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サラリーマン、過労で魔法世界へ転移するも、魔法の才能がなかった。  作者: 天城 煌也
Vol. 1 — 異世界での穏やかで平凡な暮らし
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02話 身体に慣れ始める


 この幼い身体で生き始めてから、八か月が過ぎた。

 赤ん坊の身体にも、少しずつ慣れてきた。最初の頃は、自分の身体なのに思うように動かせないことが何よりも厄介だった。頭の中では手を上げようと思っているのに、実際に動くのはほんの少し。身体の向きを変えるだけでも思った以上に体力を使う。大人だった頃なら何でもない動作に、いちいち苦労させられていた。

 それでも八か月も経てば、身体のほうも少しずつ成長してくる。最近では、ようやく自分の意思で移動できるようになった。もっとも、まだ歩けるわけではない。

 両手を床につき、身体を引き寄せるようにして進む。目的地までの距離が少し長くなるだけで、それなりに疲れる。欲しいものを見つけても、そこまで這っていかなければならないのだから、今の俺にとって家の中は思っていた以上に広かった。


 そんな俺に、この世界でつけられた名前はライアン。

 父さんによれば、昔この世界で活躍した勇者と同じ名前らしい。いつか俺にも、その勇者のような人生を歩んでほしい。そんな願いを込めて名づけたそうだ。

 その勇者が何をした人物なのか、俺はまだ詳しく知らない。それでも、この名前は気に入っている。新しい家族が、俺のために選んでくれた名前だからだ。


 母さんはエリラ・カエローラ。周囲からは聖女と呼ばれている。

 初めてその呼び名を聞いたときは少し大げさだと思った。でも、母さん本人を見ていると、そう呼ばれている理由もわかる気がする。顔立ちは華やかで、家の中で普通に過ごしているだけなのに妙に目を引く。毎日顔を合わせている俺でさえ、綺麗な人だなと思うことがあるくらいだ。

 父さんは母さんとは正反対の性格をしている。以前は帝国に仕える軍人だったらしく、いつも真面目な顔をしている。口数も少なく、感情を大きく表に出すこともない。

 ただ、家族と一緒にいるときの様子を見ていれば、俺たちを大切にしていることはすぐにわかる。口であれこれ言うより、行動で示すタイプなのだろう。


 そんな家で暮らしながら、俺は少しずつこの世界について知っていった。

 きっかけは、母さんが持っている大量の魔法書だった。

 家の隅には大きな本棚があり、そこには魔法に関する本が所狭しと並べられている。歩けなかった頃の俺にとって、その本棚まで行くこと自体が一苦労だった。床を這って少しずつ進み、ようやく辿り着いたと思ったら、今度は本を取り出さなければならない。

 小さな手で本の端を掴み、思いきり引っ張る。

 すると、本が一冊抜けた。

 ……と思ったら、その隣にあった本まで一緒についてきた。

 危うく二冊まとめて頭の上に落とすところだった。

 それ以来、本を取るときは少し慎重になった。


 そうやって苦労しながら手に入れた本を読むうちに、この世界の魔法についても少しずつわかってきた。

 この世界には、蔵、脈、そしてエネルギーというものがある。

 蔵は、身体の中にエネルギーを蓄えておく場所。魔力だけではなく、身体が持つさまざまなエネルギーを収めることができるらしい。そして脈は、そこに蓄えたエネルギーを必要な場所へ運ぶ役割を持っている。

 本の説明だけでは少しわかりにくかったので、俺なりに考えてみた。

 蔵が川で、エネルギーが水。そして、その水を流すための道が脈。

 大雑把に言えば、そんな感じだろう。

 まだ理解できたのは基礎的な部分だけだ。それでも、この世界で生きていくなら魔法について知っておいて損はない。これから先も時間はあるのだから、少しずつ覚えていけばいい。


 ……とはいえ、俺にも転生者らしい特典が何か一つくらいあってもいいと思う。

 魔法のある世界なのだ。

 特殊なスキルがあったり、便利なシステムが用意されていたり。昔読んだ物語のように、目の前にステータス画面が表示される展開だって、少しくらい期待しても罰は当たらないだろう。

