5・老王の陰謀、地獄の始まり
どくん、とアルベルティーヌの心臓が跳ねた。
(……この方たちは、知っているの?)
恥知らずの売女。宝冠をかぶった娼婦。浪費女。王太后となってから、フレデリクにはさんざん罵倒されてきた。まともに名を呼ばれたことはほとんどない。
真実を知るごくわずかな廷臣やアルベルティーヌの『愛人』たち、実家の母と兄、そしてニコレット以外の誰もが、フレデリクの言い分を信じた。実父であるマルタンが娘の醜聞に抗議するどころか、娘の罪を償うためにも王に尽くすと宣言したせいだ。
悪女王太后。
あの逃げ場のない王宮で、アルベルティーヌはそう呼ばれ、さげすまれていた。未亡人の身でありながらあまたの愛人をはべらせ、贅沢な暮らしを欲しいままにする女だと。
対して悪女の牛耳る王宮で辛酸を舐めながら成長し、とうとう王位に就いたフレデリクは、希望の王と呼ばれていた。帝国皇女を娶れば、その名声と人気は王国全土にとどろくはず――だったのだが。
「つがい様の悪評は、宰相。貴方が意図的に広めたものですね」
ヨゼフィーネ皇女の口調に迷いはなく、自信に満ちていた。ああ、とアルベルティーヌは納得する。
主人だけに忠実なニコレットが、なぜ大人しく控えているのか。それは異国からやって来た彼らこそが、真実を正しく理解していたからだったのだ。
「……どういう、こと、だ」
フレデリクが倒れたまま切れ切れに尋ねる。蹴られた脇腹は痛むようだが、うまく加減してくれたのか、動けなくなるほどのダメージではないらしい。
「そのままの意味ですわ。八年前、陛下の祖父君であられる先王ジェローム様が亡くなる間際、つがい様はなにも知らされぬままジェローム様の枕元に連れて来られ、ジェローム様との婚姻誓約書にサインをさせられた。それから間もなくジェローム様が亡くなり、なし崩し的に王太后にされたにもかかわらず、老い先短い王をたぶらかした末恐ろしい悪女だと貴方に吹き込んだのは宰相でしょう?」
「っ……!」
フレデリクが息を呑むのと同時に、アルベルティーヌも胸の痛みを感じた。何年経っても、あの日のことは忘れられない。
アルベルティーヌはモンタイト公爵家の末っ子長女として生まれ、何不自由なく育てられた。宰相を務める父マルタンと深窓の令嬢だった母は政略結婚とは思えぬほど夫婦仲が良く、跡継ぎの兄も遅くに生まれたアルベルティーヌを可愛がってくれた。
公爵家は長兄が継ぐし、政略結婚の必要もない。アルベルティーヌには家族ぐるみで仲の良い侯爵家の嫡男との婚約が調い、いずれ両親のような温かい家庭を築くのだと夢見ていた。
……だが、八年前。
十五歳になったばかりのころ、アルベルティーヌの運命は急変した。
『王宮へ行く。支度はいい、急いでくれ』
いつも穏やかなマルタンが寝支度を始めようとしていたアルベルティーヌを連れ出し、馬車に乗せた。ニコレットの同行さえも許されず、馬車の中にはマルタンとアルベルティーヌの二人きりだった。おそらく母や兄もマルタンの行動を知らないだろう。
王宮に到着すると、ひとけのない通路をたどり、薄暗い部屋へ連れて行かれた。薬と消毒の匂いがたちこめたそこが父の主君、ジェローム王の寝室だと知ったのは、すべてが終わった後だ。
ジェローム王は若くして即位し、三十年以上玉座を温めてきた、経験豊かな老王だった。
亡き王妃との間に生まれた一粒種の王太子は妃を娶り、フレデリクという王子も生まれている。そろそろ息子に王位を譲り、晩年を穏やかに過ごそうとしていた王を襲った思いがけぬ不幸については、アルベルティーヌも知っている。
三月ほど前、地方視察の旅に出ていた王太子夫妻が事故死したのだ。
期待をかけていた息子夫婦の突然の死は、ジェローム王の弱りつつあった心臓に大きな痛手をもたらした。いかなる薬も治癒魔法も効果はなく、息子の後を追うのも時間の問題ではないかとまことしやかに噂されていたのだ。
噂は真実だったと、アルベルティーヌはベッドに横たわるジェローム王を一目見た瞬間に悟った。枯れ木のごとく痩せ細った王は濃厚な死の気配に包まれ、生きているのが不思議なほどやつれ果てていた。
『来たか、マルタンの娘。……ここへ』
ぎらつく目で促されても、恐ろしくて一歩も動けなかった。マルタンに背中を押されてようやく王の枕元に近寄ると、そこには金箔で美しく装飾された書面――婚姻誓約書があった。王侯貴族が正式な婚姻を結ぶ際、交わす書面だ。
花婿の欄には乱れた字でジェローム王の名が記され、花嫁の欄は空白である。マルタンが無言でアルベルティーヌにペンを握らせた。
『……お父様、まさか……』
『サインしなさい、ティーヌ。お前は陛下の妃となる誉れを与えられるのだ』
敬愛する父親が、まるで知らない人に見えた。悪魔が父に乗り移り、操っているのかとさえ。
だって、アルベルティーヌは。
『なんの問題もない。今の陛下は独り身であられる』
確かにジェローム王の妃、亡き王太子の母であった女性は数年前に病死している。だがアルベルティーヌが言いたいのはそんなことじゃない。
『わ、私には婚約者がおります! それに陛下は、私の祖父よりも年上で……っ』
『婚約は破棄させる。年齢など、王妃の栄誉の前ではさしたる問題ではない』
『お父様……、なぜ突然このような……』
侯爵家への輿入れを、マルタンは寂しがりつつも喜んでくれていたはずだった。
それに王妃になるのは貴族の娘としてこの上ない名誉かもしれないが、祖父ほど歳の離れた、しかも早晩確実に亡くなるとわかっている相手と結婚させるなど、まともな父親のすることではない。
『ティーヌ……』
マルタンは罪悪感に顔をゆがめ、なにか言おうとしたが、その前にジェローム王が苦しげに咳き込んだ。ひゅう、ひゅうう、と、谷底を吹き抜ける風にも似た呼吸を繰り返し、アルベルティーヌを睨む。
『時間が……、ない。早う……!』
『はっ!』
マルタンはアルベルティーヌの手を掴むと、婚姻誓約書にペンを走らせた。アルベルティーヌは必死に抵抗したが、男の力には抗いきれず、無理やりサインさせられてしまう。
いびつな、家族なら決してアルベルティーヌのものだとは思わないだろう筆跡のサインをぎらつく目で見つめ、ジェローム王は満足そうに息を吐いた。
『……よく、やってくれた、マルタン。そなたの献身、地獄に落ちようとも忘れぬ』
『陛下……』
『余を恨め、マルタンの娘。そなたにはその資格がある』
ジェローム王はやり遂げたように痩せた身体をベッドに沈め、目を閉じた。
その目が再び開くことはなかった。




