不穏な関係
ベルナールが従者になってくれて、本当に良かった。彼がいなかった頃には、もう戻りたくない。
他人ばかりの城での暮らしは、毎日が憂鬱で、どうしようもなく寂しかった。それが嘘のようだった。
今は毎日、僕のことをいちばんに考え、僕のために動いてくれる人がいる。
カミラのように、僕の中に母様の面影を探すこともない。ほかの連中のように、母様や姉様と僕を比べることもない。父様に無視されていることを、僕のせいにすることもない。
ただ僕だけを、ちゃんと見てくれる人がいる。毎日、声をかけてくれる。
それだけで、これほど心が軽くなるなんて、思ってもみなかった。
9歳の幼い王子は、ベルナールと過ごすうちに、エレナへの執着も、他人への怯えも、少しずつ薄れていくのを感じていた。 その一方で、ベルナールへの執着は、かえって強まっているようだった。
「殿下、おはようございます。本日は午前中が座学、午後が剣の訓練でございます。エレナ王女殿下とのお時間を確保しようとしたのですが……申し訳ございません。私の力不足です」
カミラがカイの支度をしていると、朝からベルナールが申し訳なさそうに謝ってきた。カイがベルナールを気にかけているのが気に入らないカミラは、わずかに表情を曇らせた。
そんなカミラの様子にはまったく気付かないカイは、姉様のことは別に気にしていないのに、と思いながら挨拶を返した。
「おはよう。うん、いいよ。それより剣の訓練かあ。あれ嫌いなんだよね。全然上達しないんだもん」
カイは、剣の訓練のたびに注意されてばかりいることを思い出し、大きくため息をついた。
カミラがすぐに叱責しようと口を開きかけたが、ベルナールが静かにそれを遮った。
「そんなことはございません。私もまだ数回しか拝見しておりませんが、殿下は訓練のたびに確かに上達されております。騎士である兄の剣技を見てきた私から見ても、十分にそう感じます」
ベルナールは穏やかな笑みを浮かべて、静かにカイを肯定した。 その言葉を聞いたカイの表情は、ふっと明るくなった。
それを見たカミラは、またわずかに表情を曇らせる。
だが、ベルナールの表情はふいに暗くなった。
「エレナ王女殿下との件は、本当に申し訳ございません。その……殿下がお渡しになりたい物があるのに、私のほうで機会を作ることができず……。どうにかいたしますので、もう少しお時間をください」
カイは、最近忘れていたブレスレットのことを思い出した。あのとき胸に残った嫌な感覚までよみがえり、表情が曇る。 それとは対照的に、カミラの表情は明るくなった。
「では、私がエレナ様にかけあいますわ。お優しいエレナ様のことです。すぐにお時間を作っていただけますよ。カミラにお任せくださいませ」
自分の出番が回ってきたとばかりに、カミラは大きな声でカイに言い切った。
「やめろ! 姉様には余計なことを言うな! もうこのことは忘れろ!」
カイが突然怒鳴りつけたことに、カミラは唖然とした。
カイは以前、ベルナールに姉様との時間をせがんだ際、エレナがどのようにして自分との時間を作っていたのかを知らされたことがあった。エレナは、カイのために急な時間を空けるたび、眠る時間を削ってそれに充てていたのだ。
そのときベルナールは、責めるでもなく、ただ静かにその事実を伝えただけだった。けれどその穏やかな口調は、かえってカイの胸に深く残った。
自分はなんて幼稚なのだろうと、あのときひどく恥ずかしかった。その感情がふたたび目の前に突きつけられたように感じ、カイは思わずカミラを怒鳴りつけてしまった。
このとき、ただ一人ベルナールだけが仄暗い笑みを浮かべていたことに、誰も気づけなかった。
カイは、はっと我に返り、呆然としているカミラに気まずそうに声をかけた。
「カミラ、今日はもう下がれ。後はベルナールに任せるから、大丈夫だ」
カイがこれまで自分に対して不服そうな顔を見せても、不敬だと思いながら、どこかで母親に向ける小さな反抗のようで、むしろ愛らしく思えていた。けれど、こんなふうに怒鳴りつけられるなど思ってもみなかった。