 そう思って、実際に試してみた。

 「ステータス・オープン」

 目の前を見ながら待つ。

 数秒経っても、特に変化はなかった。

 「ステータス」

 今度は短く呼んでみる。

 やっぱり駄目だ。

 「ステータス、開け!」

 少し言い方を変えてみたが、結果は同じ。

 もしかすると、呼び方そのものが違うのかもしれない。そう考えて、「能力確認」だの「ステータス表示」だの、思いつく言葉を片っ端から試してみた。


 しばらくすると、さすがに疲れてきた。

 どうやら俺の世界には、都合よく呼びかけに応えてくれるシステムは用意されていないらしい。

 それでも諦めきれず、百回以上は試したと思う。

 そこまでやって何も変わらないのなら、もう認めるしかない。

 俺には、ステータス画面も特殊なシステムもない。

 ……まあ、そんなものだろう。

 結局、地道に勉強するしかなさそうだ。

 幸い、母さんの本棚には読む本がいくらでもある。これだけ揃っているなら、読み続けているうちに役に立つ知識も見つかるはずだ。


 そうして本を読んでいたある日のことだった。


 「よう、みんな。元気か?」

 玄関のほうから男の声が聞こえてきた。

 顔を上げると、見慣れた男が家の中へ入ってくるところだった。

 アルヴィン。

 村で暮らしている男で、俺の家族とも昔から付き合いがあるらしい。父さんや母さんとは仲がよく、これまでにも何度か家族を助けてくれたそうだ。

 「やあ、アルヴィン……おお、エリも一緒か。ずいぶん大きくなったな」

 父さんがアルヴィンの隣にいる女の子を見て声をかける。

 「ははは、こいつはよく食べるんだ。俺より食うくらいだからな。まだ数か月しか経ってないのに、最近じゃ本当に大丈夫なのかと思うくらいだ。お前も小さい頃はこんな感じだったのか?」

