第7話「真名井の憂い」
蝶が飛んでいた。
和子はそれを、ひと息で追い抜いた。
その足は鹿よりも速く、土手を駆け、竹林をすり抜け、
枯れ枝ひとつ踏まずに駆ける。
立太子の望みはなくとも、
元服前の童子が見せる速さではない。
「やはり、風だな……」
木影がぽつりと呟いた。
それは、かつて真名井と森に入った折のこと。
「あれ、カワラヒワ。左から三番目の枝」
木影が目を凝らしても見えぬものを、
真名井は指さした。
「羽を繕っているよ」
その鳥の名を、
彼は幼い頃に和尚から聞いたきりのはずだった。
走力もまた尋常でなかった。
水影が岸沿いを駆け出すと、
真名井は崖を跳び、岩を飛び、追い抜いた。
今度は水中へ。
泳ぎで競っても、彼は水底を潜りきり、
誰よりも早く、対岸に立った。
「……異常ですね」
志乃――土陰が、溜息まじりに言う。
「これほどの“身”を授かりながら、
なお“心”が追いついていない……」
問えば、すぐに答える。
しかも、正しい。
火影が「火薬とは何か」と問えば、
材料も比率も淀みなく口にする。
七曜の技を、見聞きだけで身につけていた。
だが土陰が案じていたのは、
その“気なし”――
感謝も、喜びも、表に出さぬことだった。
「ありがとう」
その一言が、彼には言えぬ。
敵兵の骸を埋めた夜。
和尚が念仏を唱え、
土陰が手を合わせると、
真名井が問うた。
「なぜ、敵に念仏を? なぜ和尚に礼を?」
壬辰の生まれ、気ままにして歯に衣着せず。
水と火のように、柔と剛が同居する。
それが真名井だった。
その夜、庫裏にて。
壮元と土陰が、火の揺らぎを見つめていた。
「真名井には、欠けているものがあります」
「……人と人との、間か」
「はい。目を見て話せない。
それが、強さでもあり、脆さでもあります」
壮元は静かに首を振った。
「日輪は、ただ空にあるにあらず。
深き谷にこそ、いずれ昇る。
あ奴がそうじゃ。影の道を歩みてこそ、
光を知る者となろう」
その夜、月明かりの下、
真名井は一人、空を仰いでいた。
蝶の姿はもうなく、
ただ無数の星だけが、瞳に宿っていた。
「……人って、なんでみんな、嘘をつくのだ」
その声を聞く者はなかった。
ただ、谷合から夜空へと、
まっすぐに昇っていった。
(つづく)
本日もお読みいただき、ありがとうございました。
さて、少し予定変更です。
明日以降、しばらく毎日 5 pm の投稿とさせていただきます。
少々立て込んでいまして──どうかご容赦ください。
物語はいよいよ、核心へと踏み込みつつあります。
忍びたちの静かな呼吸、その奥に潜む気配に、
引き続きお付き合い頂けましたら幸いです。
それでは、また明日、夕刻に──。




