第295話 光秀の娘(後編)
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追記 ご指摘を受けて少し修正しました。
「恐れながら、申し上げます」
英の透き通った美しい声が、秀吉だけでなくその場にいた者すべての耳に届いた。皆が一斉に英へ視線を向ける中、彼女は言葉を発する。
「筑前守様(秀吉のこと)。私は惟任日向守(明智光秀のこと)の娘にございます。我が父日向守は、主君であらせられた上様(織田信長のこと)を討ち果たし、そして筑前守様に仇として討たれました。謀反人の娘として、もう死を覚悟しております。
・・・しかしながら、この子達は津田七兵衛様(津田信澄のこと)の血を受け継ぎし織田の者にございます。何卒、この子達の命ばかりはお助けいただきとう存じまする」
そう言うと、英は再び平伏した。その後ろで控えていた妻木菊次郎が声を上げる。
「恐れながら言上仕る!此度の謀反、御方様(英のこと)は全く関わり合いのなかったこと!そもそも、主君たる七兵衛様すら知らなかったこと!何も知らなかった御方様まで咎を受けるは、あまりにも理不尽!もし、御方様に咎ありとするならば、何卒、何卒この妻木菊次郎が首を捧げまする!拙者、こう見えて日向守の一門の者!我が首も必ずや筑前様の功の助けとなりましょう!」
菊次郎の言葉に、秀吉が納得したように頷く。
「ああ、妻木と申しておったから、もしやとは思っておったが、やはり貴殿は日向守の御方様の一門の出じゃったか」
秀吉がそう言うと、菊次郎は若干驚いたような顔をしつつ、「御意」と答えた。
「確かに、拙者は日向守の御方様の一族の出でございますが・・・。よくご存知で」
「何、だいぶ昔に日向守から聞いておってのう。それに、妻木といえば、明智と同じ土岐の庶流じゃろう?儂が美濃の国衆に調略を仕掛けておった際、美濃の国衆についてよぉ調べたからのう。知らぬはずがない」
秀吉がそう言うと、菊次郎は頭を下げた。秀吉は視線を重秀に向ける。
「して?藤十郎は英殿を助けたいと?」
秀吉の問いかけに、重秀は「はい」と力強く返事をした。
「父上。私は五月十七日に安土城にて七兵衛様と共に宴席に出ておりました。その際、殿様(織田信忠のこと)より殿様が天下人になられた際に織田家をどうするか、という話を聞いておりました」
重秀がそう言うと、秀吉は「ほう・・・」と言いながら顎を撫でた。小一郎や黒田孝隆が興味深そうに重秀を見つめる中、重秀は話を進める。
「殿様の話を聞いていた時、七兵衛様はとても嬉しそうに話を聞いておりました。そもそも、七兵衛様は殿様の連枝衆の一人として、織田家の中枢にいることが約されておりました。そんなお方が、わざわざ上様や殿様を討たんと欲していたとは思えぬのです。
それに七兵衛様はその後、三河守様(徳川家康のこと)と行動を共にされ、そのまま大坂城へ戻られた、と聞いております。その間、日向守の居城である坂本城や亀山城に寄っておりませぬ。もし、日向守様の謀反に同心しておれば、日向守と行動を共にすると思うのですが」
重秀がそう言うと、傍で聞いていた長岡忠興が呟く。
「そういえば、義父上様(明智光秀のこと)は謀反を起こす直前、それがしを坂本城で饗してくれたが、ついぞそんな話をしてくれなかったな・・・」
忠興の言葉を聞きながら、重秀が話を進める。
「これは私の考えなのですが、日向守は長岡様や津田様に何も相談せずに謀反を起こしたのではないのでしょうか?恐らく、事を成した後に長岡様や津田様にお味方いただくよう、説得するつもりだったのでしょう。その方が秘密は漏れにくいですし」
重秀の話に、皆が黙り込んだ。重秀の推理が正しそうに思えたからだった。そんな中、秀吉が口を開く。
「・・・ひょっとしたら、藤十郎の言う通りやも知れぬ。が、今となっては詮無い事よ。当の本人が死んでおるからのう。それより、英殿じゃ・・・」
そう言うと、秀吉は英を舐めるように見つめた。3人の子持ちとは思えぬほどの美貌を持つ英を見つめる秀吉に、重秀が声を掛ける。
「父上。父上は逆臣だったとはいえ、英殿の父である日向守を討ったのです。英殿から見れば、父上は仇です。変な事を考えては、寝首を掻かれますよ?」