 「やめてくれ。俺は普通の子供だったよ」


 そんな二人の会話を聞きながら、俺はアルヴィンの娘であるエリを眺めていた。

 俺より三か月ほど後に生まれた女の子だ。

 アルヴィンは楽しそうに笑うと、エリを床へ下ろした。

 「ほら、行ってみろ!」

 エリは小さな身体をふらつかせながら、その場に立った。

 俺はすぐに座り込むだろうと思っていた。

 ところが――

 エリは一歩、前へ出た。

 「……え?」

 思わず目を見開く。

 もう一歩。

 さらに一歩。

 最初こそ足元は頼りなかったものの、エリはそのまま歩き続けた。そして、少しずつ速度が上がっていく。

 「おい……」

 次の瞬間。

 エリは走っていた。

 「嘘だろ。もう走れるのかよ!」

 俺より三か月も後に生まれたんだぞ。

 俺なんて、まだ床を這っているというのに。


 そんな俺の驚きなど気にする様子もなく、エリは一直線にこちらへ向かってきた。そして目の前まで来ると、ぴたりと止まる。

 顔を上げる。

 エリは両手を腰に当て、床に這いつくばっている俺を見下ろしていた。

 なんだ、この感じ。

 妙に腹が立つ。

 しかも、エリの口元が少しずつ上がっていく。

 「……お前、もしかして俺を馬鹿にしてるのか?」

 もちろん返事はない。

 でも、その顔を見る限り、俺にはそうとしか思えなかった。


 「よし、ライアン。ちょっと見せてもらおうか」

 背後からアルヴィンの声がする。

 次の瞬間、俺の身体がふわっと浮いた。

 アルヴィンに抱き上げられたのだ。

 足が床から離れ、宙でぶらぶらと揺れる。

 「おお、こっちもずいぶん大きくなったな。よし、将来はうちの娘と結婚してくれ。俺はもう決めたからな。ははは!」

 「アルヴィン、冗談はやめてください。この子はまだ何もわからないでしょう」

 母さんが呆れたように言う。

 いや、母さん。

 俺はちゃんとわかってるぞ。


 そんな俺の気持ちなど知る由もなく、大人たちはしばらく楽しそうに話を続けていた。

 やがてアルヴィン一家は別れの挨拶を済ませ、仕事へ戻るため家を出ていった。


* * * *


 それからしばらくして、俺もようやく一人で歩けるようになった。

 床を這っていた頃と比べれば、生活はずいぶん楽になった。少し離れた場所へ行くのにもいちいち時間をかけなくていい。欲しいものがあれば、自分で取りに行ける。

 そして、歩けるようになって最初に向かった場所が、本棚だった。

 もちろん、魔法の本を読むためだ。

 以前は這っていくだけでも苦労した場所だが、今なら普通に歩いて行ける。本を取り出すのも簡単になった。

 一度、本を引っ張り出した拍子に別の本まで落としてしまったことがあるので、そこだけは少し警戒している。


 それからというもの、俺は魔法の本を読む時間を増やしていった。

 最初はこの世界について書かれた簡単な本から始めた。内容がわかってくると、少し難しい本にも手を伸ばす。

 一度読んだだけでは理解できないところもあった。そういうときは前のページへ戻り、説明を読み直す。それでもわからなければ、さらに前へ戻る。

 時間はかかるが、嫌にはならなかった。

 これから俺が生きていく世界のことだ。知識が多くて困ることはない。


 両親が寝たあとに本を読むこともあった。

 家の中が静かになったのを確認してから本を持ち出し、部屋の隅で読み進める。廊下から足音が聞こえれば、すぐに本を閉じて布団へ戻る。

 悪いことをしているわけではないのに、妙にこそこそしている自分がおかしかった。

 まあ、夜更かしが見つかれば、母さんか父さんに寝ろと言われるのは間違いない。


 そうして本を読み続けていると、今度は実際に魔法を使ってみたくなった。

 本には、身体の中にあるエネルギーを動かす方法も書かれている。

 まずエネルギーを感じ取る。それを脈へ流し、目的の場所まで運んで集める。そして最後に、外へ放出する。

 本の説明を読む限り、それほど難しそうには思えなかった。

 俺はその場に座り、目を閉じる。

 身体の内側へ意識を向け、手や腕、胸、腹、足へと順番に意識を移していく。

 どこかに、それらしい感覚がないか探してみる。


 しばらく集中してみた。それから姿勢を変え、もう一度試してみる。本を開いて手順を確認し、最初からやり直す。

 それでも上手くいかなかった。

 俺は目を開け、自分の手を眺める。

 「はぁ……難しいな」

 考えてみれば、俺は最初の段階で止まっている。エネルギーを感じ取れないのだから、その先へ進めるはずもない。

 何度も試した。足が痺れるまで座り続けたこともある。それでも、魔法を使えるようになる気配はなかった。

  本を読んでいると簡単そうに見えるのに、実際にやってみると勝手が違う。

 魔法というのは、思っていたより面倒なものらしい。


 そして、そんな俺の横をあっさり通り過ぎていったのがエリだった。

 俺がエネルギーを探している間に、エリは魔法を覚え、実際に使えるようになっていた。

 どうやら、あいつには才能があるらしい。

 ところが本人は、魔法の練習にはそれほど興味を示さなかった。

 エリが熱中しているのは、むしろ剣術だった。

 理由は簡単。

 剣を持って戦うのが格好いい。

 それだけだ。


 その結果、俺はエリの練習相手にされることになった。

 練習相手と聞けば、聞こえはいい。

 実際には、エリが木剣を振るための相手である。

 最初のうちは二人で遊んでいるつもりだった。

 ところが何度か本気で打ち込まれ、身体が痛くなってくると、俺も考えを改めた。

 これは遊びではない。


 そして今日も、俺とエリは木剣を持って向かい合っていた。

 「魔王ライアン! 私は勇者エリ! 今日こそお前を倒して、人類に平和を取り戻してみせる!」

 エリは木剣を構え、真剣な顔で宣言する。どうやら今日は勇者ごっこらしい。

 俺も木剣を構えた。

 「ハハハハハ! よく来たな、勇者よ! 人類最後の希望、この俺が叩き潰してやる!」

 口では大げさなことを言っているが、内心では別のことを考えていた。

 (俺、いつまでこの茶番に付き合えばいいんだ?)


