日常
「また、あの子だわ」
フリージアは、家の屋根にとまっている大きな真っ黒の烏を見上げてつぶやいた。
横を歩くレオンは特に気にとめる様子もなく、門扉を押しあけて、中へ入ると荷車を引いていたベルトから器用に頭を抜いた。そして、大きな身体をぶるぶると振るわせた。
「あら、ごめんなさいね。重たかったでしょう? お疲れさま。今、水を用意するわね」
そう言って、手に持っていた籠をそっと地面に置く。
テッテッテッと薬草畑の横にある手押しポンプへ駆け寄ろうとしたそのとき、レオンがそれより早く井戸へ走り、両前脚をポンプに掛けて体重を乗せ、押し始めた。
「くわん!」と、まるでどうってことないよ。と言うようにほえた。
「ふふ。ありがとう、レオン。でも、これは私の仕事よ。交代してちょうだい」
彼女がポンプを押すと、中に据え付けられた魔法石が反応し、浄化された水が勢いよくあふれ出した。
レオンが桶にたまった水を飲んでいるあいだに、フリージアはブラシを手に取り、毛並みに沿って汚れを落としていく。
レオンは、八歳くらいの私がまたがって乗れるほど大きな、白銀の狼だ。だからこのブラッシングはなかなか骨の折れる作業だけれど、レオンが可愛いのだから仕方がない。
「ねぇ、レオン。あの子って烏なのかしら? 瞳も赤いし、体も大鷲くらい大きいわよね。ん? じゃあ、あの子って鷲なのかしら?」
レオンは桶に口をつけたまま水を飲み、「うわふ」とひと鳴きする。
さあね、どうでもいいよ。そう言っているみたい。
そんなふうに話していると、家の扉が開き、笑顔のカリンさんが顔を出した。
「お帰り、フリージア、レオン。ご飯の用意ができているから、荷物を運んでご飯にしましょう」
「ただいま、カリンさん! 今日もあの子が来てるのよ。屋根の上に──って、いない。あれ? 帰っちゃったのかな?」
「いつも言っている、あの烏のこと? お家に帰ったのかもしれないわね。さあ、二人ともお家に入りましょう。今日は鶏肉も焼いたのよ」
鶏肉という言葉を聞いたレオンの耳がぴくりと動き、ぱっと顔を上げる。
そして次の瞬間、しっぽをぶんぶん振りながら、うれしそうに家の中へ駆け込んでいった。
カリンさんは、この迷いの森に住む魔女だという。前に町の人たちがそう噂していた。
私とレオンが森の中で倒れていたところを、カリンさんは見つけて助けてくれた。
目を覚ましたとき、私は自分の名前も年齢も、どこに住んでいたのかも覚えていなかった。
傍らにいたレオンの名前だけは覚えていたが、それだけではどうすることもできない。心細さに震える私に、「ここにいたらいい」と、怯えて震えていた私を、カリンさんはそっと抱きしめてくれた。
胸の奥のこわさが、少しずつほどけていく気がした。
私が見つかったのはフリージアの花畑だったので、カリンさんは私にフリージアという名前をつけてくれた。
それからおよそ四か月、私はカリンさんとレオンと一緒に、この森で暮らしている。
暮らし始めた頃は、私の生活用品をそろえたり、ギルドに行方不明の届け出が出ていないか確かめに行ったり、慣れない家事に追われたりと、大変な毎日だった。
今ではそんな暮らしにも慣れ、週に三回、カリンさんが作った薬をレオンと一緒に町へ売りに行っている。
もともとは週に一度、カリンさんが自ら町へ売りに出ていたが、国内の内戦の影響と薬の評判の高まりで、いまや週三回まで増えたのだ。
そのおかげで、自分が何者なのかと不安に沈むひまもないほど、日々は忙しく過ぎていく。
幸い、子どもの身にしては珍しく文字が読めて、計算もできた。
今では、私とレオンが薬を売りに行き、帰りに食材や生活用品を買い込んでくる役目を担っている。
「パンがね、すっごく高くなってたの。
でも、その分って言ったら変かもしれないけど……っ、うぐ。薬も高く売れたのよ。
何だか、町の中にケガをした人が増えてる気がするの」
その高くなったパンをスープに浸し、頬張りながらフリージアはカリンに話しかけた。
「あらあらあら、フリージアったら。食べるか話すか、どっちかにしないと」
幸せそうに笑いながら、カリンがフリージアの口の周りについたスープを拭ってやる。
レオンは「わふ!」と咎めるようにフリージアに吠えるが、当のレオンの口元も、スープで盛大に汚れていた。
「そんなふうに気づけるフリージアは、本当に賢いわね。私の自慢よ。
そうだわ、今度からパンは一緒に作りましょうか。節約にもなるし、何より一緒に作るのは楽しいわよ」
「それがいいわ! 前に猫の形のパンが売っていたの。すっごく可愛かったのよね。
レオンの形のパンを焼きましょう!」
食事中だというのに、フリージアは興奮して勢いよく立ち上がる。
レオンが腰のリボンをくわえてぐいっと引き、「わふわふ」と吠えながら座らせた。何か言っているようだが、フリージアは聞こえないふりをする。
「ふふふ、楽しみね。さあ、早く食べて片付けて寝ましょう。明日も早いわよ」
こうして、いつもの夜が静かに過ぎていく。
窓の外。門の上には、赤い瞳の烏が一羽、じっと家の中をうかがっていた。