重秀がそう言うと、小一郎と孝隆だけでなく忠興や菊次郎までが冷たい視線を秀吉に向けた。
「あ、阿呆!そ、そんなことぐらい分かっておるわ!儂をなんだと思っとるんじゃ!」
秀吉がムキになってそう声を上げると、重秀は「なら良いのですが」と言って鼻から息を吐いた。秀吉はそんな重秀と英を交互に見ながら顎をさすった。
「ふむぅ、なるほどのう・・・」
そう言いながらニヤリと笑った秀吉は、ポンと膝を打つと明るい声を上げる。
「まあ、ええじゃろう。英殿が日向守の謀反に加わっとる、という証はないんじゃからのう。それに、夫も父親も失った女子と幼子に何ができるというのか。
・・・藤十郎、その母子はお主に預ける故、善きに計らえ。それと、菊次郎と言うたか。そいつには処分を言い渡す」
秀吉はそう言うと、視線を菊次郎に向けた。菊次郎が身を固くして秀吉の話を待つ。
「・・・お主は本来、明智の身内として厳しく処さなければならぬのだが・・・。しかし、日向守の元に行かずに英殿とその子供を守った。その忠誠心に免じて見逃してやる。路銀を与える故、どことなりとも失せるが良い」
秀吉の判断に、重秀が思わず声を掛ける。
「父上、菊次郎殿を我等で匿わなくてよろしいのですか?」
「阿呆。英殿とその子供は力が無いから匿えるんじゃ。菊次郎なんて匿ってみろ。それこそ寝首を掻かれるわ」
秀吉がそう言うと、重秀は「なるほど」と納得した。すると、英が何か言おうと口を開こうとした。しかし、その前に菊次郎が大きな声を上げる。
「筑前様のご慈悲、この妻木菊次郎、生涯忘れませぬ!この菊次郎、助けてくれた生命を全て我が主、津田七兵衛様の御霊を慰めるべく使う所存!このまま仏門に入りとう存じます!」
菊次郎は一気にそう言って平伏した。英が振り向いて「菊次郎殿・・・」と言って菊次郎を見つめたが、しばらく経った後に「・・・申し訳ございません」と言って頭を下げた。
その様子を見ていた小一郎が、何かを思いついたかのように話す。
「・・・そうじゃ。英殿も仏門に入ったらどうじゃ?尼になって、俗世から離れれば追及を受けることはないじゃろう」
小一郎がそう言った瞬間、秀吉と重秀が小一郎を睨みつけた。それに気がついた小一郎が思わず声を上げる。
「な、なんじゃ!?二人共そんな怖い顔して儂を見て。何か変な事を言ったか!?」
「小一郎よ・・・。それは本気で言っているのか?過去の己を振り返ってみろ」
「叔父上が尼なんて言うと、なんか裏に何かあるような気がするんですよね。まあ、自業自得なんですが」
秀吉と重秀がそう言うと、小一郎は黙って俯いてしまった。そんな様子を見ていた忠興や孝隆達は訳が分からない、と言った顔で秀吉達を見ていた。それに気がついた秀吉が溜息をつきながら言う。
「まあ、小一郎のことはええ。長岡家も津田家も、言うなれば日向守の謀反でとばっちりを受けた家じゃ。これ以上責める気はない。今後は羽柴・・・いや織田家のために役に立ってくれれば、この筑前が悪いようには致しませぬぞ」
秀吉がそう宣言すると、皆が平伏するのであった。
長岡家と英達の処遇が決まった後、忠興と有吉立行、そして英と子供達、そして菊次郎が退出した。その者達が出ていった後、秀吉は重秀に声を掛ける。
「おい、藤十郎。お主も隅に置けぬなぁ」
「は?」
秀吉の言っている意味が分からなかった重秀が、思わずそう返した。秀吉がニヤニヤ顔で話を続ける。
「お主、あの英とやらを傍に置きたいのであろう?そのために、儂や小一郎を睨んだのじゃろう?」
秀吉の言葉に、重秀は思わず「何言ってんの?」と、父親に向けてはいけない言葉を投げかけた。
「父上、先程も申し上げたとおり、羽柴は彼女にとって親の仇なのです。彼女を私の傍に置いたら、私の寝首が掻かれますよ」
「しかしのう。滅ぼした敵の娘を妻に迎える、というのはよくある話ぞ」
秀吉がそう言うと、重秀がさらに反論する。
「父上。私の奥向は全て縁に任せています。その縁は上様の養女です。縁が養父である上様の仇の娘を私の傍に置くことを許すとお思いですか?」