自分はカイにとって、離れることのない家族のような存在だと信じていた。それなのに、あっさり突き放された現実が、どうしても受け入れられなかった。
「カミラ様。いかがなさいましたか。顔色も優れないようですし、本日は殿下のお言葉に甘えられてはいかがでしょうか」
ベルナールは、いかにも心から案じているような声音で、そっとカミラに寄り添った。
自分よりも後から来た、まだ年端もいかない少年に気遣われている。その事実が、カミラには耐えがたいほどの屈辱だった。
しかもその少年は、何ひとつ棘のあることなど言っていない。ただ純粋な善意から手を差し伸べているようにしか見えない。それがなおさら、カミラの惨めさを深くした。
ベルナールの存在をまるで視界から外すように、カミラはカイにだけ挨拶をした。 そして返事も待たず、その場を後にした。
カイは、カミラが去っていった扉を見つめ、ふうとため息をついた。
「ベルナール、すまない。カミラに悪気はないんだ。私がずっと甘やかしすぎていたから、ああいう振る舞いをしてしまったんだろうな」
「とんでもございません。私のような者に、殿下が謝られる必要はございません。私が至らぬばかりに、カミラ様を不快にさせてしまったのでしょう。……カミラ様は女官ではなく、乳母でいらっしゃると伺いましたが、そうなのですか」
「そうだ」カイはなんてことないように返事をしたがベルナールの表情が曇り不安になる。
「殿下はもう9歳でいらっしゃいます。乳母が毎日のようにお側に控えるのは、そろそろ卒業なさる頃合いかと存じます。城には王族にお仕えするにふさわしい者も多くおりますし、身の回りのお世話に困ることはございません。カミラ様も、これまで殿下のおそばで十分にお務めを果たしてこられました。これ以上お引き留めするよりは、少しお休みになれる時間を差し上げるほうが、お優しいのではございませんか」
カイは、その言葉にわずかに戸惑った。
たしかにカミラを煩わしく思うことはあった。何かにつけて口を出され、子ども扱いされるのが鬱陶しく感じられることもある。
けれど、いつもそこにいるのが当たり前だったぶん、いなくなると思うと胸の奥が落ち着かない。あの姿が見えないだけで、ひどく心細くなりそうだった。
それでも、宮中のしきたりに明るくないカイには、ベルナールが穏やかに告げるそれが、もっともな話であるように思えた。
カミラのためでもあると言われてしまえば、なおさら否む理由が見つからない。
不安は残るのに、それを口にするのは幼く思えて、カイは曖昧に唇を引き結ぶことしかできなかった。
ベルナールが慌てたように深く頭を下げ、早口に言い募る。
「申し訳ございません。私のような一介の従者が、殿下に不敬なことを申しました。どうかお許しください。カミラ様は殿下にとって大切な乳母様です。たとえ周囲が何を申そうと、このままお側に置かれることこそ、殿下のご安心につながりましょう」
その言葉に、カイは胸の奥がひやりとした。
いまのベルナールは、まるで自分とのあいだに一歩線を引いたようだった。
さっきまで近くにいたはずなのに、急に遠くへ離れてしまった気がして、ひどく寂しい。
けれど同時に、カイは悟る。
ベルナールがわざわざこうして言い繕わなければならないほど、乳母がいつまでもべったりと付き従うのは、やはり人目にはおかしいのだ。
「いいんだ、ベルナール。私も、そろそろカミラには休んでもらおうと思っていたのだ。お前もいてくれるし、この機会に、カミラには暇を出すことにしよう」
そう言って、カイはベルナールの肩にそっと手を置き、笑みを向けた。
こうしてカイの身の回りには、ベルナールだけが絶えず付き従うようになった。
ほかの者は定期的に差し替えられ、ただ務めを果たしては去っていく。
カイの日々に居場所を持つ者は、ベルナールただ一人へと絞られていった。
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