07話 私がライアンを守る!!
ライオンの放つ威圧感に晒され、僕はひたすら汗を流していた。五感を限界まで研ぎ澄ませ、あいつの気配を少しでも逃さないようにする。足音が一つ聞こえるだけで、死がこれまでになく近づいてくるような感覚に襲われた。こんなに長く祈り続けたのは、生まれて初めてだった。
それでも、息を止めていられる時間には限界がある。まして子供の肺では、とても耐えられるものじゃない。僕はそのことをすっかり失念していた。エリもとうとう限界だったらしく、僕の手を払いのけると、大きく息を吐き出した。
その瞬間、木の陰に隠れているはずのライオンが、こちらへ向き直ったように感じた。危険がすぐそこまで迫っている。そう判断した僕は、エリを抱きかかえてその場から飛び退いた。
直後、背後の木が轟音を立てて倒れ、地面まで無残に抉り取られた。ライオンはまだ木のところまで歩いてきてすらいない。ただ一度、爪を振るっただけだ。
あと一秒遅れていたら――その先にどんな結末が待っていたのか、考えるだけで背筋が凍る。
エリは目を見開き、目の前の光景に怯えていた。呼吸はすっかり乱れ、荒い息遣いだけでなく、激しく打ち鳴らされる心臓の音まで僕には聞こえてくる。
それでも僕がわずかに冷静さを保てたのは、頭の中にまだ大人としての感覚が残っていたからなのかもしれない。
「まったく……」
僕はエリを背負い、森の中を走り出した。
普通、野生の獣に出くわしたときは、できるだけ刺激しないように落ち着いて行動し、目立たないようにするべきだ。けれど、あの化け物にはそんな常識が通用しない。ここで立ち止まれば、僕たちは二人とも餌にされてしまうだろう。
だから、全力で走るしかなかった。
エリとの追いかけっこですでに体力はほとんど使い果たしている。脚は鉛のように重く、息が苦しくて胸は何度も大きく上下した。それでも足を止めるわけにはいかない。今、僕の脚を動かしているのは、生き延びたいという本能だけなのだろう。
「ライアン……!?」
「今はまだ死にたくないんだ……。だから、しっかりつかまってて」
「ん……うん……」
僕は森の中を走り回りながら、何度も木の陰へ逃げ込んだ。ライオンが追ってくるなら、まず目の前の障害物を壊す必要がある。そうすれば、少なくともその間だけは追いつかれずに済む。
何もない場所を一直線に走り続けて、あっという間に捕まるよりはずっといい。
ただ、それ以上に困ったことがあった。
村へ戻る道を覚えていない。
このままライオンが諦めずに追いかけてくれば、いつまでも逃げ続けることなんてできない。走りながら必死に方法を考えるものの、頭がまともに働かなかった。
くそっ……何も思いつかない。
あいつはすぐそこまで迫っている。走る以外のことを考える余裕なんてあるはずがない。
そのとき、ライオンが突然足を止めた。
一瞬、助かったと思った。
だが、ライオンはその場で勢いをつけると、一気に高く跳び上がった。
「この化け物……!」
それだけ言うのが精一杯だった。
僕は咄嗟にエリの身体をつかみ、遠くへ放り投げた。考えてそうしたわけじゃない。身体が勝手に動いていた。
僕自身もすぐにその場から飛び退いたが、鋭い爪を完全にかわすことはできなかった。
背中を強烈に引っかかれ、そのまま身体ごと遠くへ弾き飛ばされる。
背中から全身へ痛みが一気に駆け抜け、頭の中が一瞬真っ白になった。地面に手をついて起き上がろうとするが、腕が震え、込めた力はすぐに抜けてしまう。
呼吸するだけでも苦しい。胸が上下するたびに背中の傷が疼き、鋭い痛みが全身へ広がった。できるだけ呼吸を浅くしようとしても、それすら難しい。立ち上がろうとしても両腕は震え続け、身体は鉛のように重かった。まるで自分の身体が、自分のものではなくなったような感覚だった。
くそっ……。
目の前の景色が、急にぼやけ始めた。
空間まで妙に歪んで見える。まるで世界そのものが曲がってしまったようだ。