「しかしのう、藤十郎よ。あの美しさであの若さ、そして三人を産んだという身体の女子はなかなかおらぬぞ?羽柴の子を増やさなければならぬのに、あの女子に手を出さぬは、ちと口惜しゅうないか?」
「・・・父上。縁もとらも照もまだ若うございます。そして、縁ととらは子を孕んでおります。二人が男児を上げれば、それで羽柴は安泰ではないですか」
重秀の言葉に、秀吉が「むむむ」と唸った。すると、話を聞いていた小一郎が重秀に言う。
「・・・兄者。藤十郎の妻達は十分子を生すことができるんじゃ。ここは藤十郎の判断に任せたほうがええじゃろう」
小一郎の発言に、秀吉は溜息をつく。
「・・・それもそうじゃな。縁もとらも子を孕んでる今、さほど慌てなくても良いし、良き女子は別にあの明智の娘でなくても他にもおるわな」
そう言うと秀吉は気を取り直したかのように明るい顔になった。そして、ポンッと両手を叩く。
「よしっ!藤十郎についてはここまででいいじゃろ!別の話をせねばならんからのう!時が惜しい!」
「別の話・・・?」
重秀がそう尋ねると、秀吉が頷く。
「うむ。実は五郎左殿(丹羽長秀のこと)と紀伊守殿(池田恒興のこと)と話し合い、岐阜城から清洲城に避難された三法師様(織田信忠の嫡男)にご挨拶に行くことになった。そのことを清洲に知らせたところ、前田玄以なる者から返事が来てのう。ちょうど修理亮殿(柴田勝家のこと)からも挨拶に来るという報せが来ていたそうじゃ。そこで、集まった四人で織田家の今後を話し合おう、となったんじゃ。その話し合いについて、事前に意を一つにしておこう、と思ってのう」
秀吉がそう言って話を続けようとした。しかし、重秀が口を挟む。
「あの、父上。四人だけですか?伊予守様(滝川一益のこと)は?あの方も重臣では?」
「・・・伊予守はまだ上野国におる。奴からの使者の話では、北条の動きが怪しく、動けぬらしい。ひょっとしたら、今頃北条と一戦交えんとしているやもしれぬな」
この時、秀吉は知らなかったのだが、滝川一益は六月十九日にすでに上野国と武蔵国の国境にある神流川流域にて大規模な戦闘を行っていた。そして一益が敗北し、この頃にはすでに信濃を経由して旧領の伊勢に向かっていた。
「まあ、伊予守についてはどうでも良い。それよりも、清洲での話し合いじゃ。さっきも言ったとおり、儂等は三法師様にご挨拶に行くことになっとる。つまり、儂を始め、皆はすでに三法師様が新たな織田家当主じゃと思っておるわけじゃ」
秀吉がそう言うと、重秀達は首肯した。
天正十年(1582年)三月。織田信長は武田攻めで功績を挙げた織田信忠に対し、「天下の儀も御与奪」と言ったとされる。これは、織田信長の天下人としての地位を信忠に譲る、という宣言であった。
この宣言を以て、信長は天下を信忠とその血筋に継承していく、という意思表示をした、とされている。そのため、当然信忠の後継者は三法師になる、と織田家家臣は思っていた。
「問題は、三法師様は三歳じゃ。これからの織田家を継ぐにはあまりにも若すぎるじゃろ。そこで名代を誰にするか、ということになる。まあ、ここで中将様にするか、侍従様にするか、で揉めるんじゃろうが」
秀吉がそう言うと溜息をついた。そんな秀吉に小一郎が話しかける。
「しかし兄者。侍従様は日向守を討った際の総大将じゃ。まあ、実際は兄者が指揮を執ったが、総大将は総大将じゃ。その武功を考えれば、名代は侍従様しかおるまい」
「・・・いや、小一郎殿。その考えは危のうござる。侍従様は三男にござる。本人がなんと言おうと、中将様が次男とされている以上、中将様を立てなければ中将様がご納得されませぬぞ」
孝隆がそう言っているのを聞きながら、秀吉は重秀に顔を向ける。
「・・・藤十郎。お主はどう思う?」
そう言われた重秀は、「そうですね・・・」と言って考え込んだ。そして秀吉に尋ねる。
「・・・思ったのですが、名代は侍従様や中将様でなければならないのでしょうか?もっと年長の方、例えば上総介様(織田信包のこと)では駄目なのでしょうか?」
「上総介様か・・・。確かに上総介様は上様からの信任厚い弟御であった。三法師様の名代としては相応しい御方ぞ」
秀吉がそう言うと、小一郎も頷いた。しかし、孝隆が口を挟む。
