてこちらを振り返った達也が変な顔をしながらやってきた。
「どうしたんだよ。そんなの付き合ってる時にもしなかったのに」
彼が勘違いをしていることには気付いたけれど、なんとか逃げ出した状態の私には否定する余裕はない。見ないで、触らないで、と言うこともできない。剥き出しの肩に触れてきた達也の表情が歪む。
「あ~? 床びしょ濡れじゃねえか、最悪。ちゃんと拭けよ。こんなんじゃ無理」
無理なのは私もだ。好きで元カレの前で裸なわけじゃない。服は、洗面所に置いてきてしまった。でも今一人で洗面所に服を取りに行くことは難しい。かといって、ついさっき『下らない霊感ごっこ』なんて言っていた人に、オバケを見て怖いから一緒に行って、なんて言えない。
「聞こえてんの?」
「あ、うん。ごめん」
彼がまたスマホの所に戻ったのを確認して、寝室に移動して体を拭く。チェストから服を取り出して素早く身に付け、身体を丸めてしゃがみこんだ。
奥歯が鳴っている。お風呂に入ったのに、逆に体は冷えきっている。オバケを見たということ以上に、真正面からぶつけられた悪意と、アレが私の名前を認識していたということが恐くてならない。通りがかりの浮遊霊というのも迷惑だけど、私をうとましく思っている存在がこの家の中にいるのだとしたら、それはとんでもない恐怖だ。
今すぐにでも部屋を飛び出したい。でも理由がない。本当は、人の近くに居たい。でも達也は駄目だ。怖がっていたら、痛いヤツだって言って不機嫌になるだろう。何とか平静を保ってリビングに戻ってスマホを手に取る。
「スマホいじる前に床拭けよ」
自分はスマホから一切目を離さずに言ってくる。ゴメン、とまた言って、さっきまで身体を包んでいたタオルでリビングの床を拭く。立ち上がり、彼に気付かれないように深呼吸する。気合を入れてドアを開ける。手だけ伸ばして電気をつけた。そろりそろりと覗いた廊下は静まり返っている。ゆっくりを視線を上げる。天井にも、異常はない。足音を消しながら、徐々に脱衣所に近付く。ポケットからスマホを取り出して、通話アプリを開く。
しかし。
――誰にかけよう。
せめて、音だけでも誰かと繋がっていたい。
真希? いやもうこんな遅い時間だ。
じゃあ、七央? でも彼はまだ用事の最中かもしれない。
お母さん、は寝てる。それに下手に連絡するとまた結婚しないのかってうるさいだろう。他にも何人か思い浮かびはしたけど、こんな夜遅くに連絡をするのはためらわれた。
――あれ。私いつの間にこんなに友達いなくなっちゃったんだろう。
昔は、もっと気楽に連絡できる子がいたはずなのに。どうしようもなくなった時、時間も気にせずお互いに連絡を取れあう友達がいたはずなのに。
もしかして、達也と付き合いだしてからだろうか。こんなに一人になってしまったのは。
拘束がキツい達也は私が友達と遊びに行くのにも嫌な顔をして。常に連絡しろとかなんとか言われて全部が面倒になってしまって。
――あー、ヤバい。
彼がいなかったら、何もない状態になってしまっていたんだ。これじゃ未練みたいなものだって抱くだろう。よこしまな理由で縁を切りかねているのは、私もだったんだ。
こういうのを依存って言うんだろうな、と思うと妙におかしくなってくる。さっきまでの恐怖よりも、身近にある話の方がよっぽど怖かった。
この状況、ネットに投稿してやりたい。少しは誰か達也のこと叩いてくれないかな、なんて。
そんなことをしたところで、きっと自分の優柔不断さだとかを叩かれて凹むのがオチだ。知らない誰かのあるかもわからない援護射撃を期待するなんてバカらしい。そんなことを思っていたら、さっきのオバケに対する怒りがわき起こってきた。
一昨日からの心霊現象みたいなのが全部アレのせいだったなら、全部全部悪いのはあのオバケだ。達也が理不尽に不機嫌になるのも、私が何もかもを怒られるのも、アンディから借りたペンダントが壊されて捨てられてしまったのも、全部アレのせいだ。
「ムカつく」
口に出したら、余計に腹が立ってきた。今度アレが目の前に出て来たら文句言ってやる。
開けっぱなしだった脱衣所を見てみるけどなにもない。床が一面ビショ濡れになっているだけだ。気合を入れてお風呂場を覗くけど、そこもいつも通りだ。お風呂の栓を外して、換気扇を回す。
タオルをもう二枚使って脱衣所の床と廊下を磨き上げる。怒りに任せて洗濯機にタオルを放り込んで、お湯を抜いている間に髪を乾かして歯を磨く。達也の側にいたくない一心が怖さに勝ち、風呂掃除も済ませ置きっぱなしになっていた服を持って戻った。
ところがリビングには誰もいない。
機嫌の悪かった達也は、私が片付けをしているうちに何も言わず帰ったようだった。ごちそうさまもお邪魔しましたもないなんて、なんて失礼なんだろう、あの人。
そして厄介なことに、この部屋の合鍵は、まだ彼の手元にあった。




