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時間の感覚は、とうに消えていた。
定期的に奴は現れて、私の手足を捥ぎ、欠損した部位へ生ぬるく肌にまとわりつく液体をぶっかける。
そのままどこかへ消え、私の意識もそこで途絶える。
痛みに身体が慣れることは一切ない。気付けば欠損部位は元通りに戻っていて、また捥がれ、食われ、治されて、を繰り返す。
服も一緒に破られたけれど、無くなった布は残らない。全身血まみれ。残っていた衣服も下着まで血で塗れていた。長く伸ばしていた髪も、乾いた血でごわごわと固まっている。
ある時、鬼がそばでじっと私を観察していることがあった。
「……いっそ殺して」
会話なんて最初の一回目だけで、あとは好き勝手食われているだけだった。そもそも、最初の一回目ですら、会話として成立したか怪しい。けれど、ただ見ているだけなのなら、と気力を振り絞って訴えると、はん、と鼻で笑われた。
「断る」
あの時よりも流暢な日本語で告げられた、冷酷な言葉。
「……は?」
逸らしていた視線を鬼に向けると、そこには鬼の顔――ではなく、人の顔があった。
首元で切りそろえられた白い髪。暗いのに光でも受けているのかと錯覚したくなるほど爛々と光る赤い双眸。けれど、鼻筋も、唇の形も、酷く見覚えがあった。
まるで、色だけを塗り替えた自分の顔を見せられているみたいで、ぞわりと背筋が粟立つ。
辛うじて、あの鬼だと分かるのは斜めに付けられた面だけ。
鬼は、愉しむようにゆるりと口元を歪めた。
「殺めてしまっては、肉が腐るではないか」
「……」
「かといって、一思いに喰うつもりもない。折角手に入れた極上の肉をそう易々と逃がすものか」
「……私が、自殺すれば」
「出来ると思うなよ、愚か者。舌を噛もうが首を切ろうが、うぬが死ぬことは出来ぬ」
きっと、あの液体のことだ。今までの事から嫌でも察してしまう。
家畜と同列――いや、きっとそれ以下だ。
ぐ、ときつく睨みつけるけれど、よほど癇に障ったらしい。鬼は鼻を鳴らすと、私の頭を足で踏みつけた。
「腕や足じゃ物足りなくなってきた頃だ。今日は腸でもいただこうか」
「っ……⁉」
「否、頭を捥いで脳を啜るのもまた一興か。頭が生え変われば、その五月蠅い口も少しはマシになろう」
「っ、化け物、が……!」
遠慮なく踏みつける足。その足首を掴んで力の限り引っ張ったけれど、ふん、と鼻で笑われ呆気なく振り払われる。その拍子に頭をずらして起き上がると、むんずと髪を掴まれた。
ぎりぎりと引っ張られて持ち上がる身体。ぶちぶち、と髪の抜ける音がする。
頭皮がひきつる痛みに涙目になりながら鬼の手首を掴んで爪を立てると、ずぷ、と間抜けたオノマトペが自分の腹のあたりから聞こえた気がした。
「……え?」
恐る恐る、音がした方に視線を下ろすと、ボロボロになった服を突き破って、腹に突き刺さる腕が見えた。
「なに、これ」
不思議と痛みは感じないけれど、じくじくとした熱がお腹から広がっていく。中で手が動くと、ごぽ、と隙間から血が零れ落ちた。
それと共に、湧き上がる嘔吐感に任せて吐けば、口から出たのは大量の血。
「が、ぁ……?」
びしゃびしゃと鬼の腕に血が掛かるけれど、当の本人は咎めるでも気に留めるでもなく、ずるりと腕を抜き取った。ぬらりと赤い何かを掴んだまま。
それが何かを判別できる間もなく、目の前の光景に視界が暗転した。
……それから、鬼の食事に私の「腹」が追加される。
その頃から、何をされても痛みを感じなくなった。両手足を捥がれても、腹を裂かれて内臓を啜られても、「ああ、食べられているな」くらいのうっすい感覚で気絶すら出来ない。声を上げるのも億劫で、まるで、されるがままの肉人形。
早く解放してくれないかな。同じものばかり食べてたら飽きるよね、普通。いや、飽きるって概念あるのかな。
そんなことを茫洋と考えていたら、ある日、突然鬼は私の腕を食べて吐いた。
「ぐ、ぅ……!」
「……は?」
げろげろと鬼の口から出たものが、真っ暗闇の中へ落ちていく。赤黒い液体に混じる、白い肉の塊。
「……食べたのに吐くなんて、食材に失礼じゃない?」
自分で何を言ってるんだろう、と思うけれど、片腕で起き上がって吐いている様をじっと見ていると、き、と赤い目が私を睨んだ。
「っ、黙れ小娘、なんだ、これは……!」
「そんなこと私に言われても分からないよ」
腹の中の物を全部吐き切ったのか、今度は苦しそうに呻きながら蹲る。
大丈夫だろうか、と手を伸ばして背中を擦ると、薄い着流しの下――皮膚は、汗でびっしょりと濡れていた。
「っ、小娘、お前、名前は?」
「え、名前?」
「早く答えろ!」
自分と似た顔に凄まれるのは、酷く居心地が悪い。
けれど、簡単に答えてやるつもりはない。一方的に搾取される関係ではあるけれど、心まで従ったつもりはなかった。
「……その代わり、貴方の名前も教えて」
「はぁ……?」
「呼びにくいもの。貴方が何なのか、私は知らない」
ほら、答えて。
伏せられた鬼の表情は見えない。いつかやられたように鬼の白い髪を掴み、無理矢理視線を合わせると、その目に映った感情は、〝屈辱〟だった。
「早く」
「っ、貴様に、名など……!」
「言わないなら教えない」
――必要なんでしょう?
そう無言で問いかけると、ちぃ、と小さく舌を打ち、ゆっくりと唇を動かした。
「…………椿、だ。」
たっぷりと空けられた間。そんなに嫌だったんだ……と見当違いな感想を抱いていると、痺れを切らした椿が、早く答えろ! と怒鳴った。
「菖蒲。八雲菖蒲」
途端、鬼――椿の目が見開かれ、やぐも、と噛み締めるように唇を動かすと、ぶつぶつと何かを呟きだした。
「なるほど、あいつらの……。だから……」
どんどん小さくなる声。すぐ傍にいるのに聞き取ることが出来ない。
掴んだままの髪から手を離す。力任せに掴んだ所為で痛かったかもしれない。何故かそのまま突き放すことが出来ず、乱してしまった髪を直そうと手を伸ばした瞬間、世界が大きく揺れた。
「え、」
何、と辺りを確認する前に、途轍もない落下感が襲う。目の前の椿は何事もなくぶつぶつと呟くばかりだ。
「っ、椿!」
「……」
落下していたかと思えば今度はとてつもない浮遊感。不安定な状況に、残った腕で椿にしがみ付く。
気持ち悪い。吐きそう。早く終わって……!
……どれくらい、そうしていたか分からない。一時間なのか、一分なのか、はたまた一日以上なのか。
けれど、浮遊感と落下感の繰り返しは唐突に終わりを迎えた。
むせかえるような花と土の匂い。さわりと身体を撫でていく冷たい風。投げ出した手足に触れる、濡れた草の感触。
はっとして目を開けると、目の前には夜空を背景に桜の花が咲き誇っていた。