 エリは笑わなかった。木剣を握り直し、こちらを見る。その顔から、さっきまでの遊び半分の雰囲気が消えていた。

 嫌な予感がする。

 次の瞬間、エリが踏み込んできた。木剣が振り下ろされる。俺は慌てて剣を上げ、その一撃を受け止めた。

 ゴッ! 木剣がぶつかり、両腕へ衝撃が響く。「痛っ……!」腕が痺れた。剣を握り直す。


 ところが、息を整える時間すらない。エリはすぐに次の一撃を繰り出してきた。俺は後ろへ下がりながら受け止める。また衝撃が腕に響く。今度は横から来た。身体をひねって受ける。さらに一撃。また一撃。

 「ちょっと待て、重いって!」

 エリは止まらない。俺は後ろへ下がりながら、飛んでくる木剣を受け続けるしかなかった。両腕が少しずつ重くなっていく。だが、厄介なのは力だけではない。エリの動きそのものが上手かった。

 俺が一撃を受けると、そのまま別の方向へ剣を振ってくる。足の運びも自然で、次の攻撃へ移るまでの動作に無駄がない。反撃しようと思った頃には、もう次の木剣が迫っている。


 父さんが剣を振っているところを、俺も何度か見たことがある。エリも同じものを見ていたはずだ。それなのに、数回見ただけでかなり正確に動きを真似していた。

 最初は覚えるのが早いだけだと思っていた。でも、実際に相手をしてみると、それだけでは説明できない。魔法も使える。剣術まで上手い。このまま成長したら、本当に勇者になってしまうんじゃないだろうか。

 そんなことを考えていると、エリが突然笑った。「へへへ……」俺の動きが止まりかける。

 「……その笑い方、勇者がする顔じゃないだろ」

 エリは答えない。口元を楽しそうに歪めたまま、木剣を握っている。

 ようやくわかった。こいつ、勇者ごっこをしているんじゃない。戦うことそのものを楽しんでいる。しかも、ものすごく。


 「おい……エリ?」

 聞こえているのか怪しい。エリが再び踏み込んできた。

 「待てって!」

 木剣が振り下ろされる。俺は慌てて受け止めた。

 ドンッ! 今までより強い衝撃が両腕を襲った。身体ごと後ろへ押される。「うわっ!」体勢を整えるより先に、エリが追いついてくる。

 「ちょっと待て、エリ!」

 止まらない。木剣が飛んでくる。俺は必死に受ける。また一撃。さらに一撃。腕がどんどん重くなり、木剣を握る手まで痛くなってきた。


 「エリ、俺の負け! もうやめよう!」

 返事はない。

 「勇者エリ! 俺は降参する! もう人類には手を出さない! だから許してくれ!」

 それでも木剣は止まらなかった。俺の命乞いは、どうやら勇者には届かないらしい。こうして俺は、魔王役を最後まで演じることになった。


 その後のことは、あまり覚えていない。エリに散々打ち込まれ、これ以上は無理だと思ったところまでは覚えている。その直後、視界が暗くなった。


 次に目を覚ましたとき、最初に見えたのは小さな部屋の天井だった。身体のあちこちが痛い。ベッドに寝かされているらしい。特に両腕がひどかった。少し動かしただけでも痛みが走る。試しに腕を持ち上げてみる。

 「……痛い」

 すぐに戻した。どうやら、ここは村の診療所らしい。何があったのか思い出そうとしてみるが、頭に浮かぶのは木剣を振り回していたエリの姿ばかりだった。


 もう考えるのも面倒になり、俺は天井を眺めた。

 「エリ……」

 口からため息が漏れる。そして、ぼそりと呟いた。

 「お前、いったいどこまで怖くなるつもりなんだよ……」


☆ これは私にとって初めての作品です。

日々少しずつでも、より丁寧で完成度の高い作品に仕上げていけたらと思っています。

♪ もしよろしければ、これから始まるこの旅に、ぜひ私と一緒についてきていただけると、とても嬉しいです。

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