「・・・しかしながら、上総介様は若殿の御方様(縁のこと)の実父。これから織田家随一の重臣として筑前様が天下を動かすとなれば、上総介様が名代となるのは、かえって露骨すぎるかと存じますが」
孝隆がそう言うと、重秀の眉間にしわが寄る。
「・・・父上が、天下を動かすのですか?真にそうお思いなのですか?父上」
重秀がそう言って秀吉を見た。秀吉が渋い顔をしながら重秀に言う。
「・・・日向守を実際に討ったのは儂じゃ。織田家中での儂の武功は比類なきものになった。そしてすでに儂等は京を掌握し、近衛様とも繋がりを持ってしまった。三法師様が織田家当主となっても、京や公家衆との取次をせざるを得ないじゃろう。それに、儂が織田家中に色々言わなければ、日向守を討った武功の報償がいただけぬであろう。儂等は相当銭や米を使い果たしたからのう。その分を京や畿内、その周辺から回収したいんじゃ」
「そうじゃな。せめて生野銀山全てをいただかんと、割に合わぬでのう」
小一郎がそう言うと、重秀はただ「はあ」としか答えなかった。そんな中、孝隆が口を開く。
「・・・果たして、それだけでよろしいのでございましょうか?」
孝隆がそう言ったので、重秀達が一斉に孝隆の方を見た。小一郎が孝隆に尋ねる。
「それでよろしいのでしょうか?って・・・。官兵衛殿は何か不満でも?」
「拙者、数年来に渡り羽柴の皆様方を見てまいりました。百姓の出でありながら上様(織田信長のこと)の信を受け、播磨の国主として一軍を率いられる筑前様。兄弟でいがみ合っている侍従様と伊勢中将様と違い、兄を立てて助け、それでいて人柄も良く但馬を治められておられる小一郎殿。そして、水軍を有し、絹と油で領地を豊かにした藤十郎様。この三人を抱える羽柴が、ただ畿内を治める織田家の重臣、という立場で満足してよろしいのでございましょうか?」
「いや、それでよろしいじゃろう。これ以上何を望むんじゃ?」
孝隆の問いかけに、小一郎がそう答え、重秀も頷いた。しかし、孝隆が首を横に振る。
「小一郎殿も若殿も欲がありませぬ。それはそれで善き人であると思いますが、人というものは往々にして欲で動きまする。それは、何かを得たい、という欲でもあり、何かを奪われたくない、という欲にございます。そして、畿内を取り、織田家随一の重臣となられた羽柴に対して、他者は己の欲をぶつけてくるものと思われまする。羽柴はそれに備え、跳ね返さなければなりませぬ。
・・・この際、あえて申し上げまする。畿内を抑え、朝廷を抱えた以上、羽柴が織田に代わって天下を差配すべし。そうでなければ、羽柴は未来永劫、他者から欲をぶつけられ続けまする」
孝隆の言葉に、小一郎と重秀が驚きの表情を顔に浮かべた。そんな中、秀吉が口を開く。
「・・・官兵衛の言うこともっともじゃ。儂は尾張中村から出て、上様にお仕えするまで、いや、お仕えし今日に至るまで、そういった連中を見てきたわ。欲をぶつけて成り上がった者、返り討ちにされた者、自ら滅んだ者もな」
秀吉が低い声でそう言い、孝隆が黙って頷いた。秀吉が更に話を続ける。
「儂は多くの人を見てきた。その分、多くの欲を見てきた。人は誰しも欲を持つ。欲を持たなそうな藤十郎や小一郎ですら欲を持つ。先程、小一郎が銀山を欲したように。藤十郎が勝龍寺城で住吉郡を欲したようにな。そしてその欲の中には、人が持っとるものを奪いたい、という嫉妬からくる欲もある。
・・・なるほど、畿内を有し、更に多くの領地を持つ儂等が、他者から嫉妬による欲をぶつけられ続ける、という言い分はもっともじゃ」
秀吉の言葉に、孝隆が頷いた。そんな孝隆に、秀吉が冷たい視線を向けながら、低い声で尋ねる。
「・・・しかし官兵衛。お主は儂に欲を言っていないのう?お主にも欲があることは儂も気がついていた。しかし、儂はお主の欲がいまいち見えておらぬ。せっかくじゃ。ここで話してもらおうか?まさか、ただのおせっかいで羽柴を天下人にしたいわけではあるまい?
・・・官兵衛よ、己の欲を儂に見せよ。儂は己の欲を言わぬ者を信じぬ。そんな奴の言う事を聞く事はできぬ」
秀吉がそう言うと、孝隆は口を閉ざした。しかし、すぐに意を決したような表情をすると、孝隆が話し始めるのであった。




