01話 私は仕事の山とパソコンの画面から抜け出した
「白鳥さん、お願いですから、この書類の山を最後まで手伝ってください。今夜、彼女とデートの約束があるんです。彼女をがっかりさせたくなくて……」
「蓮か? 分かった。安心しろ。残りは全部、俺に任せていいぞ」
「白鳥先輩……私も、お願いします……」
頼みごとは次から次へと舞い込んできた。一人が席を立てば、今度は別の誰かがやって来る。最初は数冊だけだったはずなのに、いつの間にか俺の机は資料で埋め尽くされていた。
気づけば、部屋に残っているのは俺一人だった。周囲から人の気配が消えたことで、ようやくその事実に気づいた。視線を落とせば、これから片付けるべき書類が山のように積まれている。
俺の名前は白鳥京也。どこにでもいる、ごく普通のサラリーマンだ。毎朝会社へ行き、仕事を終えれば自宅へ戻る。特別な才能があるわけでもなければ、何か大きな目標があるわけでもない。そんな平凡な日々を、俺は当たり前のように過ごしていた。
ただ、一つだけ人と違うところがあるとすれば、頼みごとを断るのがどうにも苦手なことだろう。その結果、こうして自分の机だけ仕事が山積みになっている。
自分でも、どうして断れないのかと思うことはある。「無理だ」と言ってしまえば、それで終わる話なのだ。誰かに命令されているわけでもないし、わざわざ他人の分まで背負う必要だってない。
それでも、みんなが早く帰りたがる理由を考えれば、断る気にはなれなかった。
家に帰れば家族が待っている人もいる。恋人との約束がある人もいる。疲れた体を休めるために、一刻も早く自宅へ戻りたい人だっているだろう。
俺には、そういうものがない。
帰ったところで待っているのは、狭いワンルームだけだ。あまりに窮屈で、時々、こんな場所に住み続けるくらいなら外で寝たほうがマシなんじゃないかと思うことさえある。
だったら、俺が引き受ければいい。
誰かが困らずに済むのなら、それで構わない。
「今日も、このとんでもない量を片付けますか」
山積みになった書類を見て、思わずため息が漏れる。
「よし! 余計なことは考えない!」
両手で頬を叩いて気合を入れ、俺は席を立った。まずはコーヒーでも飲んで頭を切り替えよう。
自分用に一杯淹れて戻ってくると、カップから立ち上る香りが鼻をくすぐった。さっきまで重かった頭も、少しずつ冴えてくる。
椅子に座り直し、カップを机の端に置く。そして、改めて自分に言い聞かせた。
「しっかり集中しろ。ここを終わらせたら帰るんだ」
一口飲んでから、書類に手を伸ばす。これだけの量を前にすると、それだけで気が遠くなりそうだった。
とはいえ、眺めているだけでは何も終わらない。
「……一枚ずつ片付けるか」
そう呟いて、俺は最初の書類に目を通し始めた。
* * * *
どれくらいの間、パソコンの前に座っていたのか、もう覚えていない。何時間も作業を続けているうちに、机を埋め尽くしていた書類も、ようやく減ってきた。俺は背もたれに寄りかかり、凝り固まった肩を軽く回す。
「今、何時だ?」
画面の端に表示された時計へ目をやった。
「……あれ?」
そこで、ふと手が止まる。
数字が、うまく読めない。
ぼんやり滲んでいて、焦点が合わなかった。近くにあるはずなのに、妙に遠く感じる。
「なんだ、これ……?」
疲れているせいだと思い、手で目元を擦ってみる。それでも、手を離しても見え方は変わらない。画面に並んだ数字が、形を失っていくように見えた。何とか焦点を合わせようとすると、かえって何も見えなくなっていく。
「まさか……幻覚でも見えてるのか?」
両手でまぶたを持ち上げるようにして、無理やり目を覚まそうとする。
けれど、まぶたは重くなる一方だった。
何度か瞬きをしてから、もう一度画面を見る。
今度は、周りの景色までぼやけてきた。
自分がどこにいるのかは分かる。目の前にあるのが仕事机だということも分かっている。それなのに、周りにあるものが少しずつ遠くなっていくような、妙な感覚だけが残っていた。
「変だな……コーヒーも飲んだばかりなのに」
これで少しは眠気が取れると思っていた。
どうやら、今日はそううまくはいかなかったらしい。
「……まあ、いいか」
もう無理に起きている必要もない気がしてきた。
「少し休むとするか」
目を開けているのを諦め、椅子に深くもたれかかる。そのまま、押し寄せてくる眠気に任せた。
書類もかなり片付いた。少しくらい休んだところで、問題はないだろう。
そして俺は、そのまま意識を手放した。
それから先のことは、何も分からなくなった。
* * * *
「エリラ、よく頑張ったわ。赤ちゃんが生まれたわよ。ほら、見て。あなたの息子よ」
「ありがとう……ありがとう、エリラ」
騒がしい話し声や泣き声、それに笑い声まで、いくつもの声が途切れることなく頭の中へ響いていた。
……なんだ? もう、こんな時間なのか? 俺はちょっと目を閉じていただけのつもりだったんだけどな……。さっきまで仕事をしながら会社の机に座っていたはずだ。まだ終わっていない資料も大量に残っていた。もしかして、後輩たちはもう戻ってきたのか?
