違和感
「最近、というより、もう何ヶ月もカイと話せていないわ……」
左手首に光る二つの石を見つめ、エレナは誰に聞かせるでもなく、寂しそうに呟いた。
それはカイが、エレナの10歳の贈り物にと用意していたものだった。彼の乳母だったカミラから受け取ったとき、エレナは初めてそれを知った。
カミラはひどく悔しげで、今にも泣き出しそうに見えた。
カイには新しい従者がつき、そのため乳母である自分は、もうゆっくり休むよう殿下からいとまを出されたのだと、彼女はエレナに告げた。
せめて最後に、このブレスレットだけは自分に渡させてほしいと願い出て、その役目を得たのだとも。
けれどエレナには、それがカイの想いを届けたいからというより、最後に自分と言葉を交わす口実を得たかったからなのだろうとわかっていた。
案の定、カミラは、リリア様のお気持ちを無下にしているのではないか、これまでその想いのために尽くしてきたのにと、愚痴をこぼし続けた。
ため息の漏れそうなひとときだったが、それでもエレナの胸には、それ以上に深い喜びがあった。
カイが自分のために贈り物を用意してくれていた。
そのことが、たまらなく嬉しかったのだ。
祝福の儀の後は、目まぐるしい忙しさだった。
けれどそれも少し落ち着き、今では忙しくはあっても、大切な弟と食事や庭園を散歩する時間ぐらいはある。
なのにそんな時間も取れていない。
カイも、従者がついたことで良い刺激を受けたのだろう。
王族としての務めを果たそうと、勉学にも剣技にも励んでいるようで、以前より忙しく過ごしているらしい。
それなのに、この王城の中ですれ違いもしないとは、どういうことなのだろう。
それに、カイに従者がついてからもう五ヶ月も経つのに、エレナはその従者にさえ、まだ会えていなかった。
失礼ではないかと、エレナは思う。
カイに会えない不満を、半ば八つ当たりのように、その従者へ抱いていた。
「ちょっとカイに会いに行くわ!」
授業のさなか、エレナは不意に立ち上がると、そう言い放って扉へ向かってつかつかと歩き出した。
家庭教師の女性はあっけに取られて立ち尽くし、控えていた護衛も慌てて制止したが、エレナは聞き入れないまま部屋を出て行ってしまう。
カイのいる部屋の前にたどり着いたころ、騒ぎを聞きつけたコリンナが追いついた。
「エレナ様。まだ授業の途中です。カイ殿下のもとへ行かれるとのことですが、殿下もただいま授業中でいらっしゃいます。後ほど改めてお時間をお作りしますので、どうかお戻りください」
「あら、コリンナ。そんなこと言ってもう何ヶ月もカイと話せてないのよ。そんなの待ってられないわ」
そう言ってエレナがノックもせずに扉を開こうとすると、向こうから扉が開かれて無邪気な笑顔のカイと再開できた。
「姉様、お久しぶりです。私に会いに来てくださったのですか。嬉しいです。ずっとお話ししたかったんです」
いつもと変わらぬ愛らしい笑顔だった。
それなのに、なぜかエレナは胸の奥にかすかな違和感を覚える。
けれど、まあいいわと気を取り直し、満面の笑みでカイとの再会を喜ぼうとした、そのときだった。
「殿下、急にどうなさったのですか」
カイの後ろから、見知らぬ少年が慌てた様子で追いかけてくる。
こいつが、例の従者ね。
エレナは胸の内でそう吐き捨てると、自然とベルナールへ向ける声も冷たくなった。
「お前がカイの従者なのね。私に挨拶のひとつもないなんて、随分な身の程だこと」
カイは、いつもは優しい姉がベルナールに向ける冷たい態度に、戸惑いを隠せなかった。
「姉様、どうされたのですか。いつもの姉様らしくないです……」
悲しげで、どこか怯えたようなその表情を見て、エレナははっと我に返る。
その隙を逃さず、ベルナールが静かに口を開いた。
「カイ様、私が悪いのです」
そしてエレナへと丁重に一礼する。
「エレナ王女殿下。ご挨拶が遅れました非礼、どうかお許しください。私はこのたびカイ殿下の従者となりました、モルディス公爵家三男ベルナール・モルディスにございます。以後、お側に仕える者として、どうぞよろしくお願い申し上げます」
なんだか気に入らない。
エレナはベルナールへの嫌悪を隠そうともせず、唇を引き結んだまま黙り込んだ。
エレナが何も答えないのを見て、カイはまるでベルナールを庇うように、姉へ言葉を重ねる。
「ベルナールが来てから、私もようやく王族としての自覚を持てました。姉様が王位をお継ぎになったとき、お側でお支えできるよう、勉学も剣技ももっと励みます。これまでのように、私のわがままで姉様のお時間を奪うことはいたしません。ですから、どうかご安心ください」
まただ。
何かが、おかしい。
胸の奥をかすめるその違和感の正体をつかめないまま、エレナはカイの言葉を反芻する。
まるで突き放されたようだった。
もう自分は必要とされていないのだと、そう告げられたような気さえして、今度はエレナのほうが戸惑う。
エレナには、ベルナールがうっすらと笑ったように思えた。
そこへ、背後からコリンナが間に入る。
「エレナ様。カイ殿下のこの立派なご決意を、無下になさってはなりません。改めてお時間はお取りいたしますので、どうかお戻りくださいませ。カイ殿下、ベルナール様、失礼いたしました」
丁重に一礼しながらも、その態度はきっぱりとしていて、反論を差し挟む隙を与えない。
コリンナはそのままエレナを促し、半ば連れ出すようにしてその場を後にした。
「えっ、ちょっと、カイ。急にごめんなさい。また来るわ」
連れて行かれながら振り返ってそう告げる姉を、カイはどこか寂しげな面持ちで見送っていた。
なんなのかしら、あのベルナールという人。
モルディス公爵家は信用のおける家だ。
公爵も長男のゲイルも。ゲイルは、近衛騎士として立派に務めを果たしている。何度か話したこともあるが、人柄も穏やかで、自分より身分の低い相手だからといって無下に扱ったりはしない。今どき珍しいくらい、誠実な貴族だった。
だからこそ、その弟であるベルナールも本来なら疑う理由はない。
それでも、どうしても納得できないものが胸に残る。
それに、カイも変だった。
そうだわ。
あの子、これまでずっと「僕」と言っていたのに、急に「私」だなんて。まるで父様と話すときみたいな口調だった。
……そんなの、寂しいわ。
気づけばエレナは、カイからもらったブレスレットにそっと触れていた。
「あ……お礼を言い忘れたわ……」
あと数ヶ月もすれば、カイの祝福の儀が行われる。
エレナの胸には、言いようのない不安が静かに巣食っていた。
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