……いや、違う。
おかしくなったのは世界じゃない。
僕の目が、もうまともにものを捉えられなくなっているだけだ。
目を大きく見開いても、景色は見えたり、ぼやけたりを繰り返している。
このまま……死ぬのか。
「AAAAAAAAAAA!!!」
エリの大きな叫び声が森中に響き渡った。
「ほん……と……に……う……る……さ……い……よ……」
返事をしようとした。でも、今の僕には息をすることさえ難しかった。
「AAAA……」
「ライアン……! ライアン……! ライアン……!!!」
何をそんなに叫んでるんだよ。早く逃げろ。走れ。走ってくれ。
本当はそう叫びたかった。でも、喉が塞がったように声が出ない。
僕は薄れゆく意識の中で、エリがこちらへ走ってくるのを見つめることしかできなかった。視界にはもう、何が何だか分からないほど乱れた景色しか映っていない。身体もほとんど動かせなかった。
顔に何かが何度も落ちてくる。たぶん、エリの涙だ。
エリは僕のそばまで来ると、身体に触れながら何度も僕の名前を呼んだ。僕は乱れた呼吸を必死に整えようとする。まずは落ち着け。呼吸を戻すんだ。息を吸う。吐く。それを繰り返す。呼吸を安定させることができれば、まだ身体を動かせるかもしれない。
僕はなんとか口を開いた。エリに伝えたかったのは、ただ逃げてくれということだけだった。
けれど、もう遅い。
目の前に餌があるというのに、ライオンがわざわざ待ってくれるはずもない。鋭い爪が、僕たち二人へ向かって振り下ろされる。
僕は歯を食いしばり、舌を思い切り噛んだ。痛みで身体を刺激し、ほんの一瞬でも動かせるようにするためだ。
今はただ、エリをここから押し出したかった。
こんなところで、お前まで倒れてたまるか……この馬鹿!
ようやく身体が動いた。僕はエリへ向かって手を伸ばす。あと少しで届く。
その瞬間、エリが消えた。
何が起きたのか分からなかった。
視線を向け直すと、エリはライオンの目の前に立っていた。
ライオンの爪がすぐさま振り下ろされる。エリはいつも持ち歩いていた剣を抜き、その一撃を受け止めた。
耳をつんざくような衝突音が響く。身体ごと押し込まれ、エリは地面の上を後ろへ滑った。それでも、なんとか体勢を崩さず踏みとどまった。
エリは手で涙を拭い、身体についた埃を払い落とす。それから大きく息を吸った。
僕には分かる。身体は恐怖で震えている。剣を握る両手も震えている。それなのに、エリはその場から退かなかった。
「僕がライアンを守る」
その言葉を口にした直後、エリの身体から巨大なエネルギーが溢れ出した。
すぐに分かった。魔力じゃない。
そのエネルギーは勢いを増しながら広がり、エリを中心とした周囲一帯を包み込んでいく。
ライオンも異変を感じ取ったらしい。大きく咆哮し、エリへ向かって一直線に突っ込んだ。
エリも退かず、自分からライオンへ向かって走り出した。
化け物の爪が何度も振り下ろされる。だが、エリは真正面から受け止めようとはしなかった。身体を傾け、進む方向を変え、攻撃と攻撃の間に生まれた隙間をすり抜けていく。
爪が身体のすぐそばを通り過ぎても、エリはぎりぎりのところで横へ身をかわした。
そうやって攻撃を避けながら距離を詰め、ついにはライオンの横までたどり着く。
エリの剣が立て続けに振るわれた。
二度の斬撃が走り、ライオンの巨体が大きくよろめく。
それでもライオンは止まらない。後ろ脚で地面を強く蹴り、エリから逃れるように跳び上がった。
今度こそ逃げられた。僕はそう思った。
だが、エリはそのまま追いかけた。
地面を強く蹴り、身体を高く跳ね上げる。そして、空中にいるライオンにまで追いついた。
エリが身体をひねる。その動きに合わせて、手にした剣も大きく振り抜かれた。
「今度こそ死ね……! ライアンを叩いていいのは僕だけなんだから!」
上空から剣が振り下ろされる。
ライオンには、もう避けることができなかった。巨大な身体が地面へ叩き落とされる。
あまりの威力に、地面まで耐えきれず、長い亀裂が走った。
エリはその直後に着地した。ついさっきまで激しい戦いをしていたとは思えないほど、落ち着いた様子だった。
剣を手に僕のところまで歩いてくる。すぐそばまで来ると顔を上げ、指で鼻をこすった。それから腕を組み、いかにも得意そうな顔をする。
「ほら……僕が守ってあげたでしょ。僕、すごく強いんだから」
その通りだった。
エリは強い。
強いことは前から知っていた。でも、今の戦いを自分の目で見て、ようやく実感した。エリの力が、いったいどれほど大きなものなのかを。
僕はその場に横たわったまま、得意げな顔をしているエリを見つめ、思わず小さく笑った。
けれど、その喜びは長く続かなかった。
ここはまだ森だ。
これだけ大きな戦いをして、音が出ないはずがない。大きな音を立てれば、それを聞きつけた他の獣たちがここへ集まってくる。
僕は遠くへ目を向けた。
木々の間から、赤い目が一つ、また一つと現れ始める。
一つ、二つと増えていき、やがて森の前方一帯が何百もの赤い目で埋め尽くされた。
どの目も、僕たちをじっと見つめている。
エリもそれに気づき、すぐに振り返って剣を構えた。
「エリ……待って……何をするつもりなんだ……」
身体の痛みが再び戻ってくる。ほんの数言話しただけなのに、それだけで身体に残っていた力がほとんど抜けていくのが分かった。
もう、エリを止めることはできない。
暗闇の中から、獣たちが次々と姿を現した。
どの獣の身体にも、あの恐ろしい黒い色素がまとわりついている。
けれど、こいつらが放つ恐怖は、さっきのライオンよりはるかに強かった。見ているだけで吐き気がするほどで、重苦しい圧力が頭へ直接叩きつけられてくるようだった。
それでもエリは僕の前に立っている。
身体は震えている。剣を握る両手も震えている。それなのに、決して後ろへ下がろうとはしなかった。
「だ……大丈夫……。僕が……守るから……」
声は震え、ほとんど聞き取れない。それでもエリは、必死に笑顔を浮かべた。
怖いに決まっている。
僕には分かっていた。
さっきのエリなら、あれほどの速さと力があれば、この森から逃げ出すことだって難しくなかったはずだ。
それなのに、どうしてまだここにいる?
目の前の獣たちが動き始める。
そのうちの一匹が、突然エリへ向かって一直線に飛びかかった。
もう、僕には耐えられなかった。
痛みのせいで視界が明るくなったり暗くなったりする。意識も少しずつ遠のいていく。
頭の中では、理性が何度も諦めろと告げていた。
目を閉じれば、すべて終わるのかもしれない。
それでも、僕はそんな終わり方を望まなかった。
エリには生きていてほしい。
英雄になるという夢を叶えてほしい。
僕だけじゃない。もっと多くの人を救ってほしい。
この世界で、まだ見たいものがたくさんある。
もっと生きたい。もっとこの世界を知りたい。
そして、家族と一緒に普通の日々を過ごしたい。
「くそっ……。家族の幸せを、ようやく少しずつ分かってきたばかりなのに……」
その瞬間、空から巨大な炎の柱が真っ直ぐ降り注いだ。
エリへ向かっていた化け物が、その炎に焼き尽くされる。
僕たちの前に、一人の男が現れた。
その見覚えのある体格を見て、僕にはすぐに分かった。
まだ視界ははっきりしていない。それでも、あの背中を見れば誰なのか分かる。
男は僕たちのところまで歩いてくると、服の中から青い液体の入った瓶を取り出した。そして僕の身体をそっと起こし、中身をすべて飲ませてくれる。
信じられないことが起きた。
さっきまで、このまま死ぬかもしれないと思っていた傷が、みるみるうちに治っていく。全身を苦しめていた痛みも、完全に消えた。
僕はゆっくりと目を開く。
今度こそ、目の前にいる人物の顔がはっきり見えた。
「父さん……!?」
「うん……父さんだ」
「どうして父さんがここに!?」
