家族への拝謁 2
姉様の部屋の前には、あの白い奴が立っていた。
名前は何だったか。まあ、どうでもいい。尋ねるのも面倒だ。
「陛下の命により、姉上に会いに来た。もう話は通っているだろう。中へ通してくれ」
そいつが答えるより早く、部屋の中から、何かが転がるような慌ただしい物音が聞こえてきた。
この部屋の防音はどうなっているのか。
カイは一瞬そう思ったが、すぐに理由に思い当たる。
誰にも会いたくないと言って部屋にこもれば、周囲は心配する。王族ならなおさらだ。
自暴自棄になって命を絶たないか。あるいは、賊の侵入を許していないか。
そのため、この部屋は中の音も外の音も、互いに聞こえるようになっているのだ。
自分を含め、王族がこの有様では、この国の先行きを憂える者がいてもおかしくない。
そんなことを思ってカイが苦笑した、その直後だった。
扉が、ばんっと大きな音を立てて開く。
目の前の光景に、その場にいた誰もが言葉を失った。
あれほど美しく輝いていた姉は、髪をぼさぼさに乱し、頬はやつれていた。
裸足のまま、寝間着同然の姿で飛び出してくる。
そしてカイの腕をつかむと、脇目も振らず彼だけを部屋へ引きずり込み、再び扉を固く閉ざした。
「殿下!」
パトリックは不敬と承知のうえで、隣で制止する護衛騎士を振り切り、扉を何度も強く叩いた。
そのまま壊してでもこじ開けかねない勢いだった。
「大丈夫だ。ベルナール、パトリック。心配はいらない。部屋には姉様と私しかいない」
カイは目の前の姉を見つめたまま、背後の扉に声をかけた。
扉を叩く音が止み、代わりにベルナールの落ち着いた声が返ってくる。
「かしこまりました。何かあれば、すぐにお声がけくださいませ。まだ午後の授業も残っておりますので」
ベルナールめ。
気を紛らわせようとしているのだろう。こんな時に、わざわざそんな皮肉を言ってくるあたりが実にあいつらしい。
カイは思わず笑った。
「そこは、もう今日は終いだろう。……分かった。何かあれば声をかける。二人とも、そこにいてくれ」
扉の向こうから、二人の返事が聞こえた。
「……カイ。そんなふうに、笑えるようになったのね……」
かすれるほど小さな声だった。
聞き違いかと思った。けれど目の前の姉は、まっすぐに弟を見つめながら、静かに涙をこぼしていた。
「姉様。お久しぶりです。扉をあのように開ける癖は、相変わらずなのですね。
陛下もご心配なさっておられました。……何があったのですか」
カイは姉の肩をそっと抱き、倒れていた椅子を起こして、座るよう促した。
静かに部屋を見渡せば、ひどい有様だった。
カーテンは固く閉ざされ、暴れたことでもあるのか、あちこちで物が倒れている。
テーブルの上には本や書類が散乱していた。
カイはそれらを一つずつ拾い上げ、黙って片づけながら、姉の返事を待った。
使用人のように立ち働く弟を、姉は黙って見つめていた。
「何か温かいものを飲んだ方が、少しは落ち着くでしょう」
そう言って、カイは扉の外に声をかける。
「ベルナール。湯を持ってきてくれ。茶器も頼む」
すると、エレナがかすかに呟いた。
「……フィナンシェが食べたいわ」
カイはすぐに言い直す。
「ベルナール。茶菓子にフィナンシェも」
扉の向こうから返事が聞こえると、カイは部屋のカーテンに手をかけた。
固く閉ざされていた布を開けば、やわらかな陽の光が差し込んでくる。
「私も、暗闇に安らぎを求めた時期がありました。ですが、今日はとても天気がいい。少しでも陽を浴びた方がよろしいでしょう」
そうしているうちに、扉が控えめに叩かれた。
頼んでいたものを受け取ると、ベルナールの後ろには、心配のあまり憔悴しきったコリンナの姿があった。
カイは湯浴みの支度を頼み、扉を閉める。
それから姉に茶を淹れ、フィナンシェを添えて差し出した。
「カイは、自分でお茶も淹れられるのね」
姉様は左の手首を押さえたまま、目の前で湯気を立てるティーカップを見つめていた。
「ええ。これでも、ベルナールに褒められたことがあるのですよ。ですから、少しは自信があります。……どうか、飲んでみてくださいませんか」
そう促すと、姉様はこくりと頷いた。
そして右手でカップを包むように持ち、ひと口だけ茶を飲んだ。
左手首をつかむその指の下にあったのは、以前、カイが贈ったブレスレットだった。
「美味しいわ。とても美味しい。カイも一緒に飲みましょう。フィナンシェ、好きでしょう」
カイは一瞬目を見開いたが、すぐに微笑んで頷いた。
「ええ。自分で淹れておいて言うのも何ですが、なかなか美味しいですね。
姉様は、僕がフィナンシェを好きなことを覚えていてくださったのですね」
そこでふと、姉の左手首に目をやる。
「それに、そのブレスレット……使ってくださっていたのですね。嬉しいです。
僕と姉様の色で作らせたのですよ。お気づきでしたか」
姉様に対して、酷く醜い、憎しみの感情を抱いていたことは、自分でも分かっていた。
けれど、何気ない会話の中で口にしたことを、姉様が覚えていてくれた。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
自分も、ずいぶん簡単なものだ。
カイはそう思って、少しだけ笑った。
「当たり前でしょう。あなたは、たった一人の大切な弟よ」
姉様はかすかに微笑んだ。
だがその笑みはすぐに崩れ、みるみるうちに顔色が失せていく。
俯いたまま、姉様は自分を責めるように震える声で言った。
「……なのに……私は、あの日……。ごめんなさい。
ごめんなさい……ずっと、ずっと謝りたかったの……。
あなたを……愚かにも、恐れてしまったことを……本当に、ごめんなさい」
ぼたぼたと涙を落としながら謝り続ける姉を前にして、カイはかけるべき言葉を見つけられなかった。
「すぐに……あなたのところへ行かなくてはと思ったの……。
でも……拒絶されたらと思うと、怖くて……。それならせめて! 加護を操る術を……姉の私が! あなたに教えられたらと思って……。
それで、ずっと調べていたの……。けれど、何も見つからなかった。何ひとつ……。そうしているうちに、時間ばかりが過ぎてしまって……」
姉様は、せきを切ったように言葉をあふれさせたかと思えば、次には今にも消えそうな声になる。
あれほど散らかっている書類も本も、そのためのものだったのだろう。
目を凝らせば、並んでいるのは加護についての記述ばかりだ。
他国から取り寄せたと思しき資料まで混じっている。
この荒れた部屋は、姉様が立ち止まっていた証ではなかった。
どうにか自分のために道を探し続けた、その跡だった。
そう気づいた途端、こんな状況だというのに、カイはどうしようもなく嬉しくなってしまった。
「私の……た、たった一人の、お、弟なのに……。
だ、誰にも……傷つけさせないって……決めていたのに……。
なのに……カイ……。カイ。本当に、ご、ごめんなさい……。こ、こんな愚かな、あ、姉を…ね、姉様を……どうか、ゆ、許して……」
嗚咽まじりに謝り続ける姉を見て、カイはようやく理解した。
姉が欲しかったのは、赦しそのものよりも、もう一度手を伸ばしても拒まれないという確かさなのだと。
カイは静かに姉を抱きしめる。
「姉様。ありがとうございます。
僕を助けようとしてくださっていたのですね。僕はそれにも気づかず、勝手にひとりで傷ついていました。
……姉様も、お辛かったのですね。
もう大丈夫です。こうして会えたのですから、これからはもう大丈夫です」
「私の前で、僕と言ってくれるのね……。帰ってきてくれたのね」
カイには、姉様が何を言っているのか、すぐには分からなかった。
けれど――ようやく、姉様と目が合った気がした。
もう、きっと、大丈夫だろう。
「姉様。女性にこのようなことを申し上げるのは失礼かもしれませんが、弟として、あえて言わせていただきます。
目もこんなに腫れておられますし、お姿もだいぶ乱れておいでです。
外ではコリンナが待っております。湯浴みをなさって、整えたお部屋でゆっくりお休みください。
また明日、お茶を飲みましょう」
姉様はきょとんと目を丸くした。
けれど次の瞬間には、見慣れた気の強い表情に戻る。
「まあ。女性に向かって、なんて失礼なことを言うのかしら。……でも、今回は私が引いてあげるわ」
まったく姉様は。
カイは呆れたように笑い、外で待っていたコリンナだけを呼び入れた。
「エレナ様……」
久方ぶりに姿を見た途端、コリンナは張りつめていたものが切れたように泣き崩れた。
「コリンナ。ごめんなさい。あなたには、心配ばかりかけていたわね」
姉は困ったように微笑み、泣いているコリンナの肩をやさしく叩く。
するとコリンナは、今度は驚いたように顔を上げた。
「エレナ様が……そのようなお言葉を……。カイ殿下、本当に、ありがとうございました……!」
言い終える前にまた涙があふれ、結局コリンナはさらに大きく泣き出してしまった。
離宮へ戻る道すがら、あからさまに不貞腐れているベルナールに、何かあったのかと声をかけた。
だが、返事はない。
代わりにパトリックが、いかにもどうでもよさそうに答えた。
「殿下の一番がエレナ王女殿下に戻ったのが、面白くないんですよ。放っておけばそのうち機嫌も直ります。今日は疲れましたし、もう飯にして休みましょう」
「何を言ってるんだ。まあ、疲れたのは本当だけどな。ベルナール、早く僕らの家に帰ろう。今となっては、あの離宮が一番安らぐよ」
そう言って大きく伸びをすると、パトリックが「天然の人たらしだな」と半ば呆れた声を漏らした。
けれどベルナールは、たちまち機嫌を直したらしく、珍しいほど弾んだ声で応じる。
「殿下。たしかに本日はよく働かれました。そうですね。早く、私たちの家に帰りましょう」
何だったのだろう。
まあ、授業のことを忘れているのなら、それで構わないか。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
前回と含めて1話にしようかと迷いましたが、長くなるので2話に分けました。
これからもよろしくお願いいたします。




