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『警視庁から各局。新宿署管内、男性同士の喧嘩事案入電中。現場は新宿歌舞伎町三番通り付近。近い局どうぞ』
「機捜一〇三、若松町より向かいます。どうぞ」
『警視庁了解』
時刻は夜半過ぎ。自動運転を切った車は、Uターンし歌舞伎町方面へと向かう。
助手席に座る男――天城蓮は、ハンドルを握る相棒の土門楓をちらりと見やり、マイクを所定の位置へ戻した。
「酔っ払い同士の喧嘩っすかねぇ」
「それで済めばいいがな」
新宿歌舞伎町は、指定暴力団・黒峰興業の縄張りでもある。
余程の事がない限り、一般人がヤクザに難癖をつける、とは考えにくい。
しかし万が一、というのはどこにでも転がっている。
楓の言葉の意味を察し、蓮はぶるりと身震いした。
「……楓さん、フラグ立てるようなこと言わないでください」
「いつ如何なる時も視野は広く持つべきだろ」
「それはそうっすけど、楓さんがそう言う時って大抵ろくでもないことが起こるっつーか……」
「なんか言ったか」
有無を言わさぬ圧力を楓から感じ、蓮は「なんでもありません」と、首を横に振る。
若松町から新宿歌舞伎町まで車で約八分。雑談に応じている間に現着した二人は、車から降り、件の口論をあっさりと仲裁した。
二人ともサラリーマン。きっかけは仕事の愚痴が発展した口論。車内で想像した暴力団絡みの言い争いではなく、大事にならなかったことにほっとした。
「新宿署に報告上げて分駐所に戻るぞ」
「今日は仮眠取れますかねぇ」
「さあな」
それこそフラグだろ、と楓は内心毒づき車へ戻る。
運転は蓮へ任せ、助手席側へ回り込んだ楓が車へ乗り込もうとしたその時。
「うぐ、ぇ……」
という女性の声が耳に届いた。
「……楓さん?」
「ちょっと待ってろ」
訝しむ蓮をその場に残し、楓は声がした路地裏へ足を向ける。
ゆっくりと近づくにつれ、シルエットがはっきりしてきた。
古めかしい着物を纏った髪の長い女が、衣類が汚れることも厭わずコンクリートに蹲っている。
うめき声の合間にびちゃびちゃとした水音。
飲み過ぎて吐いているのか――そっと肩に手を伸ばすと、びくりと女の身体が震えた。
「っ、つばき……?」
「いえ、警察です。大丈夫ですか?」
「え、あ……」
楓と女の目が合った。
大人とも子供とも言えない、あどけなさを残す面立ち。不安げにその目は震えており、嘔吐の所為か、顔が液体にまみれ、ひどく乱れていた。
拭くものを、とハンカチを差し出すと、彼女は無言で受け取り涙を拭う。
が、再び込み上げるものがあったのか、おえ、と嗚咽くとコンクリートへ再び嘔吐した。
「天城、コンビニで水とタオル買って持ってきてくれ」
楓が無線で呼びかけると、了解、と短い返答がイヤホンに届く。
女は吐き続け、楓を見ることもない。少しでも落ち着くように、楓は背中を擦ってやっていると、ぞく、と背筋が凍るような気配が襲った。
「触るな」
背後から鋭い声が飛ぶ。
硬質で、やや高い女の声。
楓はゆっくりと振り返った。通りのネオンが逆光になり、表情をはっきりと捉えられない。
だが、二つの赤い目は爛々と光っており、その眼光に楓は思わず身構えた。
から、ころ、と下駄の足音がゆっくりと近付く。女はその足音に顔を上げた。
「……あ、つばき」
「ふん、みっともなく吐きよって。少しは人の目とやらを気にしたらどうじゃ」
「そんなこと言ったって、匂いが……」
「……匂い?」
吐いていた女の言葉に、楓はわずかに鼻を動かした。
鼻孔に入ってくるのは生ごみと吐瀉物の匂い。
これで気持ち悪くなったのか、と楓は合点した。
〝つばき〟と呼ばれた女は、吐いていた女の知り合いらしい。
吐き気は収まったのか、彼女は楓の存在など気にも留めず立ち上がる。ふらふらとした足取りで路地を出ていこうとする二人に、ちょっと待って、と楓は声を掛けた。
「君ら、未成年だよね? ちょっと、話いいかな」
「……あ?」
少女らは足を止める。が、振り向いたのはつばき、と呼ばれた女だけだ。さっきまで感じていた寒気とは異なる、足が竦むような、冷たい殺気。
つう、と首筋を冷や汗が伝う。見逃すのは簡単だ。だが、ここで逃がせば職務不履行になる。警察として、それだけは許せなかった。
ごくりと生唾を飲みこむ。ここで指一本でも動かせば首が飛ぶ。
さてどうするか――極限の状況下で必死に思考を回転させていると、女二人の奥に人影が現れた。
「楓さん、これどういう状況っすか」
不思議そうな様子で、買い物袋を片手にぶら下げた蓮の姿。
突然現れた第三者に、楓へ向けられていた殺気が霧散する。ほっと無意識に胸を撫で下ろすと、小さな舌打ちが聞こえた。
「……仲間がおったのか」
「生憎、機捜なんでね」
「……キソウ?」
椿の手がぐ、と握り込まれるのが見えた。
蓮に目配せし、二人揃って尻ポケットへ手を伸ばす。
仕舞い込んだ特殊警棒。暴行に出るなら公務執行妨害で現行犯逮捕。従うなら補導。
どちらにせよ、確保は可能だ。
わずかに腰を落とし、殴り掛かろうとする気配に合わせて柄を握り込む――その瞬間、女の手が椿の袂を掴んだ。
「椿、駄目」
「指図するな。黙らせるだけだ」
「絶対駄目」
先程まで吐いていた女とは思えないほど、そこには、はっきりとした強い意志があった。
椿は彼女の手を払いのけると「勝手にせい」と顔を背ける。
ふう、と女は息を吐くと、楓と蓮に視線を巡らせた。
「……刑事さん、おとなしく従います。なので、」
妹の愚行を、許してください。
深々と下げられた頭に、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
楓は警棒から手を離し、蓮もそれに倣う。
「ここじゃなんだから、車まで来てもらえるかな」
「悪いようにはしないんで」
二人揃って胸ポケットから警察手帳を出す。相手に見える位置で開くと、女はそれを一瞥し、小さく頷いた。




