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――桜の樹の下には、死体が埋まっている。
梶井基次郎の短編小説にある一節だ。死と美の退廃的な対比。高校生の私にはあまり理解が出来ないけれど、昔の人はやけに情緒的なんだな、とその本を読んだ時に薄っぺらな感想を抱いた。
実際には根が地表近くに広がるから人間を埋めるのは不可能らしい、けれど。
山梨の実相寺にある山高神代ザクラ。写真家の父が有名な桜の前で家族写真を撮りたい、と、突然我儘を言い出した。なら明日行こう、と賛同したのは母で。父は母に甘く、また、母も父に激甘だ。
そんなわけで、都内から車で約二時間。県庁所在地を超えてさらに山の中へと進み、目的の実相寺へやってきた。
途方もなく太い幹。もう咲かないと一時は噂されていたのに、古い大木から新梢が伸び、その枝が満開の桜を咲かせている。短い人生だけれど、今まで見た桜の中で最も大きく、圧倒的だった。
満開の桜の下は花見客で溢れ返っている。邪魔にならないところで早々に家族写真を撮影してから、ゆっくりと桜を見上げることにした。
「でっか……」
「樹齢一八〇〇年越えのエドヒガンだ」
「エドヒガン……? なんか、不吉な名前だね」
父の言葉に思わず顔をしかめると、そうじゃないのよ、と花屋に勤める母が首を横に振った。
「東京近郊で春のお彼岸の時期に咲くから、エドヒガンって名前が付いたの」
彼岸花じゃないのよ、と思考を見透かすような母の言葉になるほど、とうなずいて、柵ギリギリまで樹に近づいた。
ふわ、と香る桜の匂い。蒼い空に映える薄桃色。気持ちの良い風と温かい日差し。これぞ春爛漫だ。
人の邪魔にならない程度に、樹の周りをぐるりと囲う柵へ近づく。幹に触れることは出来ないけれど、なんだかこの桜の存在が気になって手を伸ばすと、菖蒲、と私を呼び止める母の声がした。
「菖蒲、そろそろ帰るわよー?」
「っ、あ、ちょっと、」
待って、と声を出そうとしたところで、ぐ、と体温の無い〝何か〟に手を掴まれた。そのままぞぞ、と、手首を通って腕を覆う、見えない何か。気味が悪くて離れたいのに、手を引くことはおろか、声を上げることも出来ない。
どうしたの、と不思議そうに私を見るお母さんから、まるで、世界がスローモーションになったみたいに、ゆっくりと青い空に伸びる桜の花に視界が移る。このまま頭を打つ、と、衝撃を覚悟したにもかかわらず、ぽっかりと空いた穴に落とされたような浮遊感。
それがあまりにも怖くて、ぎゅ、と目をつぶると、いつの間にか私は落下の恐怖から気絶していた。
「ぅ、ん……」
目が覚めると、自分が目を開けているのかも分からない真っ暗闇に包まれていた。
もしかして死んだ……? と自分の身体をまさぐってみると、ちゃんと感触がある。手首に指をあてれば脈も感じる。生きている。でも、落下して身体を打ち付けている筈なのに、身体には全く痛みが残っていない。
「ここ、どこ……?」
身体を起こして上下左右見回してみても、一筋も光らしきものはない。地面をぐ、と押すと軽く指が沈む。このお陰で痛みがなかったのか、と、とりあえず納得して立ち上がる。
匂いもなければ風もない。ただ、気持ちの悪い何かが纏わり付いているような、嫌な感じがひどい。
「お父さん……? お母さん……?」
声を出して、一歩一歩おそるおそる歩き出してみた。
歩きにくさはあるけれど、歩けないことはない。呼びかけに答える声もない。
壁はないか、と手を伸ばしてみても、まとわりつく何かがあるだけで、障害物らしきものにぶつかる様子も全くなかった。
……どれぐらい歩いただろう。すっかり足が疲れてしまってその場に座り込むと、柔らかい地面にず、と自分の重さで沈む。
気持ち悪さがしんどい。膝を抱えてうずくまっていると、遠くでぼきん、と何かが折れる音が耳に届いた。
「……なに、今の音」
木の枝じゃない。もっと鈍くて、何か厚いものに覆われている硬いものが折れた音。
あたりを見回しても、どこまでも続く闇は変わらない。なのに、折れる音だけが一定間隔でどんどん近付いてくる。
ぼきん、ぼきん。ぼきん、……ぼきん。
遠かった音が、徐々に徐々に近づいてくる。その内、折れる音以外にも、液体を啜る音と、もちゃ、くちゃ、と何かを噛む音が混ざる。
ああ、近い。さっきまでは感じ取れなかったのに、血なまぐさい臭いが鼻を刺す気がした。
「っ、う……!」
見えない何かから隠れたい。でもどうやって。
がたがたと震えそうになる歯を必死に食いしばって、出来るだけ身体を小さく折りたたむ。
声なんて出したらおしまいだ。
うっかり声を漏らさないように、白く冷え切っているのに汗ばんだ手で口を覆う。
ずる、ずる、と何かを引き摺る音まで追加されて、迫る恐怖にぼとぼとと涙が落ちた。
お願い、見つからないで。
ぎゅ、と目を瞑り音が過ぎ去るのを待っていると、ふと、音が止まった。
「……?」
――消えた?
音は消えた。そこに何かがいる気配も、感じられない。もしかしたら、さっきまでの音を出していた〝何か〟は、闇の中に消えたのかも。
恐る恐る目を開けると、薄らぼんやりとした膝小僧が目に入る。そのままゆっくりと顔を上げると、至近距離に鬼のお面があった。
「っー‼」
「匂イノ元ハオ前カ」
声にならない悲鳴が出た。
お腹の底から響くような低い声。片言の日本語。牙を剥き、額には角を生やした顔。
鬼。鬼だ。見たことないけれど、あれはきっと鬼だ。
――逃げなきゃ。
その一心で座り込んだ体勢から走り出そうとしたけれど、ずぶり、と地面に足がめり込んで無様にも転んでしまった。
「いや、やだ、足、」
鬼の手が伸びる。さっきまであった足場の悪い地面じゃなくて、ぬかるみに足が取られてずるずると得体のしれない何かに、底へ底へと引き摺り込まれる。
藻掻けば藻掻く程深みにはまって、なんとか鬼の手から逃げようとするのに、あっという間に体半分が地面に埋まった。
「たすけ、て……!」
「女カ、丁度欲シカッタトコロダ」
無情にも、私の右腕は鬼に掴まれた。
食い込む爪が痛い。そこからつう、と生温かい液体が腕をつたい落ちていく。
頭はパニックで、うまく言葉が口から出ない。どうして、と顔を上げると、面の奥にある真っ赤な目と視線がかち合った。
そして。
――ぼきん。
「っああああああああ!」
痛い痛い痛い痛い……!
肩が外れた? 腕が折れた? それとも、捥げた?
声を上げても、のたうち回っても、痛いことしか頭は理解出来なくて、自分の右腕がどうなっているのか、なんて全く分からない。
「ああ、う、が……!」
「暫ク寝テイロ」
マズハ味見ダ。
鬼の姿が遠のいていく。その手には――人の腕が、握られていた。