「遅くなってごめんな。でも、もう休んでいなさい。あとは父さんに任せろ」
そう言うと、父さんは立ち上がって僕に背を向けた。
何をするつもりなのか、僕にはまだ分からない。
父さんはそのままエリの前まで歩いていった。
「ライアンを守ってくれてありがとう。この恩は絶対に忘れない」
エリはそう言われると笑った。父さんが現れたことで、さっきまで張り詰めていた気持ちも少し落ち着いたようだった。
「えへへ。じゃあ、僕も手伝うよ」
「いや、いい。あとは全部任せろって言っただろ」
その直後、父さんの身体から巨大なエネルギーが溢れ始めた。
エリがさっき使ったものとよく似ている。やはり魔力ではない。
けれど、エリの力に驚かされた僕でさえ、父さんから放たれたそのエネルギーを感じた瞬間、まったく別物だと悟った。
あまりにも大きい。
全身が上から押し潰されているような感覚に襲われ、両脚が無意識に震える。胸が重く、息を吸うことさえ苦しくなった。
僕でさえこれなのだ。
正面にいる獣たちは、もっとひどい。
一匹、また一匹と後ろへ下がっていく。
さっきまで僕たちを睨みつけていた何百もの赤い目から、もう凶暴さは消えていた。
怯えている。
ただ、手強い獲物を前にして怖がっているわけじゃない。
もっと本能的な恐怖だった。
絶対に、この男へ近づいてはいけない。
まるで獣たちの本能そのものが、そう告げているようだった。
父さんはまだ何もしていない。
それなのに、身体から放たれているエネルギーだけで、群れ全体が前へ進めなくなっている。
その力はさらに広がり、ますます強くなっていく。
父さんの力が、ここまでのものだったなんて思いもしなかった。
父さんはいつも真剣な人だ。
でも、こんなふうに怒っている父さんを見るのは初めてだった。
父さんは自分の剣を地面に引きずりながら、獣たちへ向かって歩いていく。刃が地面と擦れるたび、その後ろには長い火の筋が伸びていった。
「このクソども……。お前らが一生の中で犯した一番の間違いはな……俺の息子を、こんな目に遭わせたことだ」
父さんは目の前にいる何百もの獣を真っ直ぐに見据え、剣を握る手に力を込める。
「この家畜どもが」
それから、ゆっくりと剣を持ち上げた。
「さあ……とっととここから失せろ」
その言葉が終わると同時に、父さんは剣を振り下ろした。
凄まじい衝撃波が前方へ一気に走り抜ける。二百メートル以上離れているはずなのに、その距離など何の意味もなかった。
目の前にいた何百もの化け物が、一瞬で吹き飛ばされる。
それでも衝撃波は止まらない。さらに遠くへ広がりながら、進む先にあるものをすべて押し潰していく。
木々が次々と薙ぎ倒され、地面が押し潰される。その道にあったものは、何もかも吹き飛ばされていった。
やがて、すべてが静まり返った。
さっきまで木々が密集していた場所には、もう森の面影すら残っていない。
目の前に広がっているのは、広く平らになった大地だった。
たった一撃で、森のほぼ半分が消え去っている。
これが、僕が初めて自分の目で見た父さんの力だった。
ここまで見て、ようやく分かった。
どうして村のみんなが、父さんを最強と呼んでいるのか。
あれほどの一撃を放ったあと、父さんが振り返る。
顔に浮かんでいた怒りは、もう消えていた。いつもの穏やかな表情に戻っている。まるで何事もなかったかのように。
エリは目の前の光景を見たまま、呆然と立ち尽くしていた。
僕も同じだった。
「うおおおおおお! すごい、すごすぎる!」
エリが興奮した様子で父さんのところへ駆け寄る。
「ねえ、おじさん! 僕もおじさんみたいに強くなれる?」
「もちろんだ」
父さんはエリの頭に手を置き、優しく撫でながら笑った。
「さあ、帰ろう。ライアン、エリ」
そう言うと、父さんは腰をかがめ、僕とエリをまとめて肩に担ぎ上げた。
「出発だーっ!!」
エリの興奮した叫び声が、静まり返った森の中に響き渡った。