そう考えた瞬間、あの書類の山が頭に浮かんだ。
くそっ、まだ後輩たちの仕事も終わらせてないのに。
俺はゆっくりと目を開けた。けれど、視界に入ってきたものを見て、思わず動きを止める。
知らない天井だった。
「……え?」
何度か瞬きをしてみる。それでも景色は変わらない。いつも職場で見慣れていた天井じゃない。もちろん、目の前にあるはずのパソコンもない。
俺は慌てて周囲を見回した。
すると、目の前には見知らぬ女性と男性が一人ずつ立っていた。あの女性は誰なんだ? それに、あの男も……。まさか、会社が新しく人を雇ったのか?
いや、そんなわけがない。そもそも、会社にこんな場所はなかったはずだ。
頭の中に疑問が次々と浮かんでくる。けれど、いくら考えても答えは出てこない。ここでずっと考えていても仕方がない。
そう思った俺は、とりあえず二人に声をかけようとした。
「おぎゃ……おぎゃ……おぎゃ……」
「……え?」
俺は呆然とした。
なんだ、これ?
俺は今、普通に二人へ話しかけたはずだ。それなのに、どうしてこんな声が出るんだ? まさか、誰かが俺の言葉に勝手に字幕でもつけているのか?
自分でも馬鹿げた考えだと思う。けれど、もう一度声を出してみる。
「おぎゃ……おぎゃ……おぎゃ……」
……やっぱり同じだった。
どれだけ話そうとしても、喉から出てくるのは泣き声ばかり。そこでようやく、この声が間違いなく自分の喉から出ていることに気づいた。
その直後、身体がふわりと持ち上がった。
目の前にいた男が、俺を抱き上げている。
どうしてこいつ、こんな簡単に俺を持ち上げられるんだ? すごい力だな……。
いや、そんなことを考えている場合じゃない。
俺は男に下ろしてくれと伝えようとした。けれど、どれだけ声を出そうとしても、喉から出てくるのは泣き声ばかりだった。
「おぎゃ……おぎゃ……おぎゃ……」
俺の喉、今日は一体どうなってるんだ?
男は俺を抱き上げたまま、自分の肩へ乗せる。そして、子供をあやすように背中を軽く叩きながら、優しく声をかけてくる。
「よしよし、いい子だ。いい子だぞ」
ここまできて、俺はようやく本格的に違和感を覚え始めた。
俺って、普段からこんなに小さかったか? どうして地面がこんなにも遠くにあるんだ?
俺はさっきまで会社の椅子に座っていたはずだ。それなのに、今は男に抱き上げられている。しかも、この高さ。
まるで、赤ん坊の身体みたいじゃないか……。
待て……まさか……。
目を覚ましてから今まで、俺は一度も自分の身体を見ようとは思わなかった。けれど、ここにきて初めて、俺はゆっくりと両手を目の前へ持ってきた。
「……!!!!! なんだこれ?!」
目の前にあった両手は、俺が信じられないほど小さかった。
俺はその小さな両手をしばらく見つめたまま、頭の中で起きていることをほとんど処理できずにいた。
何が起きている?
俺は会社で仕事をしていた。それから少し休もうと思って、目を閉じた。それだけだったはずだ。
まさか、これが世間でいう転生ってやつなのか?
俺は仕事をしていたはずだ。それなのに、一眠りしたと思ったら、そのまま別の世界へ来てしまったっていうのか……?
☆ これは私にとって初めての作品です。
日々少しずつでも、より丁寧で完成度の高い作品に仕上げていけたらと思っています。
♪ もしよろしければ、これから始まるこの旅に、ぜひ私と一緒についてきていただけると、とても嬉しいです。




