神鳴り 1
突然、エレナ王女が訪れるとは想定外だった。
ベルナールは、ふたたび授業に意識を戻したカイの後ろ姿を眺めながら、先ほどの一件を反芻していた。
これまで彼は、エレナ王女とカイが顔を合わせぬよう、予定を細かく調整してきた。王城内で偶然すれ違うことすらないよう、導線にまで気を配っていた。骨の折れる作業ではあったが、先ほどのカイの様子を見るかぎり、その苦労は無駄ではなかったらしい。
かつてカイがただ一人心を許していた姉への執着は、もう以前ほど強くはない。ベルナールはそれを少しずつ削ぎ、自覚のないまま、自分へ依存が向くよう仕向けてきた。疎ましかった乳母もすでに排され、姉と過ごしたいと口にすることもなくなった。
ここまで運んだというのに、まさか当のエレナ王女のほうから踏み込んでくるとは思わなかった。
王女も思いのほか、弟への情を捨てきれていなかったのだろう。
だがベルナールには、カイの信頼がすでに姉ではなく自分へ傾いているという確信があった。
まあ、あと数ヶ月もすれば祝福の儀だ。
それが終われば、王子の私への信頼は揺るぎないものになるだろう。
加護を授かる特別な年であっても、国王陛下はカイ王子の誕生を祝う宴を開かれない。
死産したリリア王妃を偲んでのことなのだろう。
今年こそは違うかもしれぬと思っていたが、結局そうはならなかった。
そのことを知ったとき、さすがの私も王子を不憫に思った。
だが、傷ついた心ほど入り込みやすい。
利用しない手はない。
王位を継ぐのはエレナ王女で決まりきっている。
強い加護を授かったうえ、祝福の儀の前から炎を扱えていたという。もはや疑う余地はない。
王子は姉君を支えることを己の務めとして受け入れるよう仕向けている。
私はその傍らで、うまく立ち回っていればいい。
それで十分だ。安泰なのだから。
ルシエナ島の四王国における王位継承は、きわめて単純である。
その国の始祖の加護を授かった者が、次代の王となる。
政略も駆け引きも、その理の前ではほとんど意味をなさない。
神に選ばれた者こそが王となるのだ。
ゆえにベルナールも、カイを唆して王位を狙わせようなどとは考えていない。
彼が望むのは、王城の内で優位な立場を確保することだけである。
それから月日はあっという間に過ぎ、ついにカイ王子殿下の祝福の儀の日が訪れた。
驚くべきことに、その式にはイフタリマ王国の国王、サムエル・トーキン・イフタリマ陛下が列席していた。
四王国の中でも最も長く玉座にあり、生ける伝説とまで称される御方である。
参列されるとは聞いていた。だが、まさか本当にこの目で拝することになるとは思っていなかった。ベルナールは、神を目の前にしたような心地さえ覚えていた。
300歳を超えているという噂は本当なのだろうか。
見た目はどう見ても20代半ばほどにしか見えない。
王位を継いだ者は霊人となり、老いることなく、新たな継承者が現れるまで生き続ける。そう聞いてはいたが、実際に目にすると、やはり不思議としか言いようがなかった。
ベルナールは不敬とわかっていながら、イフタリマ国王陛下の御姿をまじまじと見つめてしまっていた。
どうやら、それはカイ王子も同じだったらしい。王子は興奮を隠しきれぬ様子で、ベルナールに声をかける。
「ベルナール、イフタリマ国王陛下がおられる。私の儀式のために、わざわざロゴノワまでお越しくださったのだな。ご挨拶をしなくては」
儀式の間に立ち入ることを許される者は限られている。
王族の加護にまつわる事柄には秘匿すべきものが多いためだ。
そのため、この場にイフタリマ国王陛下のお側に控えている者も、ただ一人しかいなかった。
短い黒髪の大男で、どこか眠たげな面差しの男だった。
だが、その佇まいには、陛下と同じく、人とは異なるものを思わせる気配がある。
静かにそこにいるだけで、ひどく目を引く男だった。
「イフタリマ国王陛下、本日は祝福の儀にご列席を賜り、誠にありがとうございます。お目にかかれて光栄でございます」
カイは緊張しながらも堂々と陛下に挨拶をした。これまでの王子の姿しか知らない者からしたら別人と見紛うほどだった。
「丁寧なご挨拶をありがとう。此度の儀も、楽しみにしておるよ」
陛下は見た目に反して落ち着いた趣で微笑み、カイの頭をそっと撫でた。
大人の男に頭を撫でられるのは初めてで、カイは目を丸くした。だが、不思議と嫌ではなかった。父の手の温もりとは、このようなものなのだろうか。そんなことまで思った。
「ああ、すまない。つい手が伸びてしまった」
陛下は少し気まずそうに手を引き、自分の頭を掻いた。
その隣の男は、「まったく坊はこれだから」と半ば呆れ顔で呟いていた。
気づけば陛下のまわりには挨拶をする人々が集まっていて、カイは名残惜しさを覚えながら、ベルナールに促されて祭壇へ向かった。
いよいよ、カイ王子殿下の祝福の儀が始まる。
おそらく王子は、エレナ王女ほどの強い加護は授からない。誰もがそう思っていた。
ベルナールもまた、不敬を承知で、自分とさほど変わらぬ程度だろうと見ていた。だからこそ、王子はきっと扱いやすい。自分の手で導ける。そう踏んでいた。
儀式を終え、ロゴノワ国王陛下の落胆を前にして、傷つき、うなだれる王子。その肩に誰より優しく手を置き、慰め、導くのは自分の役目になる。
ベルナールは、そうなる未来を疑いもせず、胸の内でほくそ笑んでいた。
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