迷いの森
トニーは苛立ちをぶつけるように、教会の塀を思いきり蹴り上げた。だが、バランスを崩してその場に尻餅をつく。
「大丈夫かよ」ダニスが手を差し出す。
無言でその手を取り、立ち上がる。
「あのガキども……痛い目見せてやる」
「おい、やめとけって。あの犬、見たろ? いや、あれ狼か? たぶん魔物じゃないんだろうけど……とにかく、あんなのに噛まれたら死んじまうよ」
ダニスは止めようとするというより、恐怖に縋るようにトニーの肩をつかんだ。
「ちっ」トニーは肩に置かれた手を乱暴に振り払った。こいつは臆病でいけねえ。いざってとき、どうせ動けやしねえ。
ふっと、あることを思いつく。
「仲間を集めるぞ。あの犬の毛皮をはいで売る。肉は食っちまおう。ついでに、あの女のガキも売り飛ばしちまおう。へへ、しばらくは楽して暮らせるぞ」
「ええっ!? そんなの無理だって! 噛み殺されるよ! あの牙、見たろ!」
「だから仲間を集めんだよ。男が六人もいりゃ、あんな犬どうってことねえだろ。さっさと集めてこい」
トニーは呆れたように言い捨てると、ダニスの頭を小突いた。
「おっせえよ! 何してたんだよ! あいつら、もう森に入っちまったぞ!」
仲間を連れてようやく戻ってきたダニスに、トニーが苛立ちを隠そうともせず怒鳴りつける。
「すまねえ……って、森だと!? まさか迷いの森かよ? やめだ、やめ! 俺は降りる! あの森には入りたくねえ!」
ダニスが怯えながら後ずさる。よろめいて倒れかけたところを、一緒に来た仲間のひとり、パシュが支えながら訝しげに尋ねた。
「トニー、犬一匹始末してガキを売るんじゃなかったのか? 俺たちはダニスからそう聞いてるぜ。森に入るってんなら、桃の用意はあるのかよ?」
「そんなもん、ねえよ。あるわけねえだろ。教会に森へ入ったのがばれちまうだろうが」
基本的に、人はあの森には立ち入らない。人の領域ではないとされ、ひとたび足を踏み入れれば二度と戻れないといわれている。
そして、迷いの森に入るには、いくつかの決まりごとがある。
そのひとつが、教会の管理する桃を必ず持参することだった。だから森へ入るには、必然的に教会の許可が要る。
メイはいつも、フリージアの荷車にこっそり桃を忍ばせてくれていた。
本当は、フリージアたちは桃がなくても平気だ。それでも、家に着く頃には、いつもその桃が消えている。おかげで、メイの親切には、いまだに誰も気づいていない。
それが、誰の仕業とも知れない小さな怪異のせいだとも知らずに。
「ふん、だいじょうぶだよ。ビビりすぎなんだよ。あのガキと犬ころは、しょっちゅうあの森を出入りしてるみてえだしな。あんなガキどもが何ともねえってことは、迷いの森の話なんざ、教会のでっちあげたデマなんだろ。さあ、さっさと行くぞ」
トニーは自信満々に言い放つと、仲間を連れて迷いの森へ入っていった。
おかしい。あのガキどもが森に入ってから、まだそれほど時間はたっていない。ガキの足なら、とっくに追いつけていてもいいはずだ。それなのに、話し声も、後ろ姿も、まして足跡ひとつさえ見つからねえ。
トニーは、しだいに薄暗さを増していく森の中で、焦りと恐怖を噛み殺していた。
「なあ、トニー。もう引き返そうぜ。なんか、おかしいって。あのガキどもも見当たらねえし……帰ろうよ」
ダニスは震えながら、懇願するようにトニーに訴える。
「トニー、俺もダニスに賛成だ。さっきまであんなに明るかったのに、この暗さだ。お前の言うとおり、ただの森だったとしても、この暗さの中を進むのは危険だ。今日は引き返して、明日にしよう」
「……わ、わかったよ。しゃあねえな。明日にしてやるか」
ダニスの意見に従うようで癪だったが、パシュも怯えているのだから仕方なく引き返してやるのだと言いたげに、トニーは答えた。
だが、その声の震えまでは隠し通すことができなかった。
どこからか、楽しそうな声が聞こえてきた。
「ねえねえ、この子らは?」 「ふふふ。たぶんね、カビス様の子じゃないかな?」 「本当? 迦梨の子じゃないかな?」 「違うよ。あれ? でもカビス様の……んー、でもないかなあ?」 「ねえ、もういいじゃん。早く遊ぼうよ」
どこから聞こえるのかも、わからない。
大人なのか子どもなのかも、わからない。
男か女かも、わからない。
何人いるのかも、それどころか、本当に「人」なのかどうかさえ、わからない。
なにもわからない。ただ、姿の見えない「何か」が、すぐそばにいる。
それだけは、はっきりとわかる。
トニーたちは恐怖に足をすくわれ、その場に立ち尽くした。
いや、立ち尽くしたのではない。もう、動けなかった。
得体の知れない何かが、そこにいる。
最初に悲鳴をあげて駆け出したのは、ダニスだった。
それに引きずられるように、ほかの仲間たちも次々と背を向けて走り出す。
「えっ……待ってくれ。まって……」
トニーの声は、誰の耳にも届かないほど小さかった。
「あれ? 一人だけ置いてかれちゃったみたい。ああ、かわいそう。
じゃあ、ボクはこの子と遊んであげようっと。
ほらほら、泣かないの。ほかの子は追いかけっこか。
ボクたちは、何して遊ぼうか」
何かと目が合っている。合っているはずだ。
いいや、違う。自分は、さっきからぎゅっと目を閉じている。
その事実に、トニーはようやく気づいた。
目を開けたら、連れていかれる。
そう思った。
「あ、あ、あいつらが桃を持ってる。いや、も、持ってます」
トニーは、目を固く閉じたまま、震える声で嘘をついた。
ふっと、気配が消えた。
何者かの気配が消えた途端、金縛りが解けたように身体が動く。
トニーは出口に向かって必死に走りだした。
遠くで誰かの叫び声が聞こえた気がする。気のせいかもしれない。
だが、そんなことはどうでもよかった。
仲間も、ガキどもも、犬も関係ない。もう、知るものか。
走れ。走れ。走れ。
森の外だ。道が見える。
先に俺を置いていきやがったあいつらが悪いんだ。ざまあみろ。
外が見えたことで強気になったのか。
それとも、仲間を犠牲にして逃げ出した自分を正当化しようとしたのか。
トニーは、歪んだ笑みを浮かべていた。
急に、目の前に「ぼとっ」。
続けて、「ぼと、ぼとっ」と何かが落ちてきた。
ダニスの靴をはいた人の足だった。
膝から下だけのそれが、何本も、地面に転がっている。
ほかの仲間は、どんな靴をはいていたっけ──。
いま考えなくてもいいことが、ふと頭をよぎる。
「もー、嘘ついたな。誰も持ってなかったよ。ふふ。
でもね。ふふ。あの子のはね、またこっそりもらっておいたけどね。ふふ。今日も気づいてなかったよ。
そうだ、そうだ。遊ぼ。遊ぼうね。
じゃあ、追いかけっこをはじめよう」
「おい!今度は、すぐに獲るなよー」
「そうだぞー。この子しか動かなくなったんだからなー」
さっきの「何か」が、増えている。
無邪気に遊びの相談でもしているのか。そんなことさえ、もうわからない。
さっきまで見えていたはずの森の外が、もう見えない。
気づけば、いつの間にか、まったく別の場所に立っていた。
どうして、こんなことになっちまったんだろうな……。
「最近、トニーたち見なくないか?」
「ああ。何日か前にダニスが、ほかの奴らに声かけてるのは見たな。トニーから儲け話があるってよ」
「ふーん。じゃあ今ごろ、どっかでいい思いしてんのかね」
それきり、トニーたちの行方を知る者は、誰もいなかった